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博士論文要旨

論文題目:朝鮮高宗の在位前期における統治に関する研究(1864~1876)
著者:金 成憓 (KIM, Sunghyae)
博士号取得年月日:2008年7月30日

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 1863年12月、高宗は傍系王族として朝鮮の26代の君主に推戴された。彼は、仁祖の血孫である南延君の孫であり、南延君が後嗣のなかった恩信君(英祖の第二子である荘献世子の息子)の養子に迎えられたことによって、英祖の後孫として再び王族の範囲に入った。高宗の即位には、神貞王后と大院君との間における権力掌握に対する合意や、安東金氏をはじめとする諸政治勢力の協調、あるいは黙認が存在していた。こうした各勢力の政治的意図の下で、高宗は、神貞王后によって君主に指名されたうえで、翼宗の養子に入籍されて大統を継いだが、彼の即位には、実父の生存という前代未聞の状況が伴っていた。
 高宗の在位前期(1864年~1876年)は、高宗が聖学に集中して、大院君への権力委任と政治活動の支持を標榜するなか、大院君が国政を主導していた大院君政権期(1864年~1873年)と、高宗が統治権を回復して、君主による政治運営体制の強化・安定を図っていた親政初期(1874年~1876年)に分けることができる。
 即位する当時、高宗はまだ12才の少年で、帝王教育を受けていなかった。そのため、前例に依って神貞王后の垂簾同聴政が定められ、高宗には聖学に専念して、君主としての力量を育てることが強調された。高宗は在位前期の10年間、神貞王后と大院君が国政を総轄するなか、政治勢力との軋轢や政治的問題から比較的自由で安定した状況で、実質的な政治参与より聖学に励んでいた。彼の教育は講筵と呼ばれて、二品以上の高位官僚が講官として參加しており、高宗の成長と政治的立場の変化によって、勧講(1864年1月~1866年2月) → 進講(1866年3月~1873年12月) → 日講(1874年1月~)に名称が変わっていた。また、講筵には承政院官員が主管する召対が加えられ、主に史書の講読が行われていた。
 高宗の講筵は、即位初期の勧講の時に最も多く開催されており、その間、講筵には講官の他に時原任大臣らが頻繁に參加して、高宗の教育上達を輔導していた。朝鮮の君主には、統治権力の正統性を維持するため、天命と民心に符合して祖宗を見習うことが求められていた。これは高宗にも同様に適用されて、彼は、聖君への道が民本の具現にあると学び、60年間にわたる勢道政権下で苦しんでいた民生を救済することが君主の統治の目標であり、また君主の権力基盤を安定させる最高の方法でもあると教育されていた。このなかで、高宗は、民生と地方事情に対して持続的に関心を示すとともに、祖宗の行跡や君臣関係の正しいあり方、諫言の受理を強調して、君主としての役目を自覚しているという姿を表していた。要するに、高宗は民生安定を君主の最大の課題で任務として受け止め民生問題に積極的に取り組んでおり、このような過程で君主の資質を形成・発揮して、統治権者としての地位を構築していったのであった。
 このように、高宗は聖学をつうじて、学問的理論をはじめ、聖賢と祖宗の傳統の踏襲、民生安定の重要性などの君主の持つべき基本徳目や姿勢を学んでいた。高宗の学問の精進は、すべて時原任政府官僚によって構成された講筵官が輔導・補佐しており、高宗は彼らとともに政治的問題と解決方案についても討論していた。そして、高宗は、当時の政局の人事改編・移動と密接な関連を持っていた講筵官と、講筵のみならず次対などの政治会合においても頻繁に接するなかで、大院君政権期の政権担当者の思考と政治的志向を自然に覚えて、政治家としての感覚と資質を育てていた。