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博士論文要旨

論文題目:オトは流れてヒトは往く―戦後日本の米軍基地と音楽1945-58―
著者:青木 深 (AOKI, Shin)
博士号取得年月日:2009年7月31日

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 戦後日本の米軍基地における音楽を対象とする本論は、経験科学が不可避的に直面する難題、すなわち言語と時間をめぐる難題―現実と言語との決定的な乖離、時間的で流動的である生に対して記述という固定的形式―に新たな角度から挑んだ実験的論文である。
 
 1945年8月28日、米陸軍第11空挺師団の先遣隊が神奈川県厚木飛行場に到着し、日本「本土」占領は始まった。1945-46年の進駐人員は40万を超え、その後に減少はしたが、1940-50年代には全国各地に米軍基地が置かれていた。来日した米軍将兵・軍属・家族らの出身地域は、米国本土各地はむろん、ハワイ、プエルトリコ、フィリピン、ヨーロッパ諸地域や中南米にも広がっていた。日本の米軍基地に数ヶ月-数年間継続的に駐留したのは、主には陸軍や海兵隊の将兵だった。空軍や海軍航空隊の将兵は太平洋・極東各地と日本の基地の間で飛行を繰り返し、海軍の将兵は、洋上任務の間に海軍基地(横須賀と佐世保)に寄港した。朝鮮戦争勃発後、1950年末には戦時帰休制度が始まり、5日間(後に7日間)の戦時休暇を得た陸軍将兵が次々に来日した。これは休戦協定(1953年7月27日)後も継続し、1958年5月には100万人目の帰休兵が来日した。1945年8月末から1958年までに来日した米軍将兵は、空軍基地や海軍基地を去来した将兵、そのほか短期任務や戦時休暇の来日者、軍病院に搬送された傷病兵も加えれば、数百万をくだらない。滞日中の彼/彼女らは軍事訓練や組織維持業務のほか余暇時間も過ごし、基地内や接収建物に設置された米軍将兵向けクラブや劇場、基地周辺で営業したキャバレーやバーなども訪れた。そこではレコード再生やラジオ放送の音楽が流れていることもあり、日本の楽団(ジャズ、カントリー&ウエスタン、ハワイアン、交響楽団、邦楽、ほか)が演奏を供することもあった。基地や接収建物のクラブでは、日本の芸人やダンサーから成るバラエティ・ショー(曲芸、奇術、アクロバット、ダンス、コーラス、ステージ漫画ほか)も上演された。こうしたバンドやショーの中には、日本人のほか―少数だが―フィリピン人、韓国・朝鮮人、中国人、欧州人の演奏者や芸人も含まれた。米軍クラブや劇場、軍病院、基地や接収建物に置かれた教会などでは、陸海空軍の軍楽隊や、そのほか米軍将兵・軍属による演奏も行われた。1945-47年および1951年以降は、米軍慰問派遣団体USOが組織した慰問団も多く来日した。また、基地内の宿舎や野外で、あるいは知り合った日本人の住宅や商店で、米軍将兵がみずから歌い演奏することや、日本人の歌や演奏を聞く機会もあった。
 戦後日本の米軍基地では、このように様々な音楽が経験されていた。本論では、音楽という経験においてとりわけ鮮明な一つの事実、すなわち、生きられる経験は常に時間的/瞬間的であるという事実が最大限に重視される。米軍クラブやキャバレーでのパーティー、基地近くのバーで鳴るレコード、基地内教会での礼拝、閲兵での軍楽隊演奏ほか、特定の米軍将兵が日本で音楽を経験したその(・・)時間(・・)に(・)は(・)、彼以外の米軍将兵、日本のバンドや芸能斡旋業者、クラブや店の従業員ほか、複数の人々が同時的にその音楽を経験していた。一人の米兵が日本の複数地域を訪れることも多く、日本の音楽・芸能関係者も複数の米軍基地に出演した。1940-50年代、戦後日本と米軍をめぐる従来の歴史的知識からは不可視の次元では、生死ある様々な人々が流動しつつ、無数の「音楽が鳴っている時間/瞬間」を経験していた。本論ではこの種の現実に取り組むべく、以下の方法的問題関心を提出した。すなわち、戦後日本の米軍基地で経験された無数の音楽つまり個々(・・)の(・)具体的(・・・)な(・)時間(・・)/瞬間(・・)に接近することは、どのようにすれば可能か。現実の流動性・混在性を、それ自体は固定的な形式である記述において喚起する方法は、どのようにすれば可能か。こうした方法的問題を提起した本論では、その方法を案出し、それを記述実践することそのものが目的となった。
 本論は3部構成をとっており、第1部(1-2章)は問題提起、第2部(3-4章)は方法の記述実践(記述編)、第3部(5章)が総括と位置づけられる。
