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博士論文要旨

論文題目:イギリスにおける刑事司法・犯罪者処遇の政治学:1938−1973
著者:山口 響 (YAMAGUCHI, Hibiki)
博士号取得年月日:2008年7月30日

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 本論文は、 1930年代後半から 70年代初頭にかけてのイギリスにおいて、刑事司法と犯罪者処遇の制度構造がどのように変容してきたのか(あるいは変容しなかったのか)、そしてその変容はいかなる政策的帰結を生み出したのかという問題について考察し、それら制度変容や政策的帰結を生み出した原因を探ることを課題とする。 この課題を達成するために、筆者はさらに3つの問いを提示する。第1の問いは、刑事司法や犯罪者処遇に関する中央・地方関係はどのようなものであったのか、第2の問いは、おなじく司法・行政関係はどのようなものであったのかということである。2つの問いを総合すると、中央司法・中央行政・地方司法・地方行政の4つの制度的な場が互いにどのような関係にあったのかという問いが立てられることになる。そして、第3の問いは、犯罪者の「改善主義」思想ははたして失敗したのか、失敗したとすればそれはいかなる意味においてか、また、その失敗の理由は何かというものだ(改善主義とは、犯罪者を改善 <reform>・矯正 < correct>して更正 <rehabilitate>させ、その社会復帰を目指すという刑政思想である)。 しかしながら、政治学・歴史学・クリミノロジーなどの先行研究においては、なぜ改善主義が「失敗」したのかという疑問への原因追究が不十分であったと考えられる。たとえば、 1945年から 1970年代までの刑事法と犯罪者処遇を通史的に概観したミック・ライアン『刑事改革の政治学』は、圧力団体や内務省などのアクターの行動を多元主義的政治学の観点から検討することによって刑事政策決定過程の特徴を析出することにある程度成功しているが、逆にそれがゆえに、行動するアクターを取り巻く制度環境への目配りが甘くなってしまっている。そのために、 70年代以降において、改善主義思想を一歩推し進めた(ライアンが言うところの)「刑事拘禁へのオルタナティブ」思想と、厳罰化を求める思想とが激しくぶつかり合い、最終的に後者の流れが支配的になっていくという歴史的事実に関して、前者の思想を有していたアクターが後者のアクターに敗北したという雑駁な記述しかできなくなってしまっている。 同じように、歴史学の立場から書かれた、ビクター・ベイリー『非行と市民権――青年犯罪者を取り戻す: 1914-1948』、 W.J.フォーサイス『刑務所の規律、改善プロジェクトとイングランド行刑委員会: 1895-1939』、ゴードン・ローズ『刑務所改革のたたかい――ハワード連盟の歴史』なども、改善主義がある段階で放棄された、あるいはそれが失敗に終わった事実自体は記述しているものの、そうなった理由について理論的な説明がなされていない。 最後に、ロバート・ライナーの論文「リスク論を超えて――社会民主主義的クリミノロジーを求めて嘆く」は筆者が本論文で対象としている時期に成立していた犯罪・刑事学を「社会民主主義的クリミノロジー」(social democratic criminology)と名づけてその特徴について説明し、あわせて、それが 1970年代以降に消滅してしまった理由についても探っている。しかし、ここでも、ライアンらと同じく、右派の展開する政治的キャンペーンに敗北したとか、犯罪認知数の急増していく 70年代以降の新状況に「社会民主主義
的クリミノロジー」が対処しきれなかったなどという現象記述にとどまっており、その理由についてまでは説
