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博士論文要旨

論文題目:自傷行為の社会学的分析 ――嗜癖性とコミュニケーション資源という二つの側面に着目して――
著者:戸高 七菜 (TODAKA, Nana)
博士号取得年月日:2009年3月23日

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1 問題の所在
 近年,自傷行為に対する社会的関心が高まっている.2000年代に入ってから,自傷行為経験者による手記やルポルタージュが相次いで出版され,少女マンガでも登場人物が自傷行為を行う様子が描かれるようになるなど,その関心は精神医療の現場を超えた広がりをみせている.
 少女マンガなどで自傷行為がとりあげられたことや,インターネットが普及し,自傷行為の傷痕を撮影した写真や日記が掲載されたホームページ(いわゆる「自傷系サイト」)に簡単にアクセスできるようになったことが,自傷行為の広がりに影響を与えているのではないかという懸念もある.
 しかし,自傷行為を描いたマンガや「自傷系サイト」が流行するのは,それが共感を持って受け入れられる素地が読者の側にあったからでもある.さらに,興味本位であっても自傷行為を行い,その後も行い続ける層がいたからこそ,自傷行為はこれだけの広がりを見せたのだとも言える.マンガやインターネットの流行は問題の表層であって,現代社会で育つ子どもたちが共感とリアリティを持ってそれを受け入れていることの深部には何があるのか問わなければ,今日の自傷行為の流行を読み解くことは難しいだろう.
 たとえば,中学生の8.9%(男子8.3%,女子9.0%),女子高校生の14.3%,大学生の3.3%(男子3.1%,女子3.5%)という高い割合でカッティングがみられたという調査報告がある(松本・山口2006,山口 2007). 子どもたちがこれだけの割合で自傷行為を行っているのだとすれば,自傷行為は,個人的な病理ではなく,現代の社会に育つことの困難が表出されたひとつの形として捉えられるべきである.不登校が当初学校恐怖症というかたちで臨床精神医療の場で問題化され,その後子どもの個人的問題から学校のあり方を問い直す教育問題へと捉えなおされていったように,自傷行為も,個人的病理という理解をこえて,現代社会で育ち生きていくことの困難を浮かび上がらせ,現代社会と教育のあり方を問いなおす契機として捉えられるべきであろう.
 
