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博士論文要旨

論文題目:20世紀における空間概念の変異とその意義――人間学的哲学の視点から――
著者:馮 雷 (FENG, Lei)
博士号取得年月日:2009年3月23日

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 およそ1970年代に、現代社会は重要な転換期が迎えたと思われる。この新たな社会段階に関しては、ポスト工業社会や新資本主義、後期資本主義、ポスト近代社会など、いろいろに名づけることが可能であるけれとも、しかし数十年が過ぎた今でも、こうした社会変化をどのようにとらえるかは依然として人々を困らせている難題となっている。それに関する諸議論のなかで、時間と空間の二つの概念は特有な意味を与えられた。つまり、ポストモダニストの多くが、近代社会は時間性に主導されていたのに対して、ポスト近代社会は空間への転回を意味していると主張している(序論1節)。しかし、もしわれわれが時間と空間の概念を十分に検討しないままに、大雑把に近代社会を時間性として、ポスト近代社会を空間性として特徴づけるならば、とうてい近代社会やポスト近代社会を把握することできないであろう。それゆえ、本研究は、空間概念の解明を研究目的と設定するものである(序論2節)。
 どのようなアプローチをもって空間概念を解明していけばよいのか、それを明確するために、本研究ではまず「時間=モダニティ、空間=ポストモダニティ」の観点を主張した諸言説(序論3節)と、その観点に対しての諸反論(序論4節)を考察し、そのことによって、両方の議論とも注意力を時間と空間の解明には向けず、時間と空間をある特定の文化スタイルとして捉えてきたことを明らかにした。つまり、これまでのポスト近代社会に関する諸議論の中では、時間・空間概念は一種の「隠喩」に変わったのである(序論5節)。しかし、空間と時間に対して「実質的」な思考を行わなければ、たとえ人びとが空間、空間性、時間、時間性を議論していても、これらの概念の確実な含意を明らかにすることはできない。このような理由から、わたくしは、現代社会の真実の変化を洞察し把握するために、われわれは今一度目標を転換しなければならないこと、つまり空間を隠喩的概念ではなく、実質的なものと見なさなければならないという研究目標の転換を確定した(序論6節)。
 しかし、空間を実質的なものとして思考するといっても、直ちに空間を客観的事実として思考するということを意味するのではない。そこで、研究方法の転換、すなわち20世紀心理学と人類学における空間認識の著しい変化に着目し、そうした観念の転回の人間学的な意義を解読し、その上で空間概念の再構築の可能性を探求していくという空間概念に対する「人間学的哲学」的研究が必要となるのである(序論7節)。なぜなら、西洋哲学史を振り返ってみると、時空観は三つの歴史段階、あるいは三つの類型があった。それらは、それぞれ異なる基礎上に成り立った。すなわち、古代ギリシャローマから中世の終わりまで、時空観は哲学思弁の基礎上に成り立った。17世紀から19世紀までは、物理学がこの三世紀に流行した時空観の基礎となっていた。20世紀以降、われわれは、今まさに心理学と人類学の知識を用いて新しい時空観を築き上げる過程を経験していると思うからである(序論8節)。この基本認識に基づいて、本研究では、専門的に哲学史上の各種時空観を直接討論したり、空間問題を巡って発生したモダンとポストモダンの論争に対して思弁的な議論を行うのではなく、心理学と人類学の20世紀時空観に対する影響を二本の柱として考察を進める。そして心理学と人類学のこれらの新しい知識が20世紀人類の時空観を変え、その上新しい空間思想の形成を導いていくことの証明を試みる(序論9節)。
