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博士論文要旨

論文題目:啓蒙運動とフランス革命 ― 革命家バレールの誕生
著者:山﨑 耕一 (YAMAZAKI, Koichi)
博士号取得年月日:2007年10月10日

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 本論文はフランス革命期に憲法制定国民議会および国民公会の議員として、とりわけモンタニャール独裁期の公安委員会委員として、革命の展開に大きな影響を及ぼしたベルトラン・バレール・ド・ヴュザック(1755-1841)の革命前における思想形成を明らかにするとともに、彼が高等法院弁護士として活動していたトゥルーズの文芸アカデミーであるジュ・フロローの活動、とりわけバレールと同じように高等法院弁護士をしながらジュ・フロローでも活動していた3人の弁護士(P.-F. ド・ラクロワ、A.-A.ジャム、J.-B.マーユ)の思想を解明することをテーマとする。そのように二重のテーマを設定することで、一方ではバレールの思想形成を同時代の社会の中に位置づけ、相対化するとともに、ふたつのテーマを組み合わせることで「啓蒙思想」とフランス革命のつながり、具体的にはフランス革命を経験することになる世代の人々はどのような書物を読み、どのような思想を形成して革命の奔流に入って行ったのか、革命前に形成した思想と革命に対する態度にはどのような連関があるのかという問題にひとつの光を当てたいと願うのである。
 「啓蒙思想とフランス革命」に関する古典的研究は1933年に出版されたダニエル・モルネの『フランス革命の知的起源』である。この書物は、著者自身による慎重な留保にもかかわらず、「啓蒙思想がフランス革命を準備した」もしくは「フランス革命は啓蒙思想が考えたものを現実に実践しようとした」という命題を実証的に論証したものと受け止められ、その後の研究史を基本的に規定することになった。しかし近年に至ってこうした命題に疑問を呈する研究が現われている。R.ダーントンは、フランス革命は啓蒙思想家たろうとしてもなれなかったボヘミアン文学者によって引き起こされたのであって、啓蒙思想の正当な後継者はむしろ革命に敵対的であったとする。K.-M.ベイカーは「啓蒙思想からフランス革命へ」という流れを否定し、啓蒙思想とフランス革命の双方を可能にした社会的要件として「世論」の出現を指摘する。またR.シャルチエは統一的な思想運動としての啓蒙思想の存在を否定し、「フランス革命が啓蒙思想を作り出した」という逆説的な命題を提示している。彼らはいずれもモルネ説(と従来の研究史で位置づけられていた説)を正面から否定しているのである。
 本論文は、こうした研究状況を踏まえて、18世紀の後半にトゥルーズで活動した弁護士=地方文化人の活動を明らかにするという、ひとつのケース・スタディを行なうことで、上の問題に接近したいと思う。その際に、「啓蒙思想」とあえて区別して「啓蒙運動」という概念を提起する。前者はさまざまな社会批判および改革のプログラムを示すために形成された思想であり、これまでの研究史においておよその思想内容や、その担い手である「啓蒙思想家」に関して、研究者の間にある程度の合意が見られるものである。それに対して後者は、社会や文化の現象を自覚的・批判的に考察し、また改革の実践に乗り出そうとする意志・態度である。それが「啓蒙思想」が示す方向と一致するか否かは問わない。そうして、「啓蒙思想」は一旦カッコに入れ、当時の人々における「啓蒙運動」の現われかたを(それが目指す方向は一義的な問題とせずに)探ることによって、研究の現状にひとつの示唆を与えたいと願うのである。