また、大院君の政策に積極的に協力、あるいは自ら指示することを以て、大院君の政策目標と推進方式を習っていた。これは、高宗が実質的に統治権を行使していなかったとはいえ、間近で政治現実を見守って関与することで、彼に君主としての統治的力量の形成の機会が十分に与えられていたことを意味していた。高宗の講筵は、1873年12月に彼の実質的な統治権の回復にあたって、その名称が日講に変わってより正式な形が整えられたが、それ以後はあまり開催されなくなった。それゆえ、高宗の聖学をつうじた民本観・君主観・統治者として基本資質の形成は、彼の在位前期、特に大院君政権期においてほぼ行われていたと言える。
 高宗が勉強に励んでいた10年間、大院君は政権を掌握して勢力基盤を拡大しつつ、様々な政策を推進していた。大院君政権期は三つに区分することができ、第一期(1863年12月~1866年2月)において大院君は、神貞王后と高宗の権威を借りて、王室行事と政治參与への機会を確保したうえで、宗親・璿派勢力の起用を拡大し、宗親府と議政府の権限を復活させて、政治的基盤を作り出していた。また、神貞王后の指示によって景福宮工事の主管が委せられて、政治運営への公式的な關与が可能になった大院君は、神貞王后の垂簾同聴政が終了し高宗から統治権が委任された第二期(1866年3月~1872年9月)になると、宮殿をはじめ政府官庁の工事を持続するとともに、書院整理・武断土豪政策を推進して、地方行政と租税制度を整備・正常化させることを以て、王室と中央政府の統治権を強化していった。第二期において彼は、金炳学兄弟と提携し既存の安東金氏中心の老論勢力を権力基盤として確保して、宗親・璿派と外戚の豊壌趙氏・驪興閔氏を政界に進出させ基盤を安定させたうえで、南人・北人・武将勢力を高位官職に登用して更なる権力の拡大を試みた。その上、統制営・鎮撫営などの地方軍制の強化・改編、武臣待遇改善政策、三軍府の復旧をつうじて、軍政の統轄と強兵の国の建設を同時に追求した。このように、大院君は、宗親府をつうじて王室を、議政府をつうじて行政権を、三軍府をつうじて軍権を掌握して、宗親府・議政府・三軍府を中心とした中央集権化を実現し、円滑な国政運営体制を構築しようとした。これは、彼の統治活動の目標が王朝初期のような強力な王室と国家の確立にあったことを表している。そして、第三期に入ると、議政府を親大院君勢力である領議政洪淳穆(老論)・左議政姜㳣(北人)・右議政韓啓源(南人)の各党派によって構成し、更なる権力独占と強化を図った。こうした大院君の富国強兵政策が着実に進められていたことは、1870年前後において政府官僚らが大院君の政策に対する様々な成果を頻繁に取り上げていたことから窺うことができる。
 ところが、大院君の権力独占現象や、南人・北人・武臣の重用と書院整理などの政策は、既得権を維持しようとする安東金氏をはじめとする老論勢力に危機感を引き起こしていた。また、長年にいたる宮殿工事に莫大な經費の調達が要されたことは、民生への負担の加重と兩班への納税の強要とつながり、大院君の政治活動の正當性を弱めていた。何よりも、二十歳を過ぎた高宗に統治権を返さないばかりか、更なる権力独占を図る大院君の態度は、高宗に深刻な脅威として近づいており、彼は大院君の政策が民生に弊害を与えていると積極的に唱えて、親政体制への名分と基盤を確保していった。結局、大院君の権力独占、多様な勢力の登用拡大、かつ書院・宮殿工事などの政策は、高宗と老論・文臣中心の既得権維持勢力を反大院君勢力として結集させて、彼の退陣をもたらす原因と転じたのであった。
