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博士論文要旨

論文題目:越境の以前と今をつなげるライフストーリーの構築 ― ニューカマーの子どもの回復と年少者日本語教育の可能性 ―
著者:田仲 正江 (TANAKA, Masae)
博士号取得年月日:2009年3月23日

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<問題提起>
 近年、親に伴い来日し、公立小中学校に編入学するニューカマーの子どもが増加し、それに伴う教育が課題になり、また、家族滞在の長期化や定住化、あるいは日本人家族の一員となるなどから、その子どもの進路問題とそのための学力問題も示されるようになった。国による施策として、子どものための日本語教育テキスト作成や、学校教育の教科のことばや学習内容を日本語指導に位置付け習得させるためのJSL(Japanese as a second language:第二言語としての日本語)カリキュラム構築や教員研修などが提供されている。また、例えば、1校に5名以上の外国人児童生徒の在籍がある場合「国際教室」や「日本語学級」を学校に設置したりセンター校を設定し拠点式に場を設けたりして、そこに加配教員を配置し日本語指導や適応指導を行うための予算措置がされる。自治体によっては子どもの母語に通じる人材を雇用し、母語によるケアや通訳による適応指導や日本語指導や(授業の)教科学習支援という教育支援も行われている。また、ニューカマー住民による母語教室設置と子どもの母語保持や習得活動も行っている地域もある。
 一方、全国には教育支援を要する子どもの在籍校全体の約8割に施策提供の条件に満たない数の子ども達がいて、予算措置や人材起用もなく、母語によるケアも難しく、学級担任にゆだねられ、地域日本語教室のボランティアが主に日本語指導を担っている現状にある。関わるボランティアは、教育者でも母語に通じているわけでもない一般地域住民の場合が多い。このように受入れ体制が十分でない中で、ニューカマーの子ども達は、「適応の問題」「言語の問題」「学力の問題」「アイデンティティの問題」を抱える。「勉強ができないのは日本語がわからないから」という理由は現実としてニューカマーの子どもの主張であるし、日本という異社会に身を置きアイデンティティが崩れれば適応・言語・学力への教育的対応も崩れるという状況になると共に、支援者や教育者側の支援内容や支援範囲の判断を狭義的に規定することから、この四つは相互に影響する事柄である。
 そうなると、子どものアイデンティティとその形成の危機に対処しようということになるが、「言語の問題」である第二言語習得の側面からいえば、①学校や社会で母語が使えない場合自己アイデンティティが否定されていると感じ、母文化や受け入れ先文化の否定、学校活動や人間関係の否定、ドロップアウトのケースがある、②母語や自己に嫌悪感を持ったり過度に誇張したり両極端に揺れ動く文化間アンビバレンスの心理状況が形成されるという。子どものこれまでのアイデンティティや形成を担ってきた第一言語である母語使用が奨励されると自尊感情が有意に働き学業成績も向上するという調査結果もある。
ということは、教育支援を要するニューカマーの子どもの在籍校全体のおよそ8割が施策を得られず、学校や社会で母語が使えない状況に置かれ、アイデンティティが否定され、教育支援や教育的対応そのものが崩れることになるが、果たしてそうなのだろうか。
というのも、支援の多くはボランティアが担っている。このような現状におかれた子どもは、日本という異郷で一日の多くの時間を費やす学校でどのように日々を過ごし、人々とどのような関係が作られていくのか。来日した子どもはどのような現実に直面し、どのような課題を抱えるのか。であればどのような支援、とりわけ日本語学習支援をすればよいのかというところから本論は始めていく。

<研修対象と方法>
 筆者は地域ボランティアとして小中学校に編入学するニューカマーの子どもの日本語学習支援をしており、支援対象の中から小学校高学年生から中学生8人を対象に、支援時の子どもの語りや参与観察記録、筆者が提供する日本語学習支援実践記録、報告時に現れた先生方の話などを資料を分析考察した。エスノグラフィーの手法を中心に、インタビューやライフヒストリーといった手法を部分的に活用し、語りの中身や表情やしぐさなど人の語りに注意し、語り手の込められた思いや思想を読み解く。また、筆者の学習支援では、対象児童生徒を授業から取り出し別教室で一対一で行い、その支援実践の特徴からも、文脈の中のことばの分析となる対話分析を用いた。
 