 二部構成をとる本書の第Ⅰ部が「バレールの思想形成」であり、その第一章は「バレールの生涯」であるが、これは第Ⅰ部全体への導入として、先行研究に依拠しながらバレールの一生を概観したものなので、ここでは省略する。第二章においてバレールの社会思想を取り上げた。1782年にジュ・フロローの懸賞論文に応募した「ルイ一二世頌」からは、バレールが「世論が国王を審判する」という考えを受け入れており、民衆の幸福を実現したか否かが審判の基準となること、立憲君主制を理想としたこと、農業は無条件で肯定されるが、商業は功罪相半ばする両義的な産業であること、法律と裁判制度の整備を求めていること、血筋や家柄よりも個人の功績を重視していることを明らかにした。バレールの社会思想は細かい点では、とりわけ1787年に名士会が召集された頃から、変化を示すが、大筋においてはここで示された思想がバレールの基本的な立場となる。翌83年に、同じジュ・フロローの懸賞に応募するために執筆した「航海術は有益である以上に有害であったか」というタイトルの論文では、商業と貿易の善悪両面がより細かく示されるとともに、この時点においてすでにバレールがルソーの最初の2論文に見られる文明社会批判を受け入れていること、ナショナリズムの萌芽が見られることが明らかにされる。同じ83年に発表した「フルゴル頌」、その翌年の「セギエ頌」からは、法制度の整備・拡充をめざすとともに、法典にもとづく「法の支配」を実現することによって民衆の幸福を実現するのが法曹の使命であり生き甲斐であるとして、高等法院弁護士であるみずからの職業への誇りを語っている。しかし、これを単に他の法曹たちへの連帯意識の表明と受け取るのは誤解である。18世紀の前半から王権は北フランスの慣習法を基盤にして法典の統一を進めていたが、ローマ法の伝統を継ぐ成文法地域であるトゥルーズではこの統一に反対する空気が強く、法典統一に協力したフルゴルはトゥルーズ高等法院弁護士でありながら地元では冷遇されていた。それに対してバレールは自らもフルゴル同様、慣習法を基盤とした法典統一に賛成の立場に立つことを「フルゴル頌」で宣言したのである。
 第三章ではバレールの哲学ないしは学問観を取り上げた。1787年にジュ・フロローの懸賞に応募して執筆した「ルソー頌」において、彼はルソーを、逆説を記し、矛盾した記述も辞さなかった著述家とみなす。ルソーが文明を批判し、人を「無知と森の中」の自然状態に連れ戻そうとしたのは誤りであるが、こうした誤りを犯さざるを得なかったのは、ソクラテス以来受け継がれてきた哲学と徳の融合が18世紀に見失われ、「計算と個人的利害に基づく道徳」が広まり、善への愛・愛国心・習俗が失われたからであった。バレールは、ルソーの誤りを批判するよりも、自分たちの時代の思想の堕落を反省せねばならないと説くのである。彼は、ルソーの政治論は事実上論じなかった。1788年にジュ・フロローの会員選出された際の入会演説は20世紀の研究者には知られなくなっており、そのテクストは失われたと考えられていたが、筆者がバニェール・ド・ビゴールの市立図書館で発見し、復刻した。その中でバレールは、哲学の発展段階とそれに対応する文学形式を取り上げ、哲学があまり発展していない段階では詩歌が人々を教導するのに有益であるが、哲学が発達すると雄弁がそれにふさわしくなるとみる。そして、拷問の廃止・農奴制と賦役の消滅、刑法改革と刑罰の緩和、プロテスタントへの市民権の付与を、哲学と雄弁が協働して社会改革を導いた実例とするのである。しかし哲学がさらに発達すると、それのみが文学を差し置いて一人歩きし、理屈のみが支配して魂の高揚が失われた悲惨な世界が出現する。バレールはそれを「無知と野蛮の闇」と呼び、ジュ・フロローのような文芸団体が努力して、そのような状態の出現をくいとめるよう訴えるのである。すなわち、「ルソー頌」における「徳と結びついた哲学」と「計算と個人的利害に基づく道徳」の対比は「雄弁と協働して社会改革を実現する哲学」と「無知と野蛮の闇」の対比として受け継がれることになる。
