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博士論文要旨

論文題目:近代中国知識人に関する一考察―研究系の思想と行動、1912~1929―
著者:原 正人 (HARA, Masato)
博士号取得年月日:2009年3月23日

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1. 問題の所在と分析方法

 近代中国においては、西洋の侵略に始まる数々の政治的混乱、西洋や日本の
近代化の波、かつては知識人となるための唯一の方法であった科挙の廃止、メ
ディアの発達、海外留学の開始などによって、知識人の位置が大きく揺り動か
されることとなった。清末以前の中国において知識人はその多くが「士大夫」、
すなわち政治と文化の両方を一手に受け持ったエリート集団であったが、近代
になるとより細分化され、様々なタイプの知識人が出現することとなった。
 ところが、先行研究においては政治権力からの距離で知識人を定位し、「周縁
化された知識人」という観点から論じるものがほとんどであった。だが、そう
した観点からだけでは近代中国の知識人の複雑な行動や主張を正確に描写する
ことはできない。近代中国知識人研究をより深めるためには、様々なタイプの
知識人を取り上げ、より多くの視点から考察を加えることが必要であると思わ
れる。とりわけ、比較的大きなメディアや学校などの文化的資源に依拠して言
論活動を行った知識人たちがどのような主張をし、どれほどの影響力を持って
いたのかについては、その重要性に比して不当に等閑視されてきた。
 一方、従来の知識人研究において、知識人は二つの側面から語られることが
多かった。一つ目は、教員や雑誌編集者などの専門的職業に従事していること
に注目し、制度論的な見地から知識人の位置を定位しようとするものである。
もう一つは、自らの思索を何らかの方法で発表する存在としての知識人に注目
し、思想史や歴史学的な手法でその思索の内容を論じるものである。
 そのうち後者は中国近代知識人研究においても思想史などで多く取り上げら
れてきたが、前者についてはあまり取り上げられることはなかった。そこで本
論は前者、とりわけメディアや学校などの文化的資源を持つ職業人としての知
識人を取り上げ、彼らを両方の方法論から多面的に論じることで、中国近代知
識人の新たな一側面を描き出すことを目的とする。
 そのために、本論では研究系という知識人集団を取り上げる。研究系とは、
近代中国の言論界において絶大な影響力を持った思想家・ジャーナリスト、梁
啓超(1873~1929)から大きな影響を受けた知識人群である。彼らは言論活動
を長きにわたって繰り広げたほか、抗日戦争時期にはその一部のメンバーが中
国国家社会党を結成し、いわゆる「第三勢力」として政治活動もさかんにおこ
なっている。3.で詳述するが、研究系を本論で取り上げる理由は、その重要
性にもかかわらず、とりわけ日本における先行研究でほとんど取り上げられる
ことがなかったこと、なおかつ梁啓超の支えのもとで『時事新報』や『解放与
改造』などの比較的メジャーといえる新聞や雑誌を発行する機会に恵まれてい
たことなどである。
 次に、本論の分析手法について述べる。既存の近代中国知識人に関する研究
は思想史的アプローチのほか、社会階層としてのアプローチが見られた。つま
り、知識人の主張、あるいは理念をテキストから読み取るという思想史学の方
法が取られるか、先述のように政治史の観点から政治権力との距離によって党
派や「派閥」を規定し、それに付随する言説としてテキストを評価するものが
ほとんどであった。ところが、ただやみくもにテキストのみを分析することも、
政治的な位置だけによって言説の内容を捨象した評価を下すことも、近代中国
知識人の複雑な諸相を論ずるにあたっては有効性に疑問が残る。
 それでは、知識人の言論や政治活動などの持ちえた影響力がどのようなもの
であったのだろうか。言論と政治行動にまたがりつつ知識人の政治と文化への
意識を定位付けるため、本論では研究系という知識人集団を例として、以下の
三つのレベルから捉えた。すなわち、(a)言説(思想)、(b)実際の政治行動および
文化行動、(c)知識人が実際に運営した制度、である。
 まず(a)の言説とは、文字通り言説レベルでの様々な主張を指す。本論では、
中国の現実に対応して「中国をいかに変革すべきか」という基本的な命題に関
する実際の政治・政策提言を手がかりとして、研究系の政治思想はどのような
ものだったのか、そしてそれは当時の思潮のなかでいかなる位置にあったのか
を模索する。これによって言論のレベルで研究系が知識人のなかでどのような
位置を占めたのかについて明らかにすることができよう。
 次に、(b)は実際の行動のレベルを指す。研究系の実際の政治行動および文化
的行動を描写し、さらにそれらが時の政権にどのように映っていたのかについ
て論じる。本論ではとりわけ彼らの文化的資源としての新聞や雑誌がどのよう
なものであったのか、そして時の政治権力による研究系への対応から、彼らの
文化的行動の影響力を探る。これによって、研究系、そして彼らの文化的資源
の持つ影響力を別の側面からうかがうことができよう。
 最後に(c)の制度については、近年になって中国近代知識人研究においても
時折使われるようになった知識社会学的手法を用いる。知識人が実際に自らの
思想を反映させるべく設立した制度を分析し、そうした制度がどの程度彼らの
思想を反映していたのか、そしてそれが政治との闘争のなかでどのように変容
していったのかを考察することで、テキスト分析とは異なる彼らの影響力の位
相を明らかにするというものである。
 以上の(a)~(c)の考察を通じて、研究系の持つさまざまなレベルでの影響力に
ついて分析したあと、あらゆるレベルを通じて新たなタイプの知識人たちが民
国言論界、思想界、さらには政治社会においてどのような位置をしめていたの
か、という問題について見通しを与えることにする。

