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博士論文要旨

論文題目:一九世紀の豪農・名望家と地域社会
著者:福澤 徹三 (FUKUZAWA, Tetsuzo)
博士号取得年月日:2008年6月30日

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第一節 博士論文の概要と研究史
 本論文は一九世紀の豪農・名望家と地域社会の関係を、上位権力(領主・議会など)と都市と取り結ぶ関係にも留意しながら総合的に検討する。これによって、近世・近代移行期の特質を解明するための地域社会論の提起を目指すものである。近世と近代にまたがる時期を対象としているので、関連する研究史を個別に検討していく必要があろう。以下では、研究史の整理を行いながら、このような課題を設定した理由を論じていきたい。
佐々木潤之介によって提起された世直し状況論は、地主制論・階級闘争論・幕藩制国家論を組み込んだ「総合型」の議論であり、個別の批判は展開されているものの、全面的に乗り越えられているとはいえない研究状況にある。
 この世直し状況論を乗り越えるために、A豪農の政治的役割を明らかにしてきた潮流、B基本的には佐々木の議論を引き継ぐ社会的権力論、C村落共同体の議論を佐々木は十分に取り込めていないとする、村落共同体の研究潮流がある。
 また、近代史研究者の中では、地主制研究のあと、筒井政夫らによる名望家研究がある。また、自由民権運動ではプラスの評価をされていた豪農が、民衆と近代的価値観の面では対峙する存在であったとした負債農民騒擾の研究も重要であろう。これらの研究史をふまえて、筆者は残された課題を次のようなものと考えている。

第二節 残された課題
 筆者は積み残されている現在の課題を、次の四点と考えている。
(1)地域社会論
 村落共同体研究の進展により、村自体についての本質的議論が深まり、通説化してきた意義は大きい。その諸機能の分析は引き続き重要であろうが、地域社会論のほうに残された課題は多いようである。
 地域社会論研究は、豪農の政治的側面についての分析が進んでいる状況といえよう。そして、それを乗り越えていくための方法論の提示(政治的位相と経済的位相に区分して分析を行ったうえで、統合をめざす)も行われている。従って、豪農の経営分析を行ったうえで、その後に政治的活動との関係を検討していく必要があるだろう。それは、豪農の政治的活動を評価する基準としても、欠くことのできない作業である。
 この点から、岩田浩太郎の研究成果の到達点を乗り越えていくことが、現在もっとも重要な課題といえよう。そのためには、(岩田の定義に従うとするならば)大規模豪農の経営分析を主軸にしながら、中小豪農の経営分析を組み合わせて、その重層関係をそれぞれの経営分析のレベルから検討していく方法論が要請されるのである。しかし、岩田の分析の問題点である、上からの編成を強調する方法を相対化するために、中小豪農・小前層の立場からの分析を行ったうえで、その結果を評価していく姿勢が必要である。
 また、豪農が経営レベルで取り結ぶ諸関係の分析は、どうしても外延的に発展していった面を強調しがちである。そこで、豪農の影響力が及んだ範囲を明確にするため「圏」として概念設定することが有効と考える。そして、その圏の中での中小豪農・小前層との関係を先入観なく分析を行い評価する、という手続きを踏んでいきたい。
 本論文では、大規模豪農の経営レベルと中小豪農の経営レベルの分析を主に行っていくことにする。
 (2)豪農論
 豪農の経済的側面(村方地主・高利貸し商人)の分析では、大塚英二による豪農の金融活動についての研究が、佐々木が「高利貸し」としている金融部門について問題を提起している。大塚は、「融通行為及び機能と高利貸しのそれとを、実態としてどのように区別して考えたらよいのか」という点に関して、融通を再生産の保証に不可欠であり、小農維持、村々防衛のために活用されるもの、高利貸しをそれ自体の利倍・増殖を追求するもの、とし、原理としては、前者を基本的に人格的な関係に裏打ちされ、貸借関係にある両者は互いに他の経済状況(家株や家政状況、家族内労働力など)を熟知する関係、後者をそうした人格的な関係を媒介しないもの、と位置づける。筆者は、このような区分では理解できない事例が畿内には広汎に展開していたのではないかと考えている。この点について、再検討を行っていきたい。
 (3)名望家論
 岩田は豪農堀米家の分析にあたって、日本近代史における地域支配構造論・名望家支配論などの議論からも示唆を得た、としている。筒井の名望家論については、名望家の立場にたった分析だけではなく、中小地主自体の分析も必要であることを先述した。このような分析方法は、(1)で検討した地域社会論同様の方法になるだろう。つまり、名望家の経営分析を主軸にしながら、中小地主の経営分析をもあわせて行い、それを基礎に政治的活動にも分析の手を広げていく、ということである。本論文では、この点についても検討を行っていきたい。
 (4)近世・近代移行期論(近代移行期論)
 佐々木世直し状況論が提起されたときの近代史研究者の戸惑いは有名であろう。自由民権運動研究でプラスのイメージで捉えられていた豪農が、佐々木説では半プロと対抗する存在とされ、そのマイナスイメージとの整合性が問題とされたからである。
 しかし、第一節のAで検討してきたように、豪農の政治的役割が評価されてくるにつれ、この研究潮流と自由民権運動研究を整合的に捉えることが可能となってきた(連続説)。一方、近世の村落共同体研究(第一節のC)と負債農民騒擾研究は、近世と近代の断絶面を強調する点で整合的である(断絶説)。
 この整理は九〇年代に提唱されているものであるが、筆者は最近の研究潮流から、近世段階で規模の大きな豪農が近代の政治活動において名望家として地域において大きな役割を果たすという、近世と近代の連続面を強調する岩田と筒井の主張と、規模ではなく近世期における政治動向によって近代の名望家の政治的活動は決まってくるとする常松の主張との違いも重要な論点となってきているのではないか、と考えている。
 また、落合延孝は連続説・断絶説が並び立つ状況を克服する術として、明治憲法体制が確立する明治二〇年代、三〇年代の史料まで近世史研究者が積極的に目を通し、分析していくことの重要性を説いており、筆者も同感である。
 従って、近代移行期論を前進させていくためには、豪農・名望家の生業や営為を近世・近代を通じて、一九世紀論としての分析を積み重ね論じていく必要があると考える。本論文では、畿内の豪農金融について、この分析を行っていきたい。