 第四章ではバレールの弁護士としての活動を扱う。高等法院においては訴訟は書面審理で行なわれることが多く、弁護士は依頼人の主張を文書に記して高等法院に提出したが、その文書は通常は印刷され、パンフレットとして販売された。そのパンフレット=訴訟弁論書を史料として、バレールが弁護活動においてはどのような思想を語っていたかを明らかにした。彼は晩年の『メモワール』において、自分は弁護士として「貴族の平民に対する、アリストクラシーの第三身分に対する、傲慢な偏見の有益な職業に対する」訴訟において常に「有力者に対して被抑圧者を弁護した」と語っている。しかし彼が記した訴訟弁論書を見ると、平民に対して貴族を弁護し、下位の助任司祭に対して上位の主任司祭を弁護している場合もあって、必ずしも『メモワール』通りではない。仮にバレールが「強者」に対して「弱者」を弁護することを心がけていたとしても、「強者」と「弱者」を「貴族・アリストクラシー」と「平民・第三身分」という身分もしくは階級の対立としたのは、フランス革命を経験した後の意識を革命前に関する記述に投影したと考えざるを得ないのである。また彼は弁護を担当した訴訟によっては、共同放牧を支持して農業個人主義の進展を阻止しようとし、同業組合を支持して営業の自由に一定の枠をはめようとし、領主の移転税を支持して農民の解放には目を向けないこともあった。またバレール一族は地元のビゴール地方において有力な地位を占める名望家であったのだが、その嫡男であるベルトラン・バレールはトゥルーズの高等法院において、出身地であるピレネー地方での紛争の弁護を担当することが比較的に多かった。そしてその際には、基本的に地元の旧来の伝統・慣習を尊重するよう求めることが多かったのである。すなわち弁護士バレールの活動からは我々が通常「啓蒙思想」の名で理解している考えはあまり見受けられない。それでは彼は啓蒙運動とは無縁だったのかというと、決してそうではない。彼が種々の訴訟の中で絶えず主張するのは、捜査や裁判に関する規定の尊重、刑事被告人の人権の尊重、なされた犯罪とそれに対する刑罰の均衡の重視であり、これらの主張が守られていない現状を彼は「専制」と呼んで、鋭く告発するのである。「専制」という概念の内容はバレール独自のものであるかも知れないが、「専制を批判・告発する」という18世紀フランスの啓蒙運動の流れの中に彼がいたことは確かなのである。
 第五章では再び書斎のバレールに立ち戻り、1787年から89年まで、すなわちフランス革命の最初の一歩が踏み出されてからアンシアン=レジームが滅びるまでの3年間に毎年1点ずつ、合計3点執筆された「モンテスキュー頌」を検討する。頌辞の内容は省略し、それぞれの特徴のみを記したい。「1787年版」においては、バレールは全面的にモンテスキューを賞賛し、中でも3権の分配の原理を発見したのがモンテスキューの最大の功績であるとしている。すなわちバレールは、専制はもちろんのこと、君主制も共和制も理想の政体とはみなすことができず、いかなる政体においても行き過ぎの弊害が見られることを指摘していた。故に、立法・司法・執行の3権がそれぞれに分配され、いかなる組織や機関も単独では最終的な決定権を持ち得ない制度はどの政体においても導入されなければならないのであり、その制度によって「行き過ぎ」や「混乱」を避けることが要請されるのである。ところが翌年の「88年版」になると、法の概念、君主制における貴族の位置、聖職者の権力、3政体の原理、風土論の5点において、バレールはモンテスキューを批判するようになる。それは、民衆全体が立法権を持ち、君主が執行権を担い、これら2者からは独立した団体が司法権を担当するという、バレールに即して言えば民主主義的な君主制を彼が理想として掲げるようになり、そうした政体をいわば唯一絶対のものと見做すが故に、モンテスキューの風土論的相対主義と、それに基づく政体論が批判の対象になったものであることを示しているのである。その背景には、三部会の召集が正式に決定するという政治状況があった。「89年版」の論理も基本的には「88年版」に等しい。しかしここでは貴族に対する批判がより強くなっている。「89年版」が執筆された時には、第三身分代表議員が特権2身分の抵抗を排して一院制の憲法制定国民議会を成立させており、封建制の廃止宣言や人権宣言も現実のものになろうとしていた。そのような状況を踏まえて、バレールは国王の専制よりも貴族の反動の方がより重要な敵対勢力であることを見て取っていたのである。また「89年版」においては目の前に展開する革命の成果を全面的に肯定し、満足するとともに、新たな状況はもはやモンテスキューの思想の射程を超えているとも考えており、「フランスの保護者たる神」に向かって「新たなモンテスキュー」を遣わしてくれるように祈っている。一般化して言えば、バレールにとってはフランス革命は「啓蒙思想」が敷いたレールの上を走っていくものではなく、「啓蒙思想」の射程が尽きたところから出発して手探りで進んでいくものだったのである。