2.本論文の構成

 本論文は本文194ページ、参考資料19ページ、参考文献一覧11ページからな
り、以下の各章によって構成されている。

序章
第1節 問題の所在
第2節 先行研究の概観
(1) 研究系に関する研究
(2) 研究系のメンバーに関する研究
(3) その他
第3節 分析手法および対象
第4節 使用する史料について
第5節 本論の構成

第1章 近代中国知識人論への視角
第1節 近代中国知識人論の位相
第2節 「文化的資源を持つ知識人」としての研究系

第2章 研究系の活動および交流―中国知識人のなかの研究系
第1節 研究系の定義および名称
第2節 研究系の政治行動とその位置
(1)清末から辛亥革命へ
(2)民主党および進歩党―民国初期における政党活動
(3)研究系の形成と消滅
(4)梁啓超の死まで

第3章 研究系の文化活動と知識人ネットワーク
第1節 研究系の「文化」「政治」観
第2節 研究系の文化活動
(1)新聞・雑誌
(2)学会・学術集団(学校を除く)
第3節 政治権力からみた研究系の文化的資源
第4節 他の知識人との交流
(1)国家主義派の知識人
(2)国民党・共産党系・その他の知識人
第5節 小結―研究系からみた「近代中国知識人」

第4章 研究系における「政治」と「文化」―「連邦論」の分析を通じて
第1節 近代中国における「連邦論」の位相
第2節 研究系知識人の連邦論
(1)梁啓超の「連邦論」
(2)研究系の「連邦論」―張君勱と張東蓀を例として
①1910年代までの張東蓀の国家構想と連邦制
②1910年代までの張君勱の国家構想 ―中央集権と「行政区」としての「地方」
③1919年以降の彼らの「歩み寄り」と「一致」
第3節 考察
(1)「思想集団としての研究系」の形成
(2)研究系の連邦論の位置
第4節 小結

第5章 制度にみる研究系の「政治」と「文化」
第1節 研究系の教育観
第2節 研究系による学校運営
第3節 研究系の文化的影響力 ―カリキュラムの変遷を手がかりとして
(1)「理念」としての自治学院
①人脈と思想的源泉
②カリキュラムからみた「理念」としての学院
(2)教育機関としての自治学院 ―カリキュラムからみた諸権力の介入
(3)考察
①カリキュラム変遷の理由と矛盾
②カリキュラムからみた研究系の位置
第4節 小結