得的に示せていない。 デイビッド・ガーランド『刑罰と福祉――刑事戦略の歴史』は、「改善主義」(ガーランドの言い方では「刑事‐福祉戦略」)の形成を、イギリスにおける福祉国家の確立全体と関わらせながら論じている。筆者は、こうした分析手法には大きな魅力があると考えるものではあるが、同時に、犯罪統制政策をひとつの独立した政策ユニットとしてとらえ、その内部におけるアクターの協調と対抗やリソースの依存状況などにも政策の変動要因として着目しなくてはならないと思われる。 そこで、上で述べたように、刑事司法と犯罪者処遇に関する中央・地方関係および行政・司法関係を検討することによって、「改善主義の失敗」という政策的帰結の意味あいとその背景原因を探るという筆者のアプローチが出てくるわけである。 こうしたアプローチは、政治学の議論における「新制度論」のそれである。新制度論は、政策形成が過去の政策や歴史的に形成されてきた制度によって拘束されながら行われるという、「経路依存性」( path dependency)の側面に注目する。そのため、この理論は、現実に発生している「問題」が「政策」の原因になるというよりも、既存の「政策」のありようがむしろ「問題」のフレーミングを提供するという因果関係の方をよりよく説明しうる。しかし、最近の新制度論は、このように、たんに制度や政策があまり変化しない側面ばかりをみるのではなく、内生的かつ漸進的に制度が変容する側面にも注目するようになってきており、この観点は、刑事司法や犯罪者処遇の制度変容をとらえようとする本論文にとって、きわめて有益な視点を提供していると思われる。
 このようなアプローチを採用したうえで、本論文は以下のような具体的検討を行った。ここでは、便宜上、犯罪者処遇改革を扱った第1・3・4章を先に、刑事司法制度改革を扱った第2・5章をあとにする。 第1章では、「 1938年刑事司法法案」と「 1948年刑事司法法」の政策形成過程を扱い、これらの法(案)によって犯罪者の改善主義が確立されたことを確認した。そのことは、身体刑の廃止や懲役刑の制限などの内容に見てとれる。重要なのは、そのことよりも、改善主義の実施をめぐるなわばり争いが本格化しはじめたということである。とりわけ、司法・行政関係という観点に即していえば、プロベーション官の活動に対する治安判事の関与が深まり、さらに、この両者と地方当局との間の紛争がはっきりと目に見え始めた時代だといえる。こうした争いがあったがゆえに、逆に、犯罪者処遇をめぐる司法・行政関係の再編はほとんど起こりえなかったということがいえよう。ただ、 1948年刑事司法法ができた結果として、治安判事は、改善主義の実現に向けた実に多くの選択肢を手に入れることになった。 第3章では、「犯罪者処遇に関する諮問審議会」( ACTO)の活動を取り扱い、 1950年代において改善主義的な処遇方法がそのまま発展していった様子を検討した。この時代は、 1948年刑事司法法の設定したさまざまな処遇法の実現に向けて行政的な実力を蓄えていく時期であったと同時に、そうした処遇法の効果が出るのを待っている時代でもあった。そのため、司法・行政関係にしても、中央・地方関係にしても、大きな制度改編への欲求はそれほど大きくなかった。 そのような大きな改編がめざされるのは、第4章が取り扱った 1960年代に入ってからのことである。この時期、労働党のロングフォード報告と 1965年の政府白書『児童・家族・青年犯罪者』によって、少年非行
対策の「脱司法・脱刑事」という大胆な提案がなされた。しかしながら、イギリスの場合、それ以前に長い時
間をかけて形成されてきた制度構造の中で、プロベーション・サービスを自らの傘下に収め、きわめて多様な処遇メニューを与えられた治安判事が、自らも改善主義の担い手として政策の形成と実施に関与しつづけていた。そのことが、司法機関やプロベーション当局と行政機関(とりわけ地方行政当局)とのあいだで激しい紛争を生み、最終的には「脱司法・脱刑事」の流れをせき止めていくことになるのである。 つぎに、刑事司法制度改革についての第2章・第5章をまとめる。 第2章では、 1949年治安判事法の制定過程を扱った。中央・地方関係に関してみれば、バラ(市)裁判所やシティの治安判事裁判所のしくみが保持されたり、地方中心の治安判事選任システムが守られるなど、地方が強い抵抗力をみせた。他方、司法・行政関係に関してみれば、中央レベルにおいては有給治安判事の任命権をめぐる内務省と大法官府の争いがあった。また、地方レベルにおいては「 ex officio」型治安判事の廃止論が起こるが、 ex officio判事は結局ほとんど保存されることになる(「 ex officio」とは、地方自治体の長などの他の役職についていることから、職務上当然に治安判事を兼任することが法定されている、といったような事態を指し示す概念である)。ただし、地方自治体が訴訟当事者である場合に、地方参事会員が治安判事として訴訟に加わることが制限されたり、司法行政を担うために新設された「治安判事裁判所委員会」の制度設計について司法・行政の一定程度の分離が図られるなど、地方レベルで司法・行政の制度的癒着が少しずつ解消されはじめた。 