 第Ⅱ部は「トゥルーズでの啓蒙運動」である。第一章「アカデミーの活動」では1750年から1790年にいたる40年間のジュ・フロローの活動を概観した。1750年代には伝統的な文学様式への信頼が生きており、アカデミーが定めた規範を尊重すべきことが繰り返し説かれている。また哲学とは自然や社会の体系的な認識ではなく、心の平和と安穏を保つ「知恵」であり、それはキリスト教による救済と不可分のものとして捉えられている。こうした文学観・哲学観は60年代以降に次第に変化していくが、政治思想においては50年代から君主と人民の間に「中間的諸権力」が介在する穏和な君主制が理想として説かれており、こうした政治論は1790年にアカデミーが解散されるまで一貫して説かれ続けることになる。1748年に出版された『法の精神』の影響がトゥルーズで現われるのは、モンテスキューが没した1755年以降であるが、それは上に記したような政治論を理論的・実証的に補強するものとして絶えず利用されることになるのである。また経済に関しては農業の無条件の肯定と賞賛、商業・貿易とそれがもたらす奢侈への猜疑心は見られるものの、まとまった経済思想と呼べるほどのものは見られない。奢侈の断罪は道徳的な視点からなされるのであって、奢侈の経済的効果への言及はない。また南フランスの北フランスへの対抗意識と、宮廷貴族の奢侈と腐敗に対する地方高等法院関係者の批判が重なり合い、一体化して表明されている。1760年以降、文学と哲学に関して新たな潮流が出現する。哲学を世界の合理的・体系的な認識と捉え、このような意味での哲学の普及こそが一義的に重要であるとみなして、文学は哲学の普及に貢献しなければならないし、また貢献する限りにおいて価値を持つと考える立場である。この立場においては、伝統的に受け継がれてきた文学の規範はほとんど重視されなくなる。もっとも、合理的・体系的な認識としての哲学を認めずに心の平穏をもたらす「知恵」を重視し、理性にしか働きかけない冷たい哲学よりも魂を高揚させる文学を重視し、伝統的な規範に則った詩歌を詠むことを自己の課題とする、50年代には有力だった伝統的な立場が消失したわけではない。この伝統的な立場もひとつの流れとして1790年まで続くのであり、革命直前には一時的にかなり強く表明されすらするのである。また世界の合理的・体系的な認識といっても、その内容は様々であり、必ずしも現在の我々が「啓蒙思想」として了解しているものと重なり合うわけではないことにも注意しておかなければならない。
 第二章から第四章までは、1章で一人ずつ、ジュ・フロローで活動していた高等法院弁護士を取り上げた。最初がP.-F. ド・ラクロワ(1732-1786)である。彼は、アカデミーの文人としては、上記の伝統的な立場を明確に表明している。エルヴェシウスやモンテスキューを名指しで批判し、彼らに代表されるような「当代の哲学」を「無知の時代が生み出した偏見」と決め付けている。またルソーの作品のパロディを作って、彼を揶揄した。1774年に発表した「イゾール頌」は伝統主義的文学観のマニフェストと呼びうる作品である。そのように、文学観においては保守的といえるラクロワがヴォルテールの依頼に従って、プロテスタントで自分の子供を宗教的理由から殺害したと疑われ、有罪判決を受けたシルヴァンが無罪を主張して判決の取り消しを求める裁判の弁護に当たるのである。その際に、訴訟弁論書においてラクロワが主張するのは「寛容」であった。プロテスタントにもカトリック教徒と同じ人間性を認め、カトリック教徒と同じ権利を承認しようとするものである。シルヴァン事件はプロテスタントをカトリック教徒と対等に扱おうとはしないカトリック側の偏見から生じたのであって、ラクロワはこうした偏見を「狂信」として激しく断罪するのである。もっとも、ラクロワはプロテスタンティズムとカトリックを宗教的に同等と見ているわけではない。彼にとって正統的なのはあくまでもカトリックのみであった。