終章
第1節 1930年代以降の張君勱と張東蓀
第2節 本論の整理
第3節 結論
第4節 今後の課題と展望

3.各章の要約

 序章においては本論全体の問題意識、分析方法、使用する史料、本論の構成
について述べた。
 第1章では、近代中国知識人研究の問題点と視角を説明し、研究系という知
識人集団を扱う意味について具体的に論じた。
 先行研究の問題点および視角については前述したが、ここではその他に、本
論において研究系という知識人集団を扱う理由を述べた。それは先述の理由の
ほかに、以下の通りである。多くの先行研究において、中国の知識人の大部分
は五四運動時期以後に「政治」へと向かったとされてきたが、研究系は同時期
に「政治」から文化や教育へと逆に重点を移動させている。このような意識の
変化は近代中国知識人の位置づけを考えるにあたって重要であると考えられる。
さらに、彼らが党派や世代を超えた多くの知識人と交流しており、既存の中国
知識人論に取り上げられることのなかった独特な存在であることや、政党を組
んでいた彼らの趨向を見ることで近現代中国の政党政治を再考する材料になり
うると考えられるからである。
 また、分析する時期については、1912年から1929年までとした。1912年は
中華民国の成立、そして国会が開設した時期であり、1929年とは梁啓超が死去
した年であると同時に、国民党の統治体制が整い始め、研究系のメンバーが一
度離散せざるをえなくなった年である。
 第2章においては、現在まで体系的に研究されてこなかった研究系の行動、
とりわけ政治方面のそれについて、清末から1928年あたりまでを中心に明らか
にした。
 まず筆者は第1節において、梁啓超(1873年生まれ)と張君勱(1887年生ま
れ)が研究系を代表する二つの世代であると規定し、研究系の輪郭を少しでも
正確に描写するには、両者および研究系の文化的活動を支えた張東蓀の三人に
特に焦点を当てることが望ましいと述べた。さらに、「研究系」とはそもそも1916
年に成立した憲法研究会の俗称だが、「研究系」という呼称自体は政敵などが彼
らを揶揄する意味で用いられたものであったことを示した。
 続く第2節では、清末から1928年ごろまでの研究系の行動について、政治行
動に重点をおきつつ述べた。ここでは以下のことが明らかにされた。
 研究系の原点は1900年代後半の東京にあった。東京で亡命生活を送っていた
梁啓超は立憲君主を鼓吹したが、研究系の主要なメンバー、とりわけ梁よりも
下の世代はそのほとんどがこの段階で梁啓超と知り合っている。梁啓超と後に
研究系のメンバーとなる張君勱らとの最初の政治的活動は政聞社であったが、
張は評議員としてそこに名を連ねている。筆者は、政聞社自体は短期間のみの
活動に終わったが、研究系の形成という観点からみれば、後の研究系のメンバ
ーと梁啓超との最初の政治行動として重要であったと指摘した。
 張君勱と張東蓀は、他の清国留学生のように政治行動に全精力を傾けるよう
なことはせず、学術もきわめて重視していた点に特徴があった。筆者のみると
ころ、こうした点からは、一流の学者であり、かつ政治活動もおこなった研究
系の特徴を垣間見ることができる。
 梁啓超は政聞社が閉鎖された後、その立憲派の人脈を生かして憲友会、続い
て共和建設討論会、民主党、そして進歩党へと活動の場を移した。1912年7月
の熊希齢内閣において梁啓超ら複数の進歩党員が入閣を果たした。さらに同内
閣が発表した国家構想はほぼ梁啓超一人の手によるものとなったため、研究系
が国家構想にまで影響力を持つ可能性を持つようになった。筆者はこうした一
連の行動を明らかにし、さらにそこでも張君勱が梁啓超の政治活動の重要な片
腕として働いていたことを示した。
 袁世凱の帝制運動によって国会はいったん停止したが、袁の死後すぐに再開
された。旧進歩党には憲法討論会と憲法研究同志会の二つの派閥があったが、
1916年に両勢力は合併して「憲法研究会」と称した。本論では憲法研究会以前
からそのメンバーとなる知識人集団を便宜的に研究系と称したが、先行研究で
はこの憲法研究会が「研究系」であるとされている。ただし、これに対して、
筆者は研究系を考える際には憲法研究会だけにとどまらず、もう少し緩やかな
集団と捉えるべきであり、研究系=憲法研究会とはいえないという見解を示し
た。
 張勲の復辟を経て1917年に結成された段祺瑞内閣では、段と近かった研究系
が入閣を果たし、再び国家の政策を左右できるまでになった。だがそれも長く
は続かず、四ヶ月ほどで内閣は総辞職することとなった。翌1918年の選挙にお
いて研究系は安福倶楽部との政争に破れ、政治の舞台からの撤退を余儀なくさ
れた。その後の研究系は教育や学術など文化的行動を中心とした知識人集団と
なってゆくことになる。
 第3章においては、研究系の文化的活動やその資源の変遷について、1918年
以降を中心に論じた。
 第1節において研究系の「文化」に関する言説を整理し、彼らが1920年代は
じめに文化的活動へと関心を移すことを確認した後、第2節で研究系の文化的
活動について、新聞と雑誌を中心に述べた。彼らは梁啓超を中心として清末に
は政論中心の雑誌を発行していたが、民国時期に入ると、中国におけるメディ
