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博士論文要旨

論文題目:「日系ブラジル人」の子どもを取り巻く「実践の星座」の生成
著者:郡司 英美 (GUNJI, Terumi)
博士号取得年月日:2009年3月23日

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 1908年にブラジルへ移住する日本人が、神戸港から笠戸丸で出発した。今年2008年は、ブラジル移民100周年にあたる。1990年の出入国管理及び難民認定法(入管法)改正を機に、「日系ブラジル人」の「デカセギ」が急増し、現在は30万人もの「日系ブラジル人」が日本各地で生活しているという。日本の公立の小学校や中学校にも彼/彼女らが流入し、それぞれの地域において、支援や対応の歴史も積み重なってきている。そして、「日系ブラジル人」の子どもを取り巻く研究においても調査や研究の蓄積が行われてきている。
 実態を調査するところから着手された「日系ブラジル人」の子どもを取り巻く世界はどのように描かれてきたのだろうか。まず、研究によって子ども自体の描かれ方には、違いが見られ、イメージされる子ども像は異なっている。たとえば、太田(2000)は、一方的に自らの文化を奪われ続ける主体を強調する。一方で、山ノ内(1999)や児島(2001)のように、さまざまな折衝を通して、自らの位置を選び取っている主体を強調するものもある。また、実際の場面では描かれないものの、関口(2003)のように、流動的な文化化環境の下で成長する主体を積極的に捉える研究もある。このような複数の描かれ方がある一方で、奇妙なことに、筋は画一的なものとなっている。つまり、齟齬が生まれている状況において、そこでの「困難」を子どもが抱えるものとして描き、その打開のために、「関わる者」の意識変容や「関わる者」が属する側の「文化」の変革をせまる志向性が語られるのである。言い換えれば、「問題」や「困難」を構成する状況に関わり、迷いを含みながらも実践を行っている、子どもに「関わる者」が当事者として想定されていないのである。そのため、積み重ねられてきた研究が提示した「問題」の解決策は、関わり方の規範化を促し、さらに「関わる者」をがんじがらめにする。つまり、「異文化理解」の規範の重層性を身体化した主体には、「解決策」の力が届かないのである。このような状況を生み出している「日系ブラジル人」の子どもを取り巻く研究であるが、研究の本流から外れて視点を変えると、そこには規範化を生み出したり、一方的に変革を迫る姿ではないあり方が先行研究の中に埋もれている。それを探ったのが第1章と第2章である。
 第1章においては、先行研究間の関係を探っている。先行研究は、一見すると、子どもの描き方に争点があり、互いの研究群は激しい対立か相互不干渉の構図を顕にするが、研究群の間には、様々な断絶や重なりが見られることを明らかにした。あるいは、子ども自身の「問題」として取り上げられた事例において、「関わる者」の「問題」でもあることが記述から読みとることができることを明らかにしている。このように「問題」が重層的に構成されている可能性を開きながら、第2章では、「写実主義的な物語」の傾向をもった研究群の中で、調査者が登場するエスノグラフィーと対話することで、「異文化理解」の文脈を身体化した主体の実践を捉える枠組みを切り出している。つまり、教育実践にはつきものの、オーバー・ラポールという要素が、いわゆる文化人類学の流れを汲むエスノグラフィックな関わり方の規範と矛盾することを示し、それを隠してしまうのではなく、徹底的に捉えながら、実践の質を考えていく方向性を見出した。
 さらに第3章では、筆者が関わり続けているふじだな地区(仮名)を念頭に置き、「異文化理解」の規範の重層性の文脈を身体化した、複数の主体の志向が縦横無尽に張りめぐらされた場におけるコミュニケーションの展開を捉えるために、ウェンガーの実践コミュ二ティ論と格闘している。にほんご教室や学級、家庭、母語教育型支援グループ<シランダ>のそれぞれの場で実践が立ち上がると共に、連携するかたちで「問題」を解決したり、同時に、新たな「困難」が生成されている様子を、実践コミュニティと「実践の星座」との関係で捉えられないかと、ウェンガーのエスノグラフィーを追っている。従来の実践コミュニティ論に対しては、確固たる一つのコミュニティが想定されてしまっているのではないかという批判があるが、本論文では、今までの実践コミュニティ論では見えにくかった実践コミュニティ間の連携の論理を読みとっている。
 第2章と第3章で得た「日系ブラジル人」の子どもを取り巻く研究における「困難」を捉えるための概念装置を携えて、第4章から第7章で事例を展開している。各章における事例は、それぞれの場における実践を扱っているが、実はその他の場での実践が入り込んでいたり、影響を与えているかたちになっている。そのため、母語教育型支援グループ<シランダ>の拡張の歴史とつばき小学校の実践構造が見えないところでリンクしていたり、学級とつながっていたりする様を同時に映し出している。