しかし彼によればカトリックの信仰そのものが「寛容」を要請するのであり、また「寛容」は「狂信」よりもプロテスタントをカトリックに改宗させるのに有効でもあるのだった。シルヴァン事件には宗教以外の要素も含まれていたのだが、ラクロワはある種のフィクションを訴訟弁論書に入れ込むことにより、被告のシルヴァンをその信仰故に迫害を受けた有徳な人格者として描き出し、事件を旧弊なカトリックの「狂信」がもたらした冤罪事件に仕立て上げて、「狂信」に対する「寛容」の勝利を謳い上げたのである。それでは、文学的・哲学的には保守的で「狂信」と区別された「本来のカトリック」を信じるラクロワは、なぜ宗教一般を敵視する啓蒙思想家ヴォルテールと連帯できたのだろうか。この問いへの十全な回答は示しえないが、ラクロワのヴォルテール宛書簡から窺うと、彼はヴォルテールを自分と同じ伝統主義的な立場に立つ古典主義の劇作家として見ていたことが、ひとつのヒントとして指摘できるのである。
 第三章ではA.-A. ジャムを取り上げた。彼は村の公証人を父としてトゥルーズ近郊に生まれ、自身はトゥルーズ高等法院の弁護士となって成功し、フランス革命直前には弁護士会長を務めていた。1774年、国王ルイ一五世が没した直後に公表した「ルイ一五世頌」においては、ルイが人間愛と慈悲の心から国民の幸福を最優先させ、そうした姿勢が国民から評価されて「最愛王」の愛称を受けたこと、フランスにおける法典の整備と統一に尽力したことを評価する。これらはバレールにも共通する思想である。さらに、『百科全書』の刊行に代表される学問・技芸の振興、産業育成策についても評価するとともに、ジャンセニズムに関する国王の政策に触れる際には宗教にたいしてかなりあからさまな批判の矢を放っている。1788年に大バイイ裁判所が設置されて高等法院の権限が大幅に削減された際には、高等法院を擁護するために書簡を執筆しているが、その中では『百科全書』、『法の精神』、『聖書政治学』、『テレマックの冒険』、モロの『フランス史』、さらにはマルゼルブの建白書やマシヨンの御前説教など、様々な思想傾向を持つ文献を同じ平面に並べて引用し、種々の論法を組み合わせながら、高等法院の維持を訴えた。その後、三部会の召集に際してはトゥルーズ市第三身分の陳情書の執筆に参加しているが、ここでは、社団的枠組みから独立した個人と、その集合である「国民」、個人の功績を重視するメリトクラシーなどの理念を打ち出している。すなわちジャムは、いわゆる「啓蒙思想」の枠組みには収まらないものの、かなり開明的な精神の持ち主で、思想においてはバレールと共通する面も多かった。三部会が召集された直後までは革命にも好意的なのだが、1789年の後半には、バレールと対照的に、反革命に転じている。そこから振り返ってジャムのジュ・フロローでの活動を見直すと、思想においては上記のようにバレールと似ているのだが、文芸作品においては科学技術の進歩を神話のイメージに託して詩歌によって表現しているものがいくつも見られる。すなわち文学観においてはジャムは保守的だったのである。そして、文学において伝統を守ろうとする態度と高等法院の伝統を守ろうとする態度が呼応しあい、革命が狭義の政治改革を超えて社会変革へと進み、高等法院を廃止するような方向を示すと、政治思想において比較的に開明的なジャムは革命から離れたのだった。
 第四章で取り上げたのはジャン=バチスト・マーユである。彼は国民公会議員として国王ルイ一六世の裁判に関する法律問題を調査し、国王は国民公会が裁判しうるという結論を報告して、国王裁判への道を開いたことで知られるが、バレールと同じくピレネーの出身であり、バレールとほぼ同じ時期にトゥルーズ大学に学んで、トゥルーズ高等法院弁護士となった。ジュ・フロローの作品集には7篇の詩と1本の論文が残っている。詩の中にはイギリスのチャールズ二世、オーストリアのマリア=テレジア、フランスのアンリ四世をテーマにしたものがあり、これまでの研究者はそれらを手がかりにして革命前のマーユの政治思想を読み解こうとした。