アの発展に沿うように彼らの雑誌や新聞も大きく部数を伸ばした。筆者は研究
系のそうした刊行物が新文化運動の舞台という大きな役割を果たしており、政
治的党派を超えた多くの論者がそこで意見を発表したため、学生を含む知識人
界に大きな影響を及ぼしたことを指摘した。その一方で、研究系知識人たちは
共学社や講学社といった学術団体の結成や「科学と人生観」論戦などの学術活動
を行い、政治的立場や党派にとらわれることなく学術的な見地から論戦を繰り
広げており、研究系が学術集団としての一面を持っていたことも明らかにした。
 続いて第3節では、研究系のメンバーたちが発行した『国民公報』(1919年)
および『新路』(1928年)という二つのメディアの発禁過程から、政治権力が彼
らをどのようにみていたかを論じた。『国民公報』の事例からは、研究系は政治
的には軍閥側と親和性があったとはいえ、当時の北京政府のメディア政策、お
よび研究系のメディアへの対応からみれば、政府もある程度は研究系のメディ
アを警戒しており、軍閥と研究系の間にも一定の緊張関係があったことが明ら
かになった。一方、『新路』の事例から、北伐によって政治権力を掌握した国民
党は、南方の地方勢力であった時期から研究系の雑誌や新聞に警戒感を示して
おり、政権奪取後は共産党へのそれと同じようなかなり過酷ともいえる処置を
とり、研究系の言論行動の自由を奪ったことが示された。したがって、研究系
はいずれの政治権力からも緊張関係があったことが明らかになった。
 さらに第4節では、研究系の形成の一端を見るために、ほかの知識人との交
流を明らかにした。そこでは、党派や立場に関わらない幅広い交流が認められ、
そうした交流も知識人集団としての研究系の大きな形成要素であると指摘した。
 続く第4章では、研究系の政治思想を、あまり先行研究が発表されていない
連邦論を中心に考察した。筆者は連邦制そのものの検討、および近代中国にお
ける連邦制の受容に関する予備的議論を行った後、まず梁啓超の連邦論に対す
る考えの推移を分析し、以下のように述べた。辛亥革命後における梁啓超は、
梁個人の文章でも、進歩党などの国家構想においても、中国には強力な政府が
必要であるとして、連邦論を中国に適用させることには否定的であった。とこ
ろが、そうした考えは1918年末からのヨーロッパ視察前後に劇的に変化した。
視察後の梁は、中央に対する地方の主体性を確保し、国家がそれを追認すると
いう形で中央と地方の統括を模索するようになった。それは梁自らが深く関わ
った湖南省憲法においても色濃く見られる視角であったと考えられる。
 次に第2節(2)において、筆者は張東蓀と張君勱の連邦論について述べた。
その概要は以下の通りである。張東蓀は1910年代から連邦制に好意的であった。
東蓀にとって連邦制とは、中央と地方が互いに牽制しあい、国家が人民に対し
て大きな権力を持たないようコントロールされるために必要な制度であった。
ただし一方では法律や議会のように中央が主導させる分野も残しており、全体
的には連邦制と集権制を併用したような国家構想を抱いていた。
 それに対して、民国初期における張君勱は連邦制に興味を示してはいたが、
梁啓超と同様、連邦制を中国に適応させることには反対した。だが梁と同じく
ヨーロッパ視察あたりから考えを変化させ、とりわけドイツの制度に影響を受
けて連邦制を理論としては認めるようになる。さらに1920年に発表された張東
蓀との往復書簡「中国之前途:徳国乎?俄国乎?(中国の前途:ドイツか?ロ
シアか?)」において張東蓀と張君勱は理論でも制度でも連邦制に賛成すること
となったのであった。
 これらの分析をもとに、筆者は第3節で以下の考察を行った。梁啓超・張君
勱・張東蓀の三者は1920年代に「連邦論賛成」という立場を同じくした。1920
年代における研究系の連邦制をめぐる議論は、軍閥割拠という状況を生かし、
中国に連邦制を導入させるものであったために、より権力を多元化させる国家
構想を提起する結果となった。西洋のモデルを援用してこうした具体的な中国
の国家構想を提起したこと自体に、研究系知識人たちの理念的な貢献が認めら
れる。国民党や共産党などの知識人たちが同じく権力の分散という点から連邦
制に興味を示しはしたが、結局は統一を強く意識した国家構想を主張したのに
比べれば、研究系のモデルの独自性は歴然としている。さらに研究系の三人の
議論だけをとってみても、同じ連邦制の議論でも様々なタイプに依拠した国家
構想が提起されており、彼らが連邦制の持つ多様な可能性を模索していたこと
にも彼らの独自性が認められる、と。
 第5章では、研究系が運営し教育にあたった国立自治学院という学校のカリ
キュラムの変遷を通じて、研究系と「学閥」を中心とする地方政界や教育界な
どの諸勢力との関係を考察した。彼らの理想とするカリキュラムは諸勢力によ
って軍閥式のそれへと近づけられ、さらに国民党によって閉鎖に追い込まれた。
いいかえるなら、研究系の文化的資源は諸勢力の圧力の下で妥協を重ね、影響
力のなさを露呈したあげくに、四年ほどで新たな政治権力によって閉鎖された
のである。だが、張君勱らは短い期間ではあったが自らカリキュラムを設定し、