2 先行研究を踏まえた整理と本稿の目的
 本稿では,火のついたタバコを皮膚に押しつける,頭を壁にぶつける,処方をこえた薬物を摂取する(overdose:オーバードーズ)など,カッティング以外の行為も含めて自分を傷つける行為全般を「自傷行為」と呼び,自傷行為が刃物などで身体を切るという形で行われた際には「カッティング」と呼ぶ.その中で,手首および前腕の内側を切った場合だけを「リストカット」と呼んで区別する.
 先行研究を概観すると,自傷行為には,自分の感情を変化させることと,他者の態度や行動をコントロールすることの2つの側面があることが指摘されている.本稿では,自傷行為が行なわれる「行為」段階と,自傷行為を行ったことを他者に語り/提示する「語り/提示」段階を分析的に区別することによって,それぞれの段階における行為主体にとっての意味と機能を分析する.また,他者をコントロールしようとする側面を,試みに「コミュニケーション資源」と呼び,自傷行為によってコミュニケーションの中で他者を方向づける資源として自傷行為が用いられるコミュニケーション様式がどのように形成されたものなのかについて分析する.
 「行為」段階と「語り/提示」段階とを区別すると,少数の例外はあっても,ほとんどの自傷行為は1人きりのときに行われるので,「行為」段階では自傷行為の第一の目的は自分の意識や感情を変えることであり,自傷行為のコミュニケーション資源としての側面が問題となってくるのは「語り/提示」段階になってからであるということができるだろう.
 自傷行為のコミュニケーション資源という側面に着目すると,リストカットは現代の日本社会の文脈において,他の自傷行為と異なった独特の意味を付与されている.リストカットの特殊性としては,①自傷行為として広く認知されている行為であること,②「自殺」というイメージを強く喚起する行為であること,③人目につく部位なので,傷痕を誰にどのように提示するか(包帯を巻くか,リストバンドをつけるか,そのまま放置するか)をコントロールしやすいこと,の3点が挙げられる.
 リストカットの特殊性が特に重要になってくるのは「語り/提示」段階だが,「行為」段階においても,多様な自傷行為のバリエーションの中から,今この瞬間に自分が行う自傷行為が,後にどのように他者に語り/提示できるかを意識して選択される側面がある.そのため,「語り/提示」段階で他者を方向づける資源として利用することを意識して自傷行為が行われる場合,自傷行為の中でも二の腕や太もものカッティングよりリストカットが選択されやすいだろう.
 以上の区分を行ったうえで,自傷行為者内部にあらわれる2つのレベルでの分化に注目する.ひとつめは,行われた自傷行為を他者にどう提示し語るかという「語り/提示」段階で,他者の行動を方向づける資源として自傷行為を利用しようとする層と利用しない層への分化である.もうひとつは,「行為」段階でどんな自傷行為を行うかを選択する際に,後の「語り/提示」段階で効果的に利用できるリストカットのような自傷行為を集中的に行い/語る層と,「語り」場面での効果を意識せずに自傷行為一般を広く行い/語る層への分化である.どちらの層に分化するかにあたっては,手首自傷症候群についての一連の研究が示唆するように(たとえば,ウォルシュ&ローゼン 1988=2005),各自傷行為者が背負っている社会的文化的属性によってある種の傾向があらわれることが予想される.
 以上の整理を踏まえたうえで,本稿では,「行為」段階において自分の意識や感情を変化させるための「嗜癖としての自傷行為」と,「語り/提示」段階において他者の行動を方向づけるための「コミュニケーション資源としての自傷行為」という二つの側面を,自傷行為の特質から抽出し,前者を第2章で,後者を第3章で分析する.
 自傷行為から二つの側面を抽出して検討することによって本稿が目指すのは以下の2点である.
 ①自分の意識や感情を変化させるという側面を嗜癖性という観点から把握することで,類型論を乗り越えた一貫性のある理解を可能にするとともに,嗜癖が病として問題化されることの意味を考察することを通じて,特定の自己のあり方を規範とする後期近代の特質に迫ることを目指す(第2章).
 ②先行研究で「操作」と呼ばれて指弾されてきた「コミュニケーション資源としての自傷行為」が,ある社会的文化的な経験に強く影響されたコミュニケーション様式であることを明らかにし,そのようなコミュニケーション様式を身につけた個人に対する共感的理解を可能にするような理論の構築を目指す(第3章).