第三節 本論文の構成
 本論文では、以上の検討で得られた観点をもとに、畿内・信州・関東の各村・地域の分析を行っていく。本論文の構成は以下のとおりである。
まず、序章「本論文の課題と構成」では、研究史を整理して問題の所在を明らかにするとともに、本論文の構成を示す。
第一部「一九世紀の畿内における豪農金融の展開と地域」では、一九世紀を通じて生産力の先進地域であった河内国で展開した金融活動の分析を行う。
第一章「近世後期の畿内における豪農金融の展開と地域」では、河内国丹南郡岡村岡田家が数郡規模で展開した金融活動の分析を行い、岡田家の金融活動が地域において果たした役割を検討するとともに、領主・都市との関係も組み込んでその全体像を明らかにする。
第二章「近代における岡田家の金融活動 ―畿内の無担保貸付への私的所有権確立の影響―」では、第一章で検討した岡田家の金融活動が明治以降どのように展開したのか、同家が明治二七年に開設し同三四年(一九〇一)に廃業した岡田銀行の活動まで含めて明らかにし、近世の金融慣行が、いつ、どのような変容を遂げたのかを論じる。
第三章「河内国丹南郡伊賀村西山家の金融活動」では、所持高約五〇石と岡田家よりは小振りで同家からの貸付も受けている豪農西山家の経営を地主経営・金融活動両面から分析し、第一章の分析と併せ近世後期の畿内における金融構造の全体的解明を行う。
 第二部「信州における近世後期の金融活動」では、第一章と同時期に生産力的には劣る信濃国における豪農の金融活動を分析する。
 第四章「近世後期の信濃国・越後国における広域金融活動 ―更級郡今里村更級家を事例に-」では、所持高八〇石程度の豪農・更級家が信濃国のみならず越後国にまで展開した個性的な広域金融活動の実態を解明し、その中にうかがえる近世的特質を明らかにする。そして、地域において一般的な質地金融を展開した信濃国安曇郡保高町村小川家の金融活動との比較検討を行い、さらに第一章の畿内における金融活動との比較を試みる。
 第五章「文化・文政期の松代藩と代官所役人の関係」では、所領が錯綜している信濃国において広域金融活動を展開するうえで大きな影響力を持つ支配領主との関係を、他の事例をも交えながら検討を行う。
 第三部「関東における明治期の地域社会」では、明治期における豪農・名望家の地域社会での活動を分析し、第一部第二章の分析とあわせ、名望家論と近代移行期論を今後展開していく展望を得ることを目的とする。
 第六章「農業雑誌の受容と実践 ―南多摩郡平尾村 鈴木静蔵の事例を中心に-」では、武蔵国多摩郡の小豪農(小地主)鈴木家の農事改良を、雑誌からの情報の入手に着目して分析し、その個性的な活動を明らかにする。
 第七章「吹上隧道開通運動と川口昌蔵 ―積極主義下の地域状況と名望家の要件―」では、同じく武蔵国西多摩郡成木村において、階層構成上は豪農・名望家とはいえない川口昌蔵の道路請願運動(政治的取組)を、昌蔵を取り巻く地域社会との関係に留意しながら明治中後期の名望家の要件について検討を行った。
 終章「本論文の総括と今後の課題」では、本論文の内容をまとめて研究史への位置づけを図るとともに、残された課題と今後の展望について言及する。

