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博士論文要旨

論文題目:天皇制国家における国家構想の歴史的展開
著者:山本 公徳 (YAMAMOTO, Koutoku)
博士号取得年月日:2008年3月21日

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問題の所在
 本論文は、戦後日本の社会科学を特徴づける視角である〈近代主義的問題構成〉が、大きな批判にさらされながらも、今日なお依然として近代日本をとらえるための有力な視角であり続けていることに着目し、その克服の展望を天皇制国家論の領域で提示しようと試みたものである。〈近代主義的問題構成〉とは、現実社会の諸困難の原因を近代的社会関係の未形成・不徹底に求め、その困難の克服の展望を日本社会のトータルな「近代化」、すなわち近代の徹底・完成に見いだすような議論の立て方を指す。
 〈近代主義的問題構成〉を用いて天皇制国家分析を行ってきた最大の研究潮流は、講座派マルクス主義である。講座派理論の特徴は、天皇制国家のもとでの階級矛盾を絶対主義勢力と民主勢力の矛盾ととらえ、天皇制国家を、常に前者のヘゲモニー下にあった絶対主義国家と規定した点にあった。そしてこの規定のゆえに、政治支配の専制性・暴力性が強調されてきたのである。
 だがそのようにとらえてしまうと、天皇制国家の専制性は国家の繁栄を系統的に促進する方向で発揮されていること(アジアで天皇制国家のみが帝国主義転化を果たした)、天皇制国家の国家官僚は選挙権拡張にむしろ積極的で、近代的な同意による支配を追求する側面をもっていたことなどがつかまえきれない。これらの諸特徴を踏まえて天皇制国家を理論的に把握しようとするならば、天皇制国家を近代国家として理解する必要があると思われる。
 ただし、天皇制国家を近代国家としてとらえる議論の中には、ここにいう専制性を近代国家一般の専制性と同質のものとしてとらえるものがあるが、本論文はこれを天皇制国家に特殊な専制性ととらえている。天皇制国家の専制性は、近代国家一般が建国期に資本主義的市場を暴力的に創出するために発揮する専制性を、その後も存続させたような強力なものであり、しかも普通選挙制が採用され大衆社会状況が現出したあとも解消されず、1930年代に再び猛威を揮ったのであった。
 このような、天皇制国家における近代性と特殊に強力な専制性とを統一的にとらえるために、本論文は、近代国家を先発類型と後発類型に類型分けし、天皇制国家を後発近代国家としてとらえるべきことを提唱した。そしてさらに、天皇制国家の場合には、ヨーロッパの後発近代国家には存在しないような、強力な専制性の存続を支えた国家秩序の特殊な領導主体の存在を想定すべきと考えた。というのも、しかもアジアの一角を占める天皇制国家は、その後発類型の中でも、ヨーロッパの後発近代国家よりも一層強力な後発性を背負わされており、そのような後発近代国家が帝国主義国家の一因として生き残っていくためには、ときどきの政権に左右されず、長期にわたる急進的近代化政策の系統的な遂行を支える主体が必要だと考えられるからである。その主体を本論文は〈自立的国家派〉と名付け、この自立的国家派が支配のヘゲモニーを握り続けたことが、天皇制国家の全生涯を通じて専制性が存在した理由であること、自立的国家派が専制性を維持しつつ、ブルジョア的社会関係の成熟に応じて現出する社会問題=国民統合問題に対処したそのやり方に、天皇制国家における支配構造の段階的変化が規定されていたこと、などの仮説のもとに天皇制国家の検討を行った。
自立的国家派とは何か
 自立的国家派とは、天皇制国家が、資本主義的生産関係の遅れとヨーロッパ市場圏への参入の遅れという二重の後発性を抱え込んでいることを自覚し、それを前提にした政治支配を構想した政治潮流である。この派が支配のヘゲモニーを掌握し続けたのはその国家構想が天皇制国家の現実に適合的だったからに他ならない。自立的国家派の政治支配の特質としては、以下の三点を挙げることができる。
 第一は、自らの国家構想を構築するにあたって、対外的要因を重視したことである。それは、大国の動向に左右されざるをえない後発近代国家の立場が自覚されたからであり、それゆえに自立的国家派の外交方針は協調主義外交を基本とした。むろん自立的国家派とて、帝国主義国家の支配層として、アジアを中心に独自権益拡充の機会を常にうかがっていた。だがそれ以上に、後発近代国家の海外権益拡充は列強帝国主義諸国の同意のもとでなければ難しいという判断を下していたのである。
 第二は、後発性克服のために急進的近代化が第一義的な国家目標とされ、その遂行のために、執行権力の社会関係に対する系統的な介入と、それを可能にするための執行権力の自由裁量の確保が最大限追求されたことである。そのことは、市民的自由の狭隘性に現れていた。強力な治安法制の体系と相俟って、自発的結社の活動が厳しく制限されていたのである。すなわち国民は、政治的意思表明をほぼ選挙における投票に限定されていたということができる。しかもその投票による民意を集約した議会は、外交・国防領域の国家意思決定にはほぼ関与することができなかったのである。後発性の克服のために必要な急進的近代化政策は、社会に激変をもたらすため常に世論の支持を得られるとは限らないため、世論の反対によって近代化が抑制されるようなことがないように、あらかじめ議会権限を制限する措置がとられたのであった。
 第三は、執行権力の社会に対する行使が極めてパターナリスティックな色彩を帯びたことである。議会権限の制限と執行権力の強大化を求めたことは、必ずしも自立的国家派が国民生活の維持・向上に冷淡で、専ら弾圧によって秩序を維持しようとしたことを意味していなかった。自立的国家派は、市民的自由を厳しく制限する一方で、選挙権の拡充には他の潮流に比べむしろ積極的であった。すなわち自立的国家派は、もっぱら民生領域の利害調整にあたる議会に民意を集約した上で、執行権力による恩恵としてそれに応えることで国民を掌握しようとしたのである。
 これらの独特な政治支配の特質をもったがゆえに、自立的国家派はまた独特の困難を抱えていた。
 第一は、急進的近代化を第一義的な国家目標としたために、固有の支持基盤を形成するのに困難を抱えていたという点である。後発国家として時には民意の要請を超えるスピードで急進的近代化を実行しなければならなかったために、自派の安定した支持基盤を形成するのが難しかったのである。
 この困難を反映して、自立的国家派の国民統合構想には二つの系列が存在するようになった。一つは、特定階層に依拠して固有の支持基盤を作ろうとするものであり、もう一つは、特定階層に依拠せず国民的支持の調達を追求すべきとするものであった。いずれの構想が優位に立つかは時代ごとに異なっていた。
 第二の困難は、支配の正当化イデオロギーの構築が困難だったことである。先ほども触れたように、後発近代国家では、自由主義イデオロギーが排斥される一方で、強大な執行権力を保持しつつ国民の支持を調達するために、民主主義イデオロギーが支配の正当化にとって比較的重要な役割を果たしている。すなわち、先発近代国家の民主主義イデオロギーが、自由主義イデオロギーと結びついて「自己決定」の観念を発達させるのに対して、「上から」の近代化を行う後発近代国家は民主主義イデオロギーから「自己決定」観念を排除しようとするのである。しかし、民主主義イデオロギーと「自己決定」観念の切り離しは、いつでも自立的国家派の思惑通りにうまくいくとは限らない。もしこれに失敗した場合には、民主主義イデオロギーが国家意思決定メカニズムの民主化要求と結びつくことになり、執行権優位の統治機構が脅かされるのである。
 