 したがって、本研究は以下の各章により構成される。前三章の主題は、20世紀初めの空間概念の変化及びその意義を研究することである。現代絵画は最初に視覚上で20世紀人類の空間意識の変化を明らかに示しているので、第一章では20世紀初めの絵画空間の変化を分析する。第二、第三章ではそれぞれ20世紀初期心理学と人類学の影響下で形成された空間の哲学思想を考察する。第四章では、ポストモダンの空間批判理論が焦点にしている論点に対して、改めて整理を行い、またこれらの論点をめぐって、ポストモダンの社会批判理論に存在するおもな間違いと不十分さを指摘することを試みる。第五章では、現代の心理学や人類学の成果をベースにして、またカッシーラー、メルロ=ポンティ、ルフェーヴルらの先行哲学者の観点を参考にして、自らの空間分類方法の提起を試みる。結論では、近代以来の社会空間形態の変遷、及びポストモダンの社会空間の特徴に対して、一定の結論を述べることにする。
 第一章においては、まずルネサンス期に透視図法の成立を顧み、透視図法によって再現した空間の真実性には、視覚の真実と理性の真実という矛盾しあう二つの原理が含まれることを示す(第一節)。印象派から抽象派までの絵画の代表作を分析しながら、現代絵画における透視空間の転覆の過程を辿った(第二節)。現代の芸術家たちが空間の奥行きを描くことを拒んでいることは、こうした構図法に代表される理性主義的な空間秩序を拒絶していることを意味する。他方で、抽象絵画が乱れた抽象図形や色彩、物の破片を通して描こうとしているのは、現代社会の絶え間ない不安や緊張感、苦痛、冷淡さである。そこでは、20世紀初頭の人びとの空間意識の変異が鋭く示されている(第三節)。
 第二章では、バークリー、ベルクソン、メルロ=ポンティの空間思想を考察することを通して、実験心理学的アプローチが空間にかんする哲学的探求に参与したことによって、20世紀前半に至るひとつの独特な空間哲学の発展の道を明らかにしようとする。まずベルクソンを考察した。ベルクソンはそれまでの思弁哲学と違って、実証科学、つまり実験心理学の成果を参考にした。彼は、記憶に関する心理学的研究を利用して身体と意識を区分するとともに、意識は時間的ものであるが、身体は空間的ものであるという結論を出したのである。しかし、彼が最初から抽象的に人間を物質と意識の二元構造と見なしたため、人間の空間性を軽視して時間性を過大視し、ひいては霊魂不滅という観念論的な結論をだした(第一節)。他方で、空間哲学の系譜から見れば、17-18世紀のイギリスの経験論哲学は非常に重要であった。ロックは早くから、心理学を彼の哲学の基礎として形而上学を代替する試みをはじめたのであり、後に、バークリーとヒュームはそれぞれ知覚と知識にかんする心理学的分析を行ったのである。特にバークリーは、視覚経験の相対性を指摘することによって、物質的実体が客観的に実在することは知覚によって判明できないという間違った結論を出したけれども、それはわれわれの空間についての認識を深めるうえで積極的な意味もっている(第二節)。メルロ=ポンティは現象学的な「身体―主体」という身体論に基づいて、経験主義的空間および理知主義的空間と違った第三の空間、即ち知覚的な空間を主張した(第三節)。しかし、心理学的アプローチはメルロ=ポンティの知覚空間理論を有力にサポートする一方、原始人における空間意識に触れると、心理学的アプローチおよび知覚空間の概念はやはり力が及ばなくなった(第四節)。
 第三章では、まず20世紀初頭地理学における自然環境決定論は次第に凋落し、文化的概念が次第に勃興してきたなかで、人類学の理論も地理的要素から文化的要素へと転回し始めたことを顧みた(第一節)。続いて、前哲学時代に普遍的に存在していた「人地同構」の観念を論じて、カッシーラーの神話的思惟の研究にしたがって、人地同構の観念に基づいた神話的空間(象徴的空間)の特徴、すなわち具体的位置の限定性と空間経験の特殊性、および神話空間の全体性と構造的同一性であることを示す(第二節)。最後、カッシーラーの空間哲学の形而上学の欠陥と、現代人類学による原始的空間観念、特に象徴的空間に対する認識を論じた(第三節)。
 第四章においては、現在に盛んに議論されている社会的空間の問題を検討する。本研究では、20世紀中期以降の社会空間の批判理論を大きく三つの主題、すなわち「空間と場所」、「空間とハイパースペース」、「空間と地理」に分ける。空間主義の代表コルビュジェと場所主義の代表ハイデガーという二人の観点の対立を検討することを通して、空間主義を典型としたモダニズム的空間観は、空間を可入的で、制御可能な、能動的なものと見なしていることであると指摘した(第一節)。続いてマクルーハン、ボードリヤール、ジェームソン等のハイパーリアリティーやハイパースペースに関した論述を考察し、ポストモダン空間論者の戸惑いは新しい空間に対する抵抗に由来すると指摘する(第二節)。さらにハーヴェイとソジャを代表とするポスト近代的地理学の空間論の欠陥を述べ、空間は地理を意味するだけではないことを指摘する。また、カステルに提起された「フローの空間」の特徴を検討し、それと関連したグローバル化空間の諸特徴を論じてみた(第三節)。