第四節 研究史上の意義
  以上のように『一九世紀の豪農・名望家と地域社会』と題して、本論文では三部・七章に分けて論じてきた。以下では本論文全体で筆者がもっとも主張したかったことを、五つの項目に分けて論じていきたい。
(1)地域社会のイメージ・地域社会論の方法
 第一章と第三章の分析では、所持高一〇〇石以上を持つ岡村の岡田家と、所持高五〇石程度の伊賀村西山家の主に金融活動の分析を行った。そして、前者を地域の中核豪農、後者を一般豪農と区分し、その貸付相手・範囲と都市両替商との関係・領主貸の有無の違いを明らかにした。筆者はこの分析を通じて、西山家の金融活動を具体的に分析し、天保年間から同家の小作人への貸付が小作経営にとって不可欠であったこと、地域の状況が不穏を極める文久期以降は、村内小前層への貸付が増大していき、その返済が不調であることから、これらの貸付は幕末の状況の中で小作人・小前層の成り立ちに重要な機能を果たしたことを明らかにした。そして、この西山家に貸付を行っている岡田家の金融活動も、間接的ながら地域の成り立ちのために機能した、と位置づけた。
 また、岡田家の金融活動を分析する際に、他村の土地を所持した場合に相手の村の側の「協力」が得られなければ、小作料が入って来ず、転売もうまくいかないことを明らかにした。岩田や山崎圭の地域社会論についての先行研究や久留島浩や山﨑善弘などの政治活動の分析を中心とした先行研究では、村落共同体研究の成果・視点を地域社会論に取り込んでいく点が不十分だった。この点でも、地域社会論に対して重要な指摘をなし得たと考えている。
 以上の二点の分析結果は、地域社会論における従来のイメージに修正を迫るものではないだろうか。先述の岩田や山崎圭による地域社会のイメージは、豪農による地域の編成を重視し、幕末に顕在化してくる豪農と小前層の矛盾を豪農が政治的に弥縫していくとする、階層間矛盾を強調するイメージである。一方、久留島や山﨑善弘などのそれは、その政治的活動を注視したことにより、豪農層の政治的役割を強調するイメージである。これに対して筆者は、地域において村落共同体機能は幕末段階でも岡田家の土地所持を広げることに対してそれを抑止する機能を果たしていたし、岡田家の貸付も西山家を通して小前層の成り立ちを支える機能を果たしていた点を重視している。岩田らのイメージよりも、共同・「協同」的であるとともに、社会構造を重視している点で久留島らのイメージとは大きく異なっている。

(2)金融活動の背景への着目と地域間比較の重要性
 第一章の分析では、訴訟事例の検討結果から、少なくとも文政期以降の河内国は金融の借り手よりも貸し手が多い、借り手有利の市場構造であったことと、慶応期には藩札の発行に中核豪農が連合して関わることにより紙幣供給量自体を増大させる活動までをも行っていたことを明らかにした。これまでの畿内の金融研究については、福山昭によるものがもっとも重要であるが、この二点については全く指摘がなされていない。従来の金融研究では、貸し手と借り手の相対関係の分析を重要視はしても、個別の貸し手・借り手を取り巻く環境について顧慮を払ってはこなかった。借り手有利の市場構造であれば、複数の貸付相手からも借入を受けられ、場合によっては第三者からの借入によってすでに借り入れている貸付を返済するなどの対応も取りうるであろう。
 第一章で得た視点を別の地域で生かしたのが第四章である。信州更級郡の更級家は合計九郡にもおよぶ広域金融活動を展開したが、これは文化期の地域における高額金融需要への供給不足が背景にあった。更級家の貸付エリアでもあった松代藩領の山中地域では、天保期にも融通機能が滞っていることが問題となっている。このように、地域社会における金融活動の分析では個別の関係をみることも重要だが、家経営を取り巻く「金融環境」自体も分析していく必要があるのである。
 また、信州の安曇郡の事例では、天保期以降、地域金融圏的なものが出来つつある状況を指摘した。これは、河内と信州両地域での共通点と言えよう。金融需要への供給不足の側面について、安曇郡の分析を行った熊井保の分析においては、この点について指摘がなされていない。複数の地域を同一テーマで分析して比較していくことによって、ひとつの地域だけ分析していてはなかなか位置づけにくい問題が発見できるのであり、このような方法は地域社会論の進展にとって大変重要と考えている。