それに沿って授業を行っていたことなどからわかるように、政治が文化を単線
的に支配するわけでは決してなかったことも指摘されねばならない。もちろん
その一方で学校維持のために諸権力と交渉し、その結果として妥協的な関係と
ならざるをえなかった。したがって筆者は、学校という制度からみても、研究
系と政治権力とは緊張関係もあり、その一方で妥協的な関係もあったと結論づ
けた。そのうえで、研究系が後に政党活動をするうえで片腕となる人材が国立
自治学院から育っていることなどは、政治に対する文化のささやかな抵抗であ
るといえるかもしれないと指摘した。
 終章においては、まず第一節で1929年以降の張君勱および張東蓀の行動を述
べた。概要は以下の通りである。
 1929年になると国民党の統治体制が固まり、張君勱と張東蓀は言論活動の自
由が著しく損なわれた。張君勱はドイツへ渡り、張東蓀は国内でそれぞれ学術
に専念した。張君勱は、張東蓀が務める燕京大学の招きで1931年に帰国した。
国難に直面した二人は長年温めていた政党結成について話し合い、1931年に中
国国家社会党を創設、これ以降、彼らは国民党と共産党以外のいわゆる「第三
勢力」として政界で活動した。だが、彼らが国民党独裁政権下において実質的
な権力を持つのは非常に困難であった。1946年、国民党は形式的に他の政党を
参加させて「民主的」に憲法を定めるための国民大会を召集した。後に「制憲
国大」といわれたこの国民大会に独断で参加した張君勱は、それに強く反対し
た張東蓀と袂を分かつことになる。張君勱は1949年の中華人民共和国建国時に
台湾に逃れ、すぐにインドや日本などで学術講演を行った後アメリカに移住、
1969年にサンフランシスコで病死した。一方の張東蓀は1949年以後も中国大陸
に残ったが、文化大革命や身内の自殺によって精神的に疲弊し、1973年に北京
で病死している。
 次に、第二節において本論各章の論点の整理を行い、第三節において本論の
結論を述べた。そこで筆者はおおむね以下のように指摘している。
 梁啓超をはじめとする研究系の行動の根底に流れる姿勢は、実は清末以来一
貫していた。それは、一方では国家権力を牽制し、その一方で国家と国民の間
に立って利益を調整するという役割を担うために知識人の存在が不可欠である
という考え方である。
 こうした考えのもとで民国初期に研究系は参政を果たし、梁啓超らは入閣に
まで至ったが、実際の政界においてはさほど影響力を持たなかった。
 研究系は政治権力を志向しつつ文化的活動を繰り広げようとする点で士大夫
的側面を持っていたことは否定できない。だが、こと政治の場面における影響
力という側面から考えてみると、彼らはたとえ政権内にいたときでさえ自らの
国家構想を実現することはほとんどできなかった。たとえメディアの発達など
に伴って文化活動の影響力を増大させたとしても、政界においては「周縁化さ
れた」近代的知識人のまま参政することを余儀なくされていたのであった。
 こうしてみると、研究系は今までの知識人研究に見られたような「士大夫か
ら近代的知識人へ」、あるいは「政治の中枢から周縁化された存在へ」といった
図式では理解されえない存在であった。彼らは1910年代に政治権力の中枢にい
たときも、1910年代末に政治の舞台から降りたあとも、そして抗日戦争時期に
「参政」を果たしたときも、一貫して第1章で述べたような「近代的知識人」と
いう存在、あるいは「士大夫的意識こそ持つが実際は近代的知識人」ともいえ
るような存在であったのである。
 それでは、彼らが終始重点を置いた文化的資源とは、近代中国にとってどの
ようなものだったのか。ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)が
指摘したように、近代世界において出版資本主義はナショナリズムの起源の大
きな要因となっていた。1920年代の中国においてもメディアが大規模になり、
初歩的ながら出版資本主義がみられ、五四新文化運動に伴って言語の改革も進
んだ。研究系の新聞や雑誌が五四新文化運動の大きな舞台となったことから、
彼らは、知識人、学生、あるいは一部の国民をも巻き込むある種のナショナリ
ズムを喚起したことには成功したとはいえるだろう。
 ところが、研究系の文化的資源はあくまで知識人向けであり、実際に起こそ
うとした国民運動などもすべては学生を中心とした知識人に向けてのものにす
ぎなかった。それに加えて、北京政府および国民政府という政治権力側による
「公定」ナショナリズムが強制力をもって流布した。それゆえ、清末から民国
へと至る政治過程を見渡すとき、政治権力と対峙した場面においては、文化的
資源は何の影響力もなかったとは言えないまでも、限定的なものにならざるを
得なかった。文化的資源の影響力は、その広さや浸透度といった点に大きな限
界があったのである。
 結局、研究系は、自らが固執した文化的資源の性質ゆえに、政治の世界でも、
中国社会においても影響力を低下させてしまったともいえるのかもしれない。
もちろんこれは研究系だけのケースではなく、近現代中国という独特な磁場に
置かれた多くの知識人にもあてはまる悲哀だともいえるだろう。
 続く第4節では、今後の課題および展望について述べて締めくくった。