<考察>
 来日した子どもは、学習活動や生活活動をはじめ子どもを取り巻く事柄が異言語でなされる現実に直面し、自分は異言語がわからないことから母語ではもはや自己の成長の歩みを進めないと察知し、寡黙となり言語的コミュニケーションや相互行為ができなくなる。言い換えるならば、子どものこれまでの日常の営みが切断的状況となり、アイデンティティ・クライシスの状態に陥る。それでも、子どもには社会でどう生きていくのかを獲得することと、自己意識をしていくことが繰り返し起きてくる。また、周りの子どもからの何らかの働きかけによって、爆発的行為や明示的な壁つくり、一時的に身を置く場作りという消極的な課題が現れる。これは、子ども特有の情動的な相互行為の部分である<交歓>によるものであり、第二言語への関わりや周囲との何らかの相互行為の発端とはなるものの、人間形成から見ると限界が現れることを確認した。
 一方、筆者は日本語学習支援で、その初期指導から口頭によるQ&Aという実践を行っている。これは、学習中の日本語を使った練習の一つであるが、例えば、「あなたは、マリアさんですか?」というように、子どもに関わる具体的な事柄をQとしそれに沿って子どもが「はい、私はマリアです」というAを発話する。不自然な会話ではあるものの、一つ一つを積み重ねていくと対話になっていくことがわかる。このQ&Aでは子どもの体験や日記的な事柄も扱うことから、子どもの来日前と来日後の両方に共通する話題が現れてくる。筆者はこのQ&Aの実践に着目した。この活動はどのような前提で行われたのか、あるいはどのような意図が表れたのかを見ると、ニューカマーの子どもを「来日した子ども」と捉えるのではなく、「越境した子ども」と捉えたことにあった。そうすることにより、来日し日常の切断的な状況にある子どもは、越境前と越境後に横たわる亀裂を抱えており、子どもの人間形成の停滞という状態にあることを提示した。その亀裂をどのように埋め合わせ、人間形成への回復を得られるのか。すなわち、越境前と越境後をつなぐアイデンティティの再構築を模索することとなった。それは、越境社会でどう生きていくのかを獲得し自己意識をしていくこと、越境した社会での営みを可能とし、独り立ちに向かうために必要な事柄を求めることになる。
 
 現代社会において、子どもが発達し成長(人間形成)するうえで欠かせない場のひとつに学校とその教育があげられる。生まれ育った母国を離れ、日本に越境した日本語を母語としない子どもにおいても同様である。すなわち、子どもの発達と成長(人間形成)が学校を含めた社会において不断に行われるものならば、越境して日本にやってきた子どもにとっても、日本の学校とその教育は、子どもの発達と成長(人間形成)に欠かせないひとつの場であり活動である。学校での学習活動や生活活動は主に言語によってなされ、「思考と言語の交差」が促される。「思考と言語の交差」とは、子どもの発達において別々にあった思考と言語の発達路線がある一定時点で交差を起こすことであり、言語は知能的に、思考は言語的となる「言語的思考」の領域である。しかし、越境した子どもにとって日本語は異言語であるため、「思考と言語の交差」を促す学習活動や生活活動への参加は困難であることから、当面は日本語教育が中心的役割を果たすことになる。
 年少者日本語教育では、学習に用いる言語を学習言語とし習得までに7,8年を要し、友達と交流するなどに用いる言語を生活言語とし習得までに1,2年を要するとする。
よって、母語においてその年齢までの学習言語を習得しているわけであるから母語を用いて事前に授業での学習内容を把握するという試みが行われ功を奏している。それでも、授業という日本語で他の児童生徒と一緒に学習活動することが必要である。
授業活動において母語使用は逆に効果が得られないことがある。それは、授業において子どもが誰と授業でのやり取りをするのかということが大いに関係する。つまり、授業提供をする先生が日本語で行っている場合、子どもはその先生とその場での周りとのやり取りを欲するわけであるから、母語の介入が逆効果となるわけである。

 ニューカマーの子どもの相互行為は相手との関係に位置付くのではないだろうか。
つまり、相手との相互行為は自己を提示することではないだろうか。であるならば、自己を日本語で表す必要がある。これはすなわち、「自己について語る」ことになる。
ガーゲン(2004a,b)は、社会構成主義から、「自己についての語り」を提示する。「自己についての語り」は他者にむけて伝えると共に自分にも披露することとなり、他者の承認により成立しアイデンティティ形成となるとする。また、このことは他者からの要求にも自己は応える必要がある。つまり、越境したニューカマーの子どもにとっても、日本語で「自己についての語り」は他者との関係をつけ、自己にも披露し、アイデンティティ形成に繋がる。また、自己も他者を承認する事柄を通して、その関係から生まれるのである。

 筆者と支援対象の子どもとが、日本語学習の練習で行っているQ&Aは、すなわち日本語での「自己についての語り」を遂行していることとなり、しかも、越境以前と越境後に共通する事柄を行ったり来たりする。子どもが、越境により得た亀裂をまたぐ形で行き来する。このことは、亀裂を埋め、越境の以前と今をつなげ、自己を越境先に立ち上げることになるのではないだろうか。すなわち、対話には過去、現在、そして将来が描かれるわけであるから、切断された過去を回復し現在の自己を承認し、将来、つまり、独り立ちに向けて「思考と言語の交差」が得られると考察した。

<結論>
 ニューカマーの子どもへの日本語教育は母語を用いたとしても、結局は日本語至上主義であるという批判がある。確かに、国民を教育するという軸においては奪文化化の道具となろう。しかし、子どもの人間形成をその相互行為に見るのであれば、単なる喪失ではなく、越境先での関係をつなげ、第二言語から再び第一言語へと豊かにする過程の途にあるのではないだろうか。Q&Aにより得られた子どもの「語り」は、越境という物語とともにライフストーリーを築いている。ここに年少者日本語教育の可能性を提示する。

<参考文献>
ケネス・ガーゲン(2004a)東村知子訳「あなたへの社会構成主義」ナカニシヤ出版
ケネス・ガーゲン(2004b)永田素彦・深尾誠訳「社会構成主義の理論と実践―関係性が現実をつくる」ナカニシヤ出版

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