しかし短い詩からまとまった思想を抽出しようとするのは無理があって、7篇全部を通して読むと、マーユが詠ったのは野心的な若者のロマンチックな夢と憧れであり、まとまった思想というよりは様々な方向への可能性を持った思想の萌芽なのであることがわかる。マーユ自身が、それらの作品で語っているのは自己の夢想であることを自覚しているのである。とはいえジャムの詩と比較すると、マーユは神話的なイメージや比喩を用いることがなく、古典古代の詩のテーマや形式を意図的に避けているという特徴が見られる。詩作で示された萌芽がある程度はまとまった政治思想に成熟した時、マーユはそれを散文で表現した。1784年のジュ・フロローの懸賞論文「北アメリカで最近起こった革命の偉大さと重要性」であり、マーユはこれに応募して入選したのだった。この論文によれば、アメリカ合衆国の独立は単なる一国民の問題ではなく、人類の幸福に関わるのであって、海洋をイギリスによる独占から解放することにより諸国の自由な貿易が拡大し、それによって民族や宗教がもたらす偏見が除去され、経済と産業が発達し、科学と技芸が進展する。アメリカの独立と相前後する気球の成功は、あらゆる限界を超えて伸びていく人間の能力のシンボルなのである。未来に向けた無限の進歩を信じる点で、マーユはジュ・フロローに作品を寄せた人々の中でも特異な存在であった。これが一種の夢であることはマーユ自身も自覚している。しかし、現状を分析し、現実の中に認められる諸条件を根拠にしながら未来への夢を語る時、マーユは革命家への第一歩を踏み出したのだと言えよう。このような彼の蔵書目録を見ると、所蔵点数は特に多くはないが、平民弁護士としては別に貧弱とも言えない蔵書数である。ただしその大部分は法律関係の書物であって、弁護士としての職業に必要な書物が中心であり、それ以外の書物はあまり所持していなかったことがわかる。いわゆる「啓蒙思想家」としてはルソーとモンテスキューの作品しか所持していない。同時代の知的流行はマーユの蔵書にはまったく反映されていないのである。また何点かラテン語の書物が見られる他はフランス語の書物であって、外国語の書物はまったく見られない。そのあたりに彼の教養の限界が窺われるように思われるのだが、同時に別の特徴も指摘できる。全集などを機械的に全巻揃えたりはせず、選択して購入していたことが窺われること、書物のサイズが全般に小さめなことである。この特徴は、彼が自らの読む書物を主体的に選択し、批判的な読書を行なっていたことを窺わせるのである。
 以上の考察を踏まえて、終章で結論を述べた。記してきたように、バレールにも、またトゥルーズのアカデミーに作品を寄せていた何人かの弁護士にも、社会を批判的に検討し、改革の方向を考えようとする姿勢、すなわち序章において「啓蒙運動」という概念で示そうとした動きがあることが確認できた。しかしその方向はまちまちであり、「進歩的」な面と「保守的」な面が同一人物の中に並存している。「啓蒙思想」という比較的に統一的な、まとまった思想運動が存在していたのかと問われると、我々は躊躇せざるを得ない。それでも『百科全書』の成功と普及という現実はあった。ただし、トゥルーズのジュ・フロローにおいても、ボルドーの科学アカデミーが募集した「モンテスキュー頌」に応募した人々においても、様々な思想傾向を持つ人が同じように『百科全書』に依拠し、引用しながら自らの論述を行なっていたことを考えると、『百科全書』は「啓蒙思想」という思想上の一党派のマニフェストとして支持されたというよりも、様々な思想傾向の人が利用可能な模範文例集として利用されたという側面があるように思われる。また別の問題として、ジャムとバレールはともに国王の絶対性を否定して「世論」の優位を認め、メリトクラシーを擁護してあるべき社会の姿と改革が進むべき方向を示したという点で共通しているにも拘わらず、バレールは積極的にフランス革命に参加したのに対してジャムは革命開始早々に反革命にまわったという事実があり、それと関連してバレールのジュ・フロロー入会演説を聞いた高等法院長カンボンがバレールを「現代思想の不純な乳を吸った危険人物」と評したという事実がある。なぜ類似の思想を持ちながら革命における態度は対照的になり、また類似の思想を持った人物のうちの一方だけが「危険人物」と目されるのだろうか。