 第1部は1章と2章からなる。1章ではまず先行研究―終戦後の日本、米軍、戦後日本のポピュラー音楽に関連する諸研究―を整理し、本論に独自な着眼点を抽出した。すなわち本論は、(1)数年間・数ヶ月・数日間を滞日した米軍将兵の経験、とりわけ音楽をめぐる彼/彼女らの経験(米軍将兵自身の音楽活動も含む)に着眼する。また、(2)日本の音楽・芸能関係者の米軍慰問経験のうち、首都圏だけでなく、北海道から九州にいたる全国各地に視線を向ける。以上2点において、本論は既存研究の欠落を指摘し、それを埋める研究と位置づけられた。1章ではこれを指摘した上で上述の方法的問題関心を詳述し、その延長上に、第2部で実践する手法「細分化・拡散化・流動化アプローチ」を提示した。現実の流動性・混在性に流されるこの手法では、視線を個別具体的かつ多方向的に細分・拡散し、人やモノの流動につきしたがう。すなわち、「特定の建物や地面を誰/何がどこから去来したのか。誰/何が演奏したのか。被取材者や文献に登場する人々は、どこで音楽を聞いた/演奏したのか。そこで誰/何と出会ったのか。何を経験したのか。誰/何とすれちがったのか」という具象的な問いに留まり続け、個々人やモノの交差―出会いとすれちがい―を連鎖的に辿る。米軍将兵、彼らの家族、彼らの恋人、彼らの「買春相手」、日本の演奏家や芸人、従業員、ダンス・ホステス、楽器、レコード、楽譜、土産物などの去来と交差につきしたがい、「一筆書き」を延々と続ける。この記述の過程では、地理的には分離した諸地域で生きられた様々な時間/瞬間が、また因果的・合理的には不連続の出来事が、時系列を跳躍的に「前後」しながら断続していく。一つ一つの人々・モノ・建物・地面は他から隔絶した凝固状態にあったのではなく、互いに遭遇し、すれちがい、音楽に接しながら流動していた。流動性・混在性に流されるこの手法をとおして、すなわち、記述自体が混在性・流動性・瞬間性を帯びることをとおして、現実のそうした相貌の効果的な喚起を狙った。
 方法提示に続く2章では研究範囲の概要を示し、第2部へ進む準備を整えた。初めに地理的範囲(「本土」の米軍基地)と年代的範囲(1945年8月末-1958年)の含意を述べた。本論は、「本土」から行政的に切り離された沖縄県は除外し、米軍基地が全国的に所在し多数の米軍将兵が来日した時期として、1958年までを年代範囲とする。占領終結は1952年だが朝鮮戦争は1953年まで継続しており、米軍地上戦闘部隊の「本土」撤退は1958年であった。2章ではこのほか、駐留将兵の数的変遷と大量の去来―朝鮮戦争の戦時休暇、傷病入院、軍務など―を、具体的な数字を示しながら明らかにした。また米軍基地・接収建物の全国的一覧(北海道から九州まで)を作成し、接収前の状況、接収時の用途や駐留部隊、接収時期、現状をまとめた資料を提示した。2章の後半では、2000-08年に実施した文献調査およびインタビュー調査(日本の音楽・芸能関係者と米軍退役者ら約150名への取材)の経緯と使用資料を報告した。
 第2部記述編は3章と4章からなる。ここでは上述した方法を展開し、2段組で計360ページ強(脚注も入れた文字数は約70万字)にわたってすべてを「一筆書き」した。インタビュー、同時代の新聞・雑誌(米軍発行の日刊紙「星条旗新聞太平洋版」など)、写真、地図、回想録など諸資料を検討しつつ、全国各地の米軍基地で経験された多数の音楽、様々な時間/瞬間の痕跡を一つずつ辿った。前記「細分化・拡散化・流動化アプローチ」を実践しながら、約1,000件に及ぶ脚注(脚注では資料批判のほか、経済的・政治的・社会的背景の説明などを行った)も加え、3種類のコラムも各所で挿入した。それぞれ以下の性格を持つコラムである。【間奏的挿話】(筆者自身と被取材者との遭遇をも記述しながら、彼/彼女らが生きた濃密な時間/瞬間を喚起することを試みた)、≪拡大的割注≫(米軍慰問団USO、芸能斡旋、米軍の人種分離と人種統合、フィリピン人バンド、米軍の生活物資など、幾つかの事項を説明的に叙述した)、{記述編解説}(展開している方法と記述の効果を論じた)、の3種である。すれちがいを多く含む交差の流れにおいては、筆者自身(やおそらく読者)もそこに巻き込まれる瞬間が何度か現れた。3章は、筆者が育った場所の近くが一時期は米軍向けダンスホール(鎌倉の「リビエラ」)だったという事実―すれちがい(交差)―から記述が始まった。この事実の紹介に続いてそこで演奏した人物へと移行し、「誰が、何が、どこで、いつ」という具象レベルの交差を辿る手法が展開されていった。