 詳しく見てみると、第4章では、中学校三年次の進路選択の場面でのコミュニケーションに光をあてている。そこでは、「関わる者」が、子どもたちの「諦める」という状況を開いたり、その状況さえも共有できなかったり、あるいは、「関わる者」の意図を過剰に汲み取り、子どもや「関わる者」を含む状況そのものが、がんじがらめになっていくコミュニケーションが展開されている。それは「異文化理解」の規範がたちうちできる領域ではないものの、両者の間では<ウソ>というバウンダリー・オブジェクトを媒介にやり取りされていることが明らかになった。そこでは、相手が発した一つのことばを辞書的な意味としては共有しながらも、同時にズレも生み出し、それがコミュニケーションを阻んだり、活性化させたりしていることが分かった。それは、いわゆる「うそ」/本当の対立軸で捉えられるものではなく、お互いに境界を際立たせつつも、つながっていく手段となっているのではないだろうかと思われる。
 第5章では、子どもも実践者と捉えて、にほんご教室において、子どもたちがおしゃべりの実践を行うことで子ども集団を立ち上げている際のコミュニケーションを追っている。
そして、その際、子どもたちのおしゃべりの実践が「関わる者」によって正統性を与えられて認められながらも、「関わる者」の実践の意図を超えていく様子を描いている。しかし、「関わる者」の側から同じ実践を眺めたとき、それは「関わる者」の側の意図した実践とぶつかったり、「関わる者」も、子どもが意図を超え出るような環境を用意したりしている実践を生み出していることが明らかになった。
 第6章では、「日系ブラジル人」による、いわゆる母語教育型のセルフヘルプ的グループが、外部との接触をもちながら、学校や地域とつながることで、その役割や様相を一言では表現できない雑多なグループに変容してきたことを明らかにしている。その背景には、もちろん「日系ブラジル人」の中の多様なライフスタイルや多様な将来展望によって、細分化し、その多様性への対応を行ってきた側面はある。しかし、同時に、セルフヘルプ的グループが「国際」交流という役割を引き受けたり、必ずしも「日系ブラジル人」であるということによらないつながり(たとえば同じ学校の友達というつながり)が持ち込まれ、それに「関わる者」が真摯に対応してきた結果でもあるといえる。しかしながら、特に、小学校のにほんご教室が拡張したような場が生み出されたことで、ポルトガル語グループとにほんごグループの間をさまよう子どもによって、「デカセギ」の縮図のような問題が顕にされたり、<ウソ>を生み出す状況をつくることになり、どのように対応するかをめぐり、新たな「問題」とそれに対応する実践や価値観を生み出していたといえる。
 第7章では、にほんご教室に焦点をあて、「日系ブラジル人」の子どもと共にあるいくつかの空間で連携の型を生み出していることを明らかにした。つまり、あるときは、学級と手を結び、子ども自身も巻き込みながら、家庭の保護者の自己責任のみに依存しないあり方を追求する。あるいは<シランダ>まで場の輪郭を広げ、にほんごグループを展開する起動力となる。またあるときは、家庭の保護者の不安を共視しながら、担任の代弁をし、学級ではなかなかできない実践を展開する。あるいは、担任の指導上の悩みを一緒に背負いながら、学級での実践を後押ししている。あるいは、子どもの側に立って担任へ気持ちを通訳する一方で、担任の側に立って、担任の気持ちを子どもへ通訳する。このように、にほんご教室は、自らを拡張したり収縮する中で、前面に出て実践を行ったり、結び目をつくったら、自らの存在をそこから消していく実践を行っていた。「周辺性」という位置取りをしながら、その空間を閉じたり開いたりをくり返していることが明らかになったのである。
 このように、本論文は、「日系ブラジル人」の子どもを取り巻く世界において、彼/彼女らの教育に「関わる者」を含めた人々の関わりの中で「困難」や「問題」が多面的なかたちで生まれていることを記述した。そのとき、「困難」や「問題」を媒介にして向かい合うなかに、「困難」とそれを打開するような生成の契機が同時に生まれていることも明らかになった。そして、その取り組みは、外部から持ち込まれた何かきらびやかなスキルを利用するのではなく、日常の教育実践の中で行われてきたものをブローカリングやバウンダリー・オブジェクトによって場を切り結ぶことによって行われていたのであった。
 にほんご教室による、ひろがる・つながる・つなげる実践は、実践を共有はしない複数の場や、同じ場を共有している複数の人びとの声や思いが行き交う「実践の星座」を浮かび上がらせる。あるできごとを媒介に生み出される「実践の星座」において、「関わる者」個人の中に、様々な声が響くようになり、ジレンマに陥ったりしながら、「分裂する」主体が生み出されていく。迷わない人間はいないように、この「分裂する」主体は、どんな場面でも立ち現れてくるように思う。しかしながら、複数の「分裂する」主体が連携して実践を行うとき、その分裂の仕方は、単に人数分だけ倍になるわけではない。そのとき、敢えて言わないことを含む実践や、思いとは逆のことをいう実践など、間の空間領域全体の中でのバランスから、自分のスタンスを決めるような実践が展開することとなる。
 このように人々の思いや声が行き交う空間は、教育実践を行うにあたって、非常に大きな意味を持っている。教育という営みにおいて、「問題」は明確に一度きりで解決されるとは限らない。何だかはっきりとしないまま、子どもたちの成長を待ちながら、関わり続けることが必要とされる。このような性格をもつ空間において、あるできごとがひとつの場だけに収められず、他の場所に問題として持ち込まれ、対応がなされる。そして、その対応の積み重ねによって、そのできごとを物語としてつなげながら、実践の持つ意味の層が練り上げられていっているのではないだろうか。

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