明快な回答は示しえないが、指摘すべきことは2点ある。第一は、世代の相違である。フランス革命が始まった時にジャムはすでに50代であり、ジュ・フロローの会員に選出されてから20年近く、高等法院弁護士としても成功して弁護士会長の地位にあった。彼はこうした栄達を高等法院を中心とするアンシアン=レジーム社会に負っており、その社会を解体しようとする革命に同調することはできなかった。それに比べてバレール(およびマーユ)は1789年には30代で、若くて有能な弁護士として評判は得ており、ジュ・フロローの会員にも選ばれたばかりであるが、まだ名声の入り口に立ったばかりで、まだ先に進む必要があった。彼らが革命に積極的に参加したのは、失うものよりも得るものの方がずっと大きいと考えたからであるように思われるのである。第二が、文学形式の相違である。ジャムは神話的なイメージに満ちた詩を多く作ったが、論文は書かなかった。マーユは「夢想」にふけっている間は作詩に専念していたが、政治思想が熟してくるとそれを論文で表現した。バレールは頌辞や論文など散文作品のみで、詩は一編も作らなかった。そのバレールが詩歌は哲学発達の初期にふさわしい文学形式で過去のものであり、哲学が発達すると文学形式としては雄弁の方がふさわしいと述べ、哲学と雄弁が融合した成果として18世紀のいわゆる「啓蒙主義的」な改革を列挙し、賞賛したのだった。社会思想においては類似しているジャムとバレールが、文芸活動で採用する文学形式においては対照的だったのであり、まさにその対照性を論じた演説を聞いたカンボンはバレールを危険人物と見たのである。
 以上の本論の後に補論を4章加えた。第一章では、現在ボルドー市立図書館に残っている21篇の「モンテスキュー頌」のうちXV番、XX番、XXbis番の3点をバレールの作品と判定する文献学的根拠を論じた。その詳細は省略する。第二章「モンテスキューをめぐる三つの戯曲」においては、モンテスキューがマルセイユにおいて、父親をさらわれた息子が父の身代金を稼ぐために苦労しているのを見たモンテスキューが匿名で資金援助をしたというエピソードをテーマに1777年と1784年に作られた3点の戯曲を分析した。84年のL.-S.メルシエの作品は等身大のモンテスキューを描いて、読者(もしくは観客)にモンテスキュー作品への読書案内をするとともに、モンテスキューの節約の美徳を賞賛している。同年のJ. ピレスの作品においては、テーマがむしろ父親を思う若者の自己犠牲への賞賛となっており、モンテスキューは有徳な若者に褒賞を与える神の代理人のような存在として描かれる。1777年のモンテソン夫人の作品は、時期的には最初のものだが、内容的にはピレス的な傾向がもっとも強いものである。ここではモンテスキューは実在の人間としての要素をほとんど失ってしまって、勧善懲悪の摂理の化身のような存在となっている。他方、父親のために働く若者を陥れようとする「悪」(ここでいう「悪」とは身分制秩序への違反・敵対であるが)が登場している。作者のモンテソン夫人は、一方ではアンシアン=レジームの社会秩序を肯定し、その中で生きるのを善しとしながら、他方では原初の無垢な自然への憧れ(金銭を気にせず、愛情のみを信じて生きられる世界への憧れ)を、そのようなユートピアが現実にはありえないことを承知の上で、抑えきれずにおり、その結果両者の調和を委ねられるモンテスキューは必然的に現実離れしたスーパーヒーローになってしまうのである。フランス革命はモンテソン夫人に、上記のような「ユートピア」がもしかしたら実現し得るのかも知れないというかすかな希望を垣間見せてくれる事件だった。夫人は周囲の人々に善行を行ない、オルレアン公未亡人(すなわち王家にもつながる大貴族)でありながら恐怖政治期にも危険に遭遇することなく、静かな余生を終えた。第三章「サン=ジュスト著『革命の精神』をめぐって」はサン=ジュストが1791年に憲法制定議会の成果を理論的に整理し,肯定的に評価するために著わした著作を分析する。彼はモンテソン夫人に似て、一方では議会の成果を、フランスの「幸福」を実現するものとして、全面的に受け入れ、肯定する。それにも拘わらず、他方においてはアメリカ・インディアンに体現されている(と彼が信じる)無垢の自然への憧れを抑えられず、その自然の輝きの前では、彼自身が高く評価するフランスの「幸福」ですら色褪せてしまう。彼のその後3年の人生は、原初の自然を18世紀末のフランスに甦らせようとする努力だった。不可能に近いことは承知の上で、ゼロに近い可能性にあえて賭けたのであり、テルミドールのクーデタでその賭けが失敗に終わったことが明らかになった時、彼はまったく取り乱すことなく、従容として死を受け入れたのだった。