約180ページをへて3章は「リビエラ」に戻って終了し、そのまま4章も「リビエラ」から始まった。「リビエラ」は米軍発行新聞に取材されており、4章ではまず、取材した米兵記者が生きた別の時間を辿った。そして同様の方法で記述を続けた。3章の見出しは計55個だが、最初の数個は次のものである。[1: 鎌倉の「リビエラ」、東京海上ビル]、[2:宝塚歌劇団、箱根富士屋ホテル、≪拡大的割注A1: USOショー(1941-47)≫]、[3: 有楽ホテル、札幌マックネア劇場]、[4: 札幌近辺を去来する、【間奏的挿話A1: イーストLAの日章旗】]。4章では、最初の数個の見出しは以下のものだった。[1: 鎌倉の「リビエラ」、ジプシー・マーコフ、東京放送会館]、[2: ジョニー・ベイカー、東山ダンスホール]、[3: マリアノ・マウラウィン、京都ステイトサイド劇場]、[4: ニック・ニシモトが撮影した京都、【間奏的挿話B1: キャンプ大津とハワイの人々1949-50年】]。4章の見出しは計59個に及び、最後の数個は次のものだった。[56: 松旭斎天勝一座を通過して、【間奏的挿話B10: ミセス・テンダラー】]、[57: 戦死者の遺体が去来する]、[58: 別府キャンプ・チカマウガと小倉R&Rセンター]、[59: 小倉を去来したプエルトリコ兵たち、【間奏的挿話B11: ギターを買って戦地に持ち帰った】]、である。最後の【間奏的挿話】は、次のような回想を記述したものだった。
 
 5日間の戦時休暇で小倉を来訪した一人のプエルトリコ兵はPX(軍の売店)でギターを購入し、それを朝鮮戦線に持ち帰った。彼は、韓国の戦災孤児を前にしてそのギターを弾き歌った(これを回想しながら、彼は筆者の前で「アリラン」を歌った)。

戦後日本の米軍基地では、帰休兵、駐留した将兵、日本の米軍病院に入院した傷病兵、米軍慰問に回った日本の演奏家・歌手・芸人らが、無数の音楽を経験していた。具体的な建物や地面の上で生きられた様々な時間/瞬間、第2部の厖大な記述は、その一つ一つに光を当てた。
 第3部(5章)では、第1部の問題提起と第2部記述編とを照応させながら総括した。記述編では、米国内各地(および米国外)から入隊した米軍将兵の滞日経験、および全国各地の米軍慰問活動を微細に記述し、戦後日本の米軍と音楽に関連する新たな諸事実を明らかにしてきた。5章では、まず本論の記録としての意義を具体的に確認した上で、方法実験の効果と意義を考察した。その論点は以下の2点である。
 (1)1章で提示した方法的問題関心を振り返り、本論を次のように位置づけた。本論は、現実の表象不可能性を了解しつつもその表象不可能な次元にこだわり、そこに向けて新たな角度からアプローチする試みであった、と。言語が経験を表象しえないことは事実だが、経験には、それを意識したり伝達したりするのとは異なる次元、すなわち時間的/瞬間的な次元―時間性/瞬間性―が存在する。言語から「自由な」経験は想定しがたい。しかし、時間的かつ流動的なものである生は、言語と等号(イコール)では結べない。本論は、この事実に留まって新たな方法を試みたものだった。360ページ強の記述を続けた第2部では、断片的で厖大な言葉の積み重ねを通じて、逆説的に、重ねられたその言葉では到達しえない無数の時間/瞬間の存在を喚起した。第2部で記述された回想や同時代の記録は、他者にも理解できるように語られた言説ではあるが、しかしそれが表象しえない次元には、言語化されえない濃密な時間/瞬間が存在した。第2部では、音が鳴らされた楽器、実際に演奏された曲の名前、現実に存在した建物の名前、そして「この世」に生きていた人々の名前を一(・)つ(・)一つ(・・)挙げながら(・・・・・)、このことを示してきた。米軍が戦後日本に大挙して駐留したことは自明の歴史的事実であり、日本人バンドの米軍慰問に関しても、一定程度の知識は蓄積されている。しかし、歴史的事象として与えられる明快で滑らかな知識の不可視の次元では、生死ある様々な人が混在し流動しながら、無数の時間/瞬間を経験していた。本論は、その要約しえぬ相貌を、具象性に徹する記述を通じて喚起した。経験された個々の時間/瞬間に接近する方法の模索という問題関心は、詩や文学など芸術に属する問題と理解されがちである。しかし、音楽においてとりわけ鮮烈に現れるこの問題は人間の生において無視しえない局面であり、経験世界に留まりながらこの問題と格闘することも、人文社会科学に課せられた重要な課題と言える。現実の表象不可能性を前提に、しかしそこにどのように接近するか。個々の経験の時間性/瞬間性、現実の混在性や流動性を思想として語るのではなく、経験世界から出発した考察と記述において、それをどのように喚起するか。本論はこの挑戦的課題に取り組み、それを完遂した実験的研究だった。経験対象を扱う歴史研究や文化人類学は、現実の表象不可能性という根本的問題を突きつけられて以降、この問題に苦しみつつも、時間的かつ流動的な現実への直接的アプローチを成しえてこなかった。本論はその「解決策」を提示したものではないが、一つの突破口(への通路)は示したものであると自己評価された。