(3)金融における近代の萌芽、という視点
 これまで、地域社会論で近代社会との連続性を論ずる場合には、組合村入用(近世)と大区小区制下の入用構造(近代)の共通性、国訴の代表委任の構造(近世)と代議制(近代)の類似性というように、政治面に注目が集まっていた。これに対して、近代史研究の成果である武相困民党などの分析では、証文通りの貸付金の取り立てに対して民衆が蜂起する根拠を近世以来の百姓成り立ち・百姓相続要求に求めている一方、この証文通りの貸付金取立の近世期の源流については特に言及がなされていない。
 第四章の更級家の広域金融活動の分析では、畿内と異なり長期的に貸し付けを行い利子を取得するといった金融慣行の不成熟から、貸付範囲が広域であるとともに、その証文主義の徹底と領主権力・裁判への依拠が特徴的であった。このような更級家の貸付は、この二つの特徴から近代的証文主義の萌芽と位置づけられよう。
 また、第一章の岡田家の金融活動は、先行研究の枠組みでは「高利貸し」金融と位置づけられよう。大塚は、高利貸しの主体はとして、寺社名目金と村の外部から入ってくる高利貸しを主に挙げている。興味深いのは、岡田家自身も惣代となって、丹南郡・丹北郡・古市郡の惣代庄屋が嘉永期に寺社名目金貸付の規制を代官所に願い出ていることである。ここでは、証文手数料の不実・証文通りの取立・裁判の際の南都役所への長期の留め置きが批判として挙げられている。これは、すでに大和国で谷山正道が明らかにした寺社名目金への規制運動で指摘されている内容と同じである。また、更級家の貸付とほとんど同様の特徴が見出せよう。
 同じく高利貸し、と位置づけられる更級家と岡田家の金融活動も、証文主義の徹底と裁判への依拠を基準にしたならば異質なものであろう。筆者は更級家や寺社名目金による先述のような特徴をもった貸付を「近代型高利貸し」と定義することを主張したい。このように、大塚の定義する高利貸しから、「近代型高利貸し」を分離することにより、近代との連続性を明瞭にして分析することが可能になり、ひいては岡田家の金融活動の近代での変化(後述)も区分して分析できるからである。

(4)近世・近代を通じて分析する重要性
 近世と近代を一〇〇年間にわたり分析した第一章・第二章からは、次のような点が明らかになった。①まず、近世期の特徴として長期に貸付を行い、相手豪農の家経営の維持や村の小前層への貸付に役立つように貸付を行って岡田家も利子を取得するというのが理想的な貸付であった。②それが近代の私的所有権の確立政策で貸付期間が短くなり、金融規模も縮小していったこと。そして、個別債権への権利は強まったが全体としての利子収入は減少するという皮肉な状況が生まれた。③一方、近世の借り手有利の金余り状況は、近代になっても続いて明治二七年開業の岡田銀行の経営にも重大な影響を与えた。つまり、①と②は近世と近代との断絶面、③は連続面を表している。
 これまでの近世史研究者は、明治ゼロ年代(明治元~九年)までを自らが史料をみて分析を行うことが主流であった。踏み込んでも松方デフレ期くらいまで自らの分析はとどめて、その後は近代史研究と連繋を図って見通しを述べるのが主であった。このように、近世史研究者が明治後半期まで自ら史料を見て分析していく必要性は、すでに落合延孝によって指摘されている。筆者の分析は、金融活動という一分野ではあるが、そのような研究方法・スタイルの有用性・重要性を明らかにしたといえよう。