第5章では、まず、「アサイズと四季裁判所に関する王立委員会」報告書( 1969年)とそれを実行に移した「 1971年裁判所法」によって、アサイズと四季裁判所(いずれも正式起訴犯罪に関する第一審の裁判所)を統合して刑事法院が新設されたことを検討した。これは、上位裁判所について統一的なナショナル・システムが完成したことを意味する。他方、治安判事裁判所(略式起訴犯罪に関する第一審)については、「1968年治安判事法」によって「 ex officio」治安判事がほぼ全廃されたことによって、地方司法と地方行政の制度的分離が完成に近づいた。他方で、この時期、治安判事裁判所の中央集権化を望む声が地方からすら少しずつ上がり始めていたが、中央レベルにおける内務省と大法官府の対立のために、実現されることがなかった。
 最後に、犯罪者処遇と刑事司法の両領域の分析をつなげて考察した。 刑事司法の領域については、 1930~40年代以前においては、 ex officio判事の例に見られるごとく、地方レベルでの司法と行政の制度的癒着度が高かった。治安判事およびその補佐官と地方当局とが人的側面において共通する部分が多かったためである。しかし、 1949年治安判事法によって、両者の間に薄い壁ができはじめる。さらに、 1968年治安判事法によって ex officio判事が廃止された。また、 1971年裁判所法によって四季裁判所が廃止されたために、四季裁の補佐官と地方自治体の書記官が人的に共通するという現象もなくなった。こうして、地方司法と地方行政との間の制度的分離はほぼ完成したのである。 実は、犯罪者処遇問題の政策的帰結、すなわち本論文で「改善主義の失敗」と呼んでいるものの原因を説明するためには、地方レベルでの司法・行政の制度的分離がじょじょに明確になってきたというこの事実が鍵を握っている。犯罪者処遇の領域を扱った第1・3・4章において、 1948年刑事司法法によって確立した改善主義の実施には、行政機関とともに、司法機関、とりわけ治安判事とその管轄下にあるプロ ベーション・サービスが加わっていたために、司法と行政との間になわばり争いの対立構造ができあがっていたことを確認した。司法側は改善主義実施のための大きな裁量権と数多くの選択肢を有しており、 60年代に「脱司法・脱刑事」の主張が出てきた際に、きわめて過敏に反応し抵抗した。 こうしたある意味では過剰ともいえる司法部の反応は、地方レベルの刑事司法における司法・行政の分離がほぼ完成した 60~70年代という時代状況を抜きにしては説明されえない。というのも、司法・行政の制度的分離が進行してくると、司法側は行政活動に口出しができなくなってくるうえに、自らの手持ちの権限を確保することにむしろ躍起になってくるからである。 また、この地方レベルにおける司法・行政の分離という現象は、刑事司法分野における中央・地方関係の変容についても説明を与えてくれるように思われる。 1940年代には、地方司法は中央からの介入に激しく反発していた。しかし、 60年代の末には、むしろ地方司法(とりわけバラ)の側から、中央集権を求める声が出てくる。このことは、地方司法が資源(リソース)を依存する先を変更したという事態をあらわしている。すなわち、40年代にあっては、地方司法が人的側面・財政面などにおいて依存するのは地方行政であった。しかし、司法・行政の制度的分離が進行し、行政にはしだいに頼れないようになってくる。このような状態の中で、バラの治安判事裁判所がなくなるかもしれないという危機に直面したならば、つぎは中央司法(大法官府)に頼るしかなくなってくるのである。バラの治安判事らが率先して大法官府を中心とした治安判事裁判所のナショナル・システムを求めたのはこのためであった。 以上のように、本論文は、イギリスの犯罪者処遇政策における「改善主義の失敗」に関して、たんにそれが厳罰主義に敗北したからという説明を採らず、犯罪統制政策の制度的布置構造(司法・行政関係/中央・地方関係)の中で内在的に起こった現象としてとらえることにつとめた。また、司法部の果たす政治的役割について正面から取り上げた。これらの点を本論文の意義として最後に強調したい。

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