 大院君政権期において、高宗は、大院君の政治活動が君主の権力の強化・安定に寄与すると信じていた。したがって、彼は大院君に統治権を委任して、大院君の政策に積極的に支持・協力していた。しかし、1870年代に入って、大院君の政策が君主である自分の権力強化のためではなく、また民生安定を妨げていると判断した高宗は、周辺に親君主勢力を配置し親政体制の構築を試みた。この頃、清派遣使臣からの清皇帝の親政と民の期待に対する知らせによって、親政への意志を更に強めた高宗は、1873年10月に呈された崔益鉉の上疏をきっかけに実質的な親政を宣布した。彼は、政府官僚が崔益鉉の処罰の決定に大々的な反対を広げているなかで、神貞王后と極少数の側近の支援を受けて、大院君の退陣と政界改編を推進して、自分の懐柔に応じなかった領中枢府事洪淳穆・左議政姜㳣・右議政韓啓源を罷免させ、領議政李裕元・右議政朴珪寿体制を発足させた。こうして、高宗は、約一ヶ月に至る政府官僚、あるいは親大院君勢力との政争を乗り越えて、1873年末、即位10年目になって名実ともに最高統治権者となった。
 親政宣布過程で表われた高宗の統治権を掌握しようとする意志と活動は、大院君政権の10年間、聖学をつうじて形成された君主としての資質と、大院君の政策決定への参加によって向上した政治能力が発揮された結果であった。親政を宣布する当時、彼は民生への負担を強調し大院君の執権の名分を損なって、反大院君的な世論の拡大を助長し彼らを自分の権力基盤に包摂していた。とはいえ、高宗は、まだ大院君と異なる政治基盤を確保しておらず、崔益鉉に対する処罰をめぐって政府官僚との間で深刻な葛藤を起こしていた。このなかで、高宗が政府官僚らの反発を克服し統治権を回復できた原動力は、即位以来の10年間にわたって備えてきた民本意識と政治的力量に対する強い自信にあったと言わざるを得ない。
 親政初期(1874年~1876年)、高宗は少数の親大院君勢力を除いては、大院君政権期の政治集団を受け繼いで自らの権力基盤として再編していった。彼は政府要職と各軍営大将の再配置をつうじて、基盤を安定させるとともに、驪興閔氏・豊壌趙氏の外戚と安東金氏・光山金氏らの老論勢力を重用するなど、新たな側近勢力の形成に力を注いでいた。また、大院君の政策の中で、宮殿工事や書院整理、武断土豪政策などの王室と中央政府の統治権強化に必要な政策は持続しながらも、大院君政権期に新設された各種の税の廃止・用途の変更、清銭通用の禁止を実施して、民生の弊害の除去と大院君の財政源の遮断を同時に成し遂げようとした。その上、三軍府の弱体化、武衛所の設立と軍士・軍需資源の集中、武衛都統使・武衛所提調への外戚・側近勢力の登用をつうじて、大院君の軍事的基盤の解体と自らの軍権掌握を図った。
しかし、このような高宗の政策は大院君の反発を引き起こして、彼の楊州への隠遁と大院君の帰京を求める大々的な上疏の提出をもたらし、親政初期における高宗の不安定な統治権を露呈させた。すると、高宗は、政局を安定させるため、上疏提出者に対する断固とした処罰と上疏提出の禁止を実施したうえ、政治運営の責任を問って領議政李裕元の辞職を許容し、左議政李最應・右議政金炳国体制を発足させた。これは、宗室の李最應の登用をつうじて、大院君の政界復帰の名分を除去するとともに、安東金氏の金炳国を中心として老論を積極的に包摂して、親大院君勢力の活動を抑制するための措置であった。そして、彼は上疏を禁じた命令に逆らって再び上疏を呈した儒生に対して死刑を命じるなど、大院君の政界復帰を認めないという意志を明らかにした。この事件は大院君の帰京と高宗の儒生への流配の命令で決着が付いたが、高宗の大院君と親大院君勢力に対する危機感を高めた結果、彼が側近勢力中心の国政運営を強化する原因となった。要するに、高宗は、自分に忠誠を尽し政策に同調する外戚・文臣中心の側近勢力を成長させて、彼らに政府要職と権力を集中させることを以て、政局の安定と君主の権力基盤の確立を追求していったのであった。このような、親政初期において高宗が君主の統治権強化と円滑な政策推進のために行った側近を軸とした国政運営方式は、その後の彼の統治形態を規定する主たる特徴となった。

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