3.各章の内容
 第1章では,本稿執筆のために行われた調査の内容とインフォーマントの概略をまとめ,調査の特徴を明らかにするとともに,調査を行う上で直面した方法論上の問題について記述した.
 本稿執筆のための調査は,6名のリストカット経験者に対して行われた.インタビュー調査を断続的に行うのと平行して,彼ら/彼女らがインターネット上に公開した日記,調査者個人宛に送られてきたメールについても引用の許可を得た.これによって,インタビュー,日記,メールという,語りの場面ごとに自傷行為やその動機についての語り方がどのように揺れ動かを多角的に分析することが可能になった.
 調査を行うなかでは,<当事者>として調査を行うこと/論文を書くことが持つ危険性と意義について模索した.同じ<当事者>であっても,他者の言葉を代弁することが正当化されるわけではない.同じ<当事者>であっても,他者との間には依然として差異がある.<当事者>として語ることで,他者を代弁することが持つ暴力性はむしろ大きくなるかもしれない.しかし,<当事者>である調査者が,調査を通じて自傷行為(者)の多様性と多面性に気づいていく姿を描くことを通して,単純な理解を超えた自傷行為(者)内部の差異を浮かび上がらせ,<当事者>が調査し論文を書くことの可能性をさぐった.
 さらに,傷ついた体験についてあえて聞くという,調査を行うことが本質的に持つ暴力性について考えるなかで,「切ることの痛み」と「生きることの痛み」との不可分性について確認した.
 第2章では,「行為」の段階で,自傷行為が行為者自身にとってどのような意味や機能があるのかを,自傷行為の「嗜癖性」という観点から考察した. まず,「外傷的な事件を体験した個人は嗜癖に陥りやすい」というトラウマ論の知見を参考にしながら,ギデンズの自己アイデンティティ論を手がかりに,嗜癖が個人の病として問題化されることの意味を探求した.嗜癖がなにゆえ問題化されるのかを問うことで,「自由意志による選択」や「自己コントロール」を通じた「自己という再帰的自己自覚的達成課題」という特殊な自己のあり方が,個々人に規範として課せられている後期近代の社会の特質を逆照射することを試みた.
 次に,自傷行為の嗜癖性として,「不快気分の解消」と「衝動コントロールの喪失」という二点を分析視角として設定し,インフォーマント6名の日記/メール/インタビューでの語りから,以上の二点を端的に示していると思われる箇所を抽出し,6名全員にとって自傷行為が多かれ少なかれ嗜癖という側面を有していることを検証した.
 第3章では,「語り/提示」の段階に着目し,自傷行為をコミュニケーション資源として利用するようなコミュニケーション様式が,どのような社会的文化的属性と関連しているかを,バーンスティンの<教育>論に依拠して考察した.具体的には,他者を方向づける資源として自傷行為を利用したことがあると語った3名のインフォーマントをとりあげ,彼女たちの両親の最終学歴や職業領域と,彼女たちが家庭で経験してきた<教育>コミュニケーションとに関連性があることを分析した.
 彼女たちには,統制者が直接的な命令を避け,被統制者の自由裁量をできるだけ認めようとする「見えない<教育>実践」で行われるような<教育>コミュニケーションを経験してきた傾向がある.「見えない<教育>実践」においては,獲得者は伝達者の明示されていない期待を読み取って行動し,正当なテクストを構築することが期待される.自傷行為を資源として利用するコミュニケーション様式も,期待や要望を言語化せず,できるだけ相手に自由裁量を与えながら,自傷行為という非言語的なメッセージで自分自身の期待に添った行動をとるよう相手に影響を与えるコミュニケーション様式である.自傷行為を資源として利用するコミュニケーション様式と「見えない<教育>実践」で行われる<教育>コミュニケーションとの間には相同的な関係があり,家庭で「見えない<教育>実践」に似た<教育>コミュニケーションになじんで育つという経験が,自傷行為をコミュニケーション資源として利用する傾向を促進することを論証した.
 さらに,職業領域を生産領域と象徴統制領域とに大別すると,象徴統制領域で仕事を行っている者のほうが,「見えない<教育>実践」を支持する傾向がある.第3章でとりあげたインフォーマント3名も,両親のどちらかあるいは両方に象徴統制領域で勤務した経験があり,自傷行為をコミュニケーション資源として利用するかどうかという自傷行為者内部の分化に,社会的文化的な背景がある程度影響を与えていることを示した.
 第4章では,インフォーマント6名が,それぞれに傷つき体験を重ね,その傷つきから回復するための十分な資源に恵まれないなかで自傷行為を行うに至った経緯を,ケーススタディを通じて詳細に描いた.アルコホリックの親のもとで家庭が慢性的な緊張状態にあったり,ときに暴力をともなうようないじめの攻撃にさらされたり,アトピーや喘息などの慢性疾患を持っていたりするなど,多くのケースではリスク要因が重複している.しかし,どのケースも,それにたいする適切なケアが不十分な状態を生き抜かなければならなかった.また,傷つき体験の後遺症を抱えながら,どのような人間「にみえる」かだけでなく,どのような人間「である」かまでが再帰的な評価のまなざしにさらされる後期近代の時代特性の中で,苦しい状態を生き抜き生活するための方策として自傷行為に頼らざるをえなかった経緯を描くことで,現代社会で育つことの困難の一端を描き出した.