(5)近代社会の多様性
 第六章の鈴木静蔵の農業雑誌受容の事例では、近代的な農事改良の講演会の帰途に周囲の無理解を歎く静蔵の姿があった。このような周囲の人びとは、鶴巻孝雄らによる先行研究によると「民衆」とされ、近代社会に懐疑的な人びととして定義づけられている。静蔵はこのような状況の中で、農業雑誌の定期購読を行い、時には投稿まで行う熱心な読者であった。また、平尾青年会の主宰者としての活動も行ったが、ここでも静蔵は中心メンバーで、周囲の理解もそれほど高かったとはいえない状況であった。
 従来、農業雑誌に着目した研究はほとんどなく、またその受容した成果を実際の農業経営にどのように生かしたのか、そしてそれが周囲にどのような影響を与えたのかを階層の差異に着目して明らかにした研究はなかった。この点で上中層には十分な成果をもたらしたが、下層には限定的であったとした第六章の成果は、周囲への影響を更に分析するという課題を残してはいるものの意義あるものといえよう。
 また、「民衆」の無理解のもとで活動を行う静蔵のような中小地主にとって、出版メディアの果たした役割は、農業技術の伝達にとどまらず、精神的な支えとなっていた、という側面を指摘したい。農事改良の意欲がなえそうになったとき、読者投稿欄にうかがえるように全国に自分と同じような同志がいる、ということは大きな励みになったはずである。また、郵便による配達制度により、書物のネットワークなど人的結合によらずに、直接これらの雑誌を手にすることが出来た点も大きい。農業雑誌のような近代的な「知」にアクセスする環境は非常にオープンで開かれたものであり、「近代化」が進む上で実用面・精神面で大きな役割を果たしていたのである。
 第七章の川口昌蔵の政治活動(道路請願運動)の分析では、中小地主でもない昌蔵が府官僚・府会議員や地域の名望家層に政治活動を行って課題を達成する過程を検討した。昌蔵のように、階層的には「民衆」に属する者が、地租改正を実見したことから政治活動に目覚めていく様子は、階層的に下位の者であっても地域に「文明」を導入していく存在となり、名望家層以上に「名望家」的な役割を果たすことができたことを意味する。このように、近代社会の政治過程というものは、名望家層・村落上層のみに独占されるものではなく、官僚・議会との太いパイプを築き得れば、むしろこれらの者よりも重要な役割を果たせるのである。第二章の検討によれば、岡田家は経済的には最上層に位置しながらも、明治期の政治活動は消極的である。経済的には名望家層に属しながらも、政治活動に消極的なこれらの者たちの存在は石川一三夫によりすでに明らかにされている。近世にくらべて、近代の政治活動に参加する者たちは多様であり、流動的なのである。
 このような名望家層の分析については、筒井正夫による名望家層と中小地主との役割を分けて考える二つのセット論、がある。これは、大規模な地主は名望家として県会議員などになって地域に利益を誘導する役割を果たし、中小の在村地主は農会などの活動に居村を中心に活動する、というものである。筒井の主張は、名望家層による「同意の調達」という観点から、その地主の階層性の分析とも合わせて論じている点で重要である。しかし、第六章での出版メディアによる鈴木静蔵の農事改良知識受容の意義や、経済的には下層である川口昌蔵のような者が政治的に重要な役割を果たすことは、近代社会の「開かれた」一面を表している。そして、この「開かれた」一面は、いずれも「文明」という価値観で共通している。地主制による階層差は厳然としてありつつも、近代社会の一面には、このように階層を飛び越えるある種の共通性が通底しており、これが近代社会の多様性を生み出している、といってもいいだろう。
 だとすると、近代の地域社会論においても、筒井のいう中小地主や川口昌蔵のような経済的には下層の者への着目、分析こそが重要になってこよう。そして、経済的に有力な者の経営分析も合わせて行うことによって、地域社会の政治・経済活動全体を明らかにしていく必要がある。その分析方法は、(1)で述べた方法論と同様の方法をとりつつ、鈴木静蔵や川口昌蔵のような個人の活動を地域社会に位置づけていく、といったものになろう。

第五節 まとめと今後の課題
 以上の内容を方法論の観点からまとめると、(1)近世における中核豪農(大規模豪農)と一般豪農(中小豪農)相互の分析と小前層との関係の重視、(2)地域間比較の重要性、(3)経済面でも近代の萌芽を探る必要性の提起、(4)一九世紀全体にわたっての分析の重要性の強調、(5)近代社会の多様性の重視、の五点になる。つまり、中核豪農・一般豪農双方の経営分析を近世・近代を通じて行うことを土台とし、その経営動向・地域経済の動向と地域政治の課題を、経営動向・地域経済圏の範囲と地域政治が対象とする領域のズレにも留意しながら明らかにしていく、一九世紀地域社会論の構想、といえるだろう。地域経済圏の分析から地域政治史との接点を見いだす構想、とも言えよう。本論文で明らかにできたのは、その方法論の有効性を確認しながら前進するための一部に過ぎないが、この構想にのっとって今後の課題を果たし、全体構造の構築につなげたい。

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