 第四章「ルソーとフランス革命―バルニとロビスコ」においては、ルソーとフランス革命ないしはフランス革命におけるルソーを論じた二人の研究者、すなわちロジェ・バルニとナタリー=バルバラ・ロビスコの業績を紹介する。バルニはマルクス主義的な、いわゆる「正統派」の流れを汲んでおり、生産関係を基盤とする階級から社会が構成され、それぞれの階級が自己のイデオロギーとして思想を持つという見解を前提として、ルソーを論じた種々の著述家の作品を伝統的な思想史の手法で分析しながら、その著述家が属する階級と対応させていく。蔵書目録の統計的処理ではアプローチに限界があるテーマを解明するのに、あえて伝統的な手法に立ち返り、その有効性を示した点で評価できるが、思想の一定の自立性を認めず、階級のイデオロギーとかなり図式的に対応させていこうとする方法は強引で、時として破綻を示す。とはいえ、いわゆる「修正派」が実証抜きでルソーと恐怖政治を結びつけ、両者をセットで批判したのに対して、実証的に事例を示しながら反論した点で、研究史上の意義が認められるのである。それに対してロビスコは「正統派」と「修正派」の論争が事実上終焉した後に登場した世代に属し、シャルチエのアプロプリアシオン論など、思想解釈の新たなツールを身につけている。バルニは革命前においてかなり統一的な「ルソー主義」が成立していたことを認め、その「ルソー主義」が革命期に個々の論者にどのように受け止められたのかを問題としたが、ロビスコはそのような「ルソー主義」を認めず、革命期の人々がそれぞれにどのようにルソーをアプロプリアシオンしたのかを問題とする。その結果、類似のテーマを扱いながら両者の論述はかなり異なるものとなっているのである。それぞれの具体的な内容の紹介はここでは省略するが、本章を最後に置いたことによって、序章で論じた「啓蒙」概念の見直しがフランス本国の研究者にどのような影響を与えたかを示すとともに、この博士論文で取り上げたトゥルーズの事例を(テーマはルソーに限定されるものの)フランス全体の構図に位置づける手がかりを示唆した。
 巻末に資料として、バレールのジュ・フロロー入会演説およびマーユの蔵書目録を掲載した。
 本論文は、資料の面ではバレールの「モンテスキュー頌」が従来考えられていたように1787年に執筆された1点のみではなく、88年、89年にも執筆されていて、計3点存在することを示した点、従来失われたと考えられていたジュ・フロロー入会演説を発見・復刻してその内容を分析した点がオリジナルである。またバレールの訴訟弁論書、マーユの蔵書目録は、存在自体が問題となっていたわけではないにせよ、史料として取り上げて内容を分析した先行研究はない点で、オリジナリティを主張できるであろう。またバレールの諸作品を草稿と種々の印刷版を比較して細かい異同を検証した上で論じたことも指摘しておきたい。また論証の面では、「啓蒙思想」と区別した「啓蒙運動」の概念を提唱した点、ダーントンが提唱する「革命家=ボヘミアン文学者」説とは別に、立身出世の道を順調に歩んでいる若くて有能な弁護士がさらなる飛躍の場を求めて革命に参加した可能性を示した点、それと関連して、同様に有能な弁護士であり類似の社会思想を抱きながら、世代の相違もしくは既に得ている社会的地位の相違から反革命にまわる場合もあることを示した点、『百科全書』はいわゆる「啓蒙思想」のマニフェストとしてではなく、様々な思想的傾向の人々がともに利用しうる「模範文例集」として利用されていた可能性を示唆した点がオリジナルな主張であろうと思われる。

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