4 本稿の意義と今後の課題
 本稿では,自傷行為を理解するために,「行為」段階と「語り/提示」段階を分析的に区別し,それぞれの段階で自傷行為が行為主体にとってどのような意味や機能を持つかを解明することを試みた.本稿で明らかにできた自傷行為の意味と機能は以下の2点である.
 まず,「行為」段階においては,どのインフォーマントにとっても,自傷行為が自分の意識や感情を変えることを第一の目的として行われていた.そこで変化させることが目指される意識や感情は,離人感や抑うつ,不安,罪悪感など多様なバリエーションがあり,その主観的意味も「生きている実感を感じる」「ほっとする」「自分に罰を与える」などさまざまに表現されているが,「不快な感情を解消する」という共通点を持っている.また,インフォーマントは,自傷行為によって意識や感情を変化させたいという衝動をコントロールすることに困難を感じており,自傷行為もまた嗜癖の一種であるということができるだろう.
 「語り/提示」段階においては,一部のインフォーマントにとって,自傷行為は,自分自身のつらさや苦しさを非言語的に表現し,他者を自分の期待する行動へと強く拘束する影響力をもった行為である.このような自傷行為の性格を「コミュニケーション資源」として捉えると,自傷行為者内部にも自傷行為をコミュニケーション資源として利用する層と利用しない層があり,さらに,コミュニケーション資源として利用する層の内部にも,リストカットやオーバードーズのように自殺というイメージを強く喚起する自傷行為を集中的に選択する層と自傷行為一般を広く行う層との分化が見られた.
 さらに,自傷行為を資源として用いるコミュニケーション様式がどのように形成されのかを追及し,自傷行為者が,家庭において,「見えない<教育>実践」で行われるような<教育>コミュニケーションを体験していると,自傷行為を資源として利用しやすくなるという傾向があることを論証した.また,生産領域と象徴統制領域という二つの職業領域を区別したとき,象徴統制領域に従事する親の方が「見えない<教育>実践」を支持する傾向があることから,両親の職歴という社会的文化的背景と自傷行為の行い方/語り方との間に,一定の相関関係があることを示した.

 本稿の意義は以下の4点である.
 一点目は,社会的関心が高まっているにもかかわらず心理学的なアプローチが中心だった自傷行為の機能やメカニズムについて,社会学的に考察しなおしたことである.自傷行為が嗜癖として必要とされる社会的背景について考察することで,自傷行為を個人の病理としてとらえる心理学的な理解をしりぞけた.
 第二に,自傷行為で緊張を発散することがなにゆえ希求されるのかを問うことで,自己コントロールを行っていくことが規範として迫られている後期近代に独特の自己のあり方,不安定な関係性のあり方を逆照射し,個々人に強い緊張をもたらす後期近代の時代特性を浮かび上がらせた.
 第三に,自傷行為(者)内部の差異や多様性を示すだけでなく,両親の学歴・職歴と家庭で行われてきた<教育>コミュニケーションに注目することで,自傷行為の行い方/語り方と社会的文化的属性とに関連があることを論証した.
 第四に,自傷行為者が「操作」と呼ばれるようなコミュニケーション様式をとってしまうことが,成長の過程でどのような<教育>コミュニケーションになじんで育ったかの影響であることを示し,そのようなコミュニケーション様式を身につけてしまった個人に対する共感的な理解をさしむける可能性を示した.

 以上のような意義はあったが,残された課題についてもまとめておきたい.今後の課題は以下の3点である.
 第一に,本稿では,自傷行為が嗜癖の一種であること,自傷行為の行い方/語り方とある社会的文化的属性との間に関連があることを論証できたが,ケース数が少ないため,嗜癖性とコミュニケーション資源という自傷行為の2側面が,自傷行為者全般に当てはまるかどうかについては,今後も新たなインフォーマントを募りケース数を増やして検証していく必要がある.
 第二に,本稿で用いた資料の性質上,家庭で行われた<教育>コミュニケーションを子どもの側がどのようなものとして体験したかについては詳しく検証できたが,親の側がどのように子どもへの統制を行っていたかについてもこれから検証していく必要がある.親に対しては自傷行為を行っていることを隠しているインフォーマントが多いため,本稿で取り上げたインフォーマントの両親に直接インタビューを行なうことは難しい.そこで,自傷行為経験者を子どもに持つインタビュー対象者を募るなど,別の角度から家庭で行われた<教育>コミュニケーションと自傷行為の語り/提示の仕方との関連を検証していきたい.
 第三に,自傷行為者自身が自傷行為をどのように乗り越え,周囲はどのように対応するべきかについての具体的な指針を,明確にすることはまだできていない.もちろん,自傷行為を行い続けるかどうかは,個人の努力の問題ではなく社会的な支援の不十分さに大きく影響されることは第2章で述べたとおりである.しかし,一人の人間として自傷行為者を前にしたとき,どう接すればいいかという実践上の問題もこれから考えていかなければならないだろう.
 上にあげた課題については,これから取り組んでいきたい.

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