 第五章では、20世紀中葉以降、認知心理学や人類学の成果に基づいて人間の本質を明らかにし、そのうえで、人類的行動を土台とした空間解釈の枠組を提起することを試みる。まず、進化論の提出によって人類と自然界を統一する土台を築いだが、人類の思惟及び人類社会に関する認識はまだ進化論と矛盾していることを述べた(第一節)。続いて内省的心理学と行動主義的心理学とピアジェの認知心理学を考察することを通して、20世紀心理学の進歩を顧みた(第二節)。前述した心理学と人類学の成果に基づいて、人間の本質に対する新しい解釈を試みた。要するに、直立姿勢に対する適応が人類を「早産児」にさせた。「早産」は人類胎児の母親の子宮内の育む過程を中断させ、嬰児が生まれてからおよそ2~3年間で「社会的子宮」の中で育み続けるようになった。こうした「社会的子宮」での成長過程によって、嬰児がその段階で人間的行動様式を身につけた。この人類特殊の行動様式とは、その一は、人類の母親と嬰児の間には豊富な視覚交流がある。その二は、人類の母親と嬰児の間の交流には物体が含まれることである。人類認知行動のこの二つの特徴は、人類の意識と文化の形成に深い意義を持つ。つまり、まず、人類は母親と嬰児両方の身体特徴から、視覚交流を主とする認知行動が形成される。次に、視覚交流を主とする行動パターンは、人類をさらに記号の交流に慣れさせることになった。第三に、人類の物体に対する理解は他の動物よりはるかに勝れているということである。第四に、物体が人間のコミュニケーション過程に入り込んだために、人の間のコミュニケーションが物体の仲介を通して進められるようなることである。以上の人類認知行動の特徴と意義における分析に基づいて、本研究は人類の行動を三つに分類した。すなわち、生物的行動、社会的行動と文化的行動である(第三節)。最後、人間の本質と行動の特徴についての解説を根拠にして、また、カッシーラー、メルロ=ポンティ、ルフェーヴルらの先行哲学者の観点を参考にして、空間概念に対して新たな区分を試みた。すなわち、生物的空間、社会的空間、文化的空間である。生物的空間は、人間が一つの種として持つ空間形式を指している。社会的空間は、人類社会の中で生じる空間関係を指している。そして文化的空間は記号の空間である。それは、人類の言語、表象活動、秩序観念の上に築かれた空間形態であり、他の動物が持たない空間形式である。また、文化的空間には二つの形式がある。それは、象徴的空間と抽象的空間である。象徴的空間の第一の特徴はアイデンティティであり、もう一つの特徴は構造の相似性と類似性である。さらに、本研究は抽象的空間の四度の類型転回を指摘し、つまり、最初の抽象的空間は古代天文学、数学によって生まれる。その後、ギリシャ哲学の中で抽象的空間はその進化の第二段階を迎えた。近代物理学の誕生によって、抽象的空間の三度目の類型転回が促された。そして現代心理学と人類学の基礎のうえで形成されつつある新しい空間概念は抽象的空間の第四回目の類型転回を意味すると考える(第四節)。
 結論では、当代社会空間批判理論において明らかされていない資本主義的空間の形成やその地理的な性格を明確することによって、20世紀資本主義的空間は生活が加速し続けるにつれて、地理的空間以外に、新たな空間の拡張と創出を獲得したことを指摘する。20世紀空間の拡張や創出というと、それは主に三つの新しい社会空間の形式が出現した、つまり都市化空間、グローバル化空間とハイパースペースであると考える。都市化空間とグローバル化空間の特質を述べるほか、特にハイパースペースがもつ空間の非連続性と事物の虚構化という二つの顕著な特徴を解説した。最後に、空間概念に人間学的哲学的な定義を与えようとした。すなわち、空間は一種の秩序である。さらに、空間秩序は人間の環境に対する適応である。

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