自立的国家派による政治支配の諸段階
 天皇制国家の時期区分は、いま触れたような、急進的近代化を遂行するに際して自立的国家派が抱え込んだ困難をいかに克服しようとしたかという点に着目することで設定しうるように思われる。この克服策がいかなるものであったかは、国家意思決定メカニズムと国民統合構造をいかに構想していたかという点を見ることによって解明しうる。以下、各時期ごとにその特質を振り返っておきたい。
 第一期(1868-1918)の特質は、固有の支持基盤形成と支配的イデオロギーの構築という二つの問題をめぐる困難が顕在化することがなく、自立的国家派の国家構想が最もストレートに現実の支配構造に反映された点に求められる。第一期には自立的国家派の圧倒的優位が確立されていたのである。
 正当化イデオロギーの問題は、民主主義イデオロギーを「国家の繁栄」観念を媒介にして、天皇イデオロギーの構成要素とすることで解決された。民主主義イデオロギーが、「自己決定」要求に結びつかないよう、「一君万民」的な天皇のもとの平等という格好で置き換えられたのである。
 この時期は「国家の繁栄」の観念を中核に据えた天皇イデオロギーが十分に浸透していく条件が存在していた。明治期の日本は、相次ぐ対外戦争での「勝利」によって国際的地位を向上させており、また人格的支配を担いうるカリスマとして明治天皇がいたからである。したがって「自己決定」観念に配慮する必要はあまりなく、寡頭制的国家意思決定メカニズムを作り上げ、執行権優位の統治機構を十分に活用した支配を行いえたのである。
 寡頭制的国家意思決定メカニズムは、その頂点に元老が位置していたが、その元老が国家意思決定に際して間違いを犯す可能性があるということを、建前上認めていないシステムである。国家意思の最終決定者(元老)と、その執行者(内閣)とが分離され、何らかの失策が生じてしまった場合でも、その原因は執行段階に帰せられ、政治責任はすべて内閣が負わされたのである。
 第二期(1918-1932)は、この寡頭制的国家意思決定メカニズムの動揺を契機にして始まった。第一次世界大戦期の国際関係の流動化によって、支配層の内部に深刻な路線対立が生じ、元老にも政治責任が及びかねない状況が生まれたとき、寡頭制システムは機能不全に陥った。その機に乗じて、政党党首である自らを元老に加えることによって寡頭制システムを再建しようとしたのが原敬であった。
 こうした支配層内の対立に加えて、第一次大戦後のブルジョア的社会関係の成熟によって社会問題が発生してきたとき、寡頭制システムは崩壊した。支配階級と被支配階級の間の非和解的対立が顕在化し、国家の繁栄と社会の繁栄が必ずしも一致しなくなったことから、このギャップを埋めるには社会それ自体の声を国家意思決定に直接反映させる必要があるとの主張が高まり、国家意思決定メカニズムの民主化が避けられなくなったのである。ここにおいて、「一君万民」的平等観念に矮小化され、天皇イデオロギーに押し込められていた民主主義イデオロギーが、「自己決定」観念と結合する兆しをみせた。天皇イデオロギーの凋落は避けられず、「自己決定」観念と親和的でない自立的国家派の国家構想はそのストレートな貫徹が困難となったのであった。
 これは見方を変えて言えば、〈人格的支配〉から〈機構的支配〉への転換ということができる。社会における利害関係が複雑化し非和解性を顕在化させつつある状況下で、対立の完全なる解消が不可能だとすれば、それらを特定の人格が調整するのは不可能となったのである。
 この機構的支配のもとで安定した支配を行う主体として、自立的国家派は必ずしもふさわしいとはいえなかったため、それを担いうる勢力として政党