4.本論の総括、および今後の課題・展望

 本論は、先行研究の状況を以下の方面で進めることができたと考えられる。
まず、中国研究において「傍系」とされてきた研究系という集団をトータルに
扱う研究は日本では現在までほとんどなかった。集団の、そして個々のメンバ
ーの思想・政治的な交流を強調しつつ彼らの行動や思想を後付け、そこから当
該時期の政治史や思想史、言論史全体を照射しようとする作業自体に意義が認
められよう。
 次に、思想史や知識社会学といったアプローチから研究系の言論を分析する
ことで当時の言論界を照射し、実際の行動をも含めてその文脈全体のなかから
研究系を定位しようとする研究は中国、台湾を含めてほとんどないため、その
点にも本研究の意義がある。さらにそうしたスタイルは、既述のようにそれぞ
れの「党派」を独立した勢力として捉えがちであった知識人集団の研究スタイ
ルを打破するものである。
 最後に、先述の通り、彼らを「近代中国における政党政治」のケース・スタ
ディとしてみることにより、思想史の方面から中国の政党政治を見直す端緒と
なりうるかもしれない。
 ただし、本論は研究系というきわめてミクロな視角から近代中国知識人を述
べたにすぎないため、当然のことながら本論で論じられなかったことも多い。
また、先行研究の乏しさから、本論は研究系の研究としても、中国近代知識人
の研究としても、いうなれば基盤的な研究とせざるをえなかった側面もある。
だがそれは、多くの方向に延伸させうる研究であるともいえるだろう。考えう
る多くの方向から、今後の展望として二つほどあげておく。
 まず、抗日戦争時期における研究系の言論を厳密に分析し、1920年代と1930
年代、あるいは戦後まで考慮したうえで思想と行動の連続面と断続面を探る、
という方向が考えられる。本論と全く同一の視角というわけにはいかないだろ
うが、少なくともテキスト分析のレベルで考察することはできよう。
 もう一つの方向としては、民国初期、すなわち本論が対象とした1910年代か
ら20年代の思想史および言論界の一側面を、別の知識人の思想や行動から照射
することができるだろう。たとえば、直接的な政治活動などに一切興味を示さ
ず、純学術的な集団を形成しようと努力した知識人などを題材にすれば、本論
とは全く違う側面が明らかにできるはずである。
 いずれにせよ、これからも近代中国における知識人の営為および言説を、多
角的な方法論から明らかにしてゆきたいと考えている。

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