 (2)第2部記述編がどのような知見をもたらしたのかを考察した。筆者自身が巻き込まれながら記述される第2部は、経験の時間性/瞬間性を最大限に意識した帰結として、自他の関係をまったく新しい視界のもとに浮上させた。合理的また「常識的」な観点から考えれば、筆者(や読者)は、本論で取り上げた個々の経験とは無関係である。しかし筆者が(おそらく読者も)生きた幾つかの時間は、「一筆書き」で続く記述編のどこかで交差する。この事実は以下の知見を示した。すなわち、「私(たち)」が経験した幾つかの時間(・・)は、「私(たち)」とは無関係な人々が生きた幾つかの時間(・・)から、わずか数人・数個・数軒・数箇所しか離れていない。具体的な建物や地面を去来する人やモノの交差にしたがい続けることによって、時空間的に離れた出来事が、身体的・情動的な「近さ」の感覚を伴う瞬間的関係において把握される。「自己」「他者」いずれの範疇に入ろうとも、誰(・)で(・)あれ(・・)人間は他から隔絶した凝固状態では存在しえず、生はつねに時間的かつ流動的である。第2部記述編において、自他をめぐる関係は、以下のような視界のもとに現れた。すなわち、時間性を捨象して抽象的に理解される「自他」の問題としてではなく、アナタとワタシが別々に生きた幾つかの時間(・・)が、跳躍的・瞬間的に遭遇する経験として浮上した。近代的時空間の座標軸を破るこの知見は、さらに次のような方法的可能性を示す。現実の人間の生においては、過去と現在は、身体的・情動的感覚を伴いつつ跳躍的に往来し続けている。研究者たる筆者(やおそらく読者)や本研究の被取材者は、近代的時間意識を内面化してはいるが常に時系列を確認しながら生きているわけではなく、跳躍的で情動的な時間感覚をも生きている。この柔軟な時間感覚は、「記憶」や「時間意識」として論じられるだけのものではなく、経験世界を研究する方法として、自覚的かつ積極的に導入される価値を有している。本論は、この種の時間感覚が方法化されうることを実践的に示した。本論の手法「細分化・拡散化・流動化アプローチ」は、過去から未来へと単線的に進行する時間軸を何度も「前後」しながら、時空間の座標軸は維持しつつも、それを跳躍的に動いていくものである。第2部ではこの方法を徹底しつつ、インタビュー、新聞や雑誌など同時代の文書記録、写真、地図、「現存」するモノ・建物・地面、回想録などを多角的に検討し、「過去」の様々な時間/瞬間だけでなく、それらと接近しうる「現在」の時間/瞬間をも記述した。一貫して重視されたのは、理解可能なものとすべく集約された「歴史」ではなく、誰(・)か(・)が(・)どこ(・・)か(・)で(・)生きた(・・・)具体的な時間/瞬間の一つ一つである。もちろん、近代的時間軸の均質な連続性に忠実な歴史記述の意義は、今でも失われていない。しかしその相対性を積極的に受け止め、柔軟で跳躍的な時間感覚と学術論文とが接触することをとおして、より多様な方法的可能性も開けてくる。本論は、これを実験的に展開したものであった。
 以上2点の議論をさらに抽象して総括すれば、次のようになる。本論が提起すると同時に実践した方法は、言語と時間という問題に新たな角度から挑むものであった。経験対象に出会い何らかの記述をする人文社会科学の実践的営為は、言語と時間をめぐる難題―現実と言語との決定的な乖離、時間的で流動的である生に対して記述という固定的形式―を必然的に抱え込む。本論はこの問題に正面から取り組み、その解消不可能性を受容しつつも、従来の手法を相対化しながら新たな方向を模索したものだった。本論では、戦後日本の米軍基地における音楽という流動的で混在的な現実に導かれながら、独自に案出した手法を貫徹した。本論はこの意味で、経験対象を観察し考察する多様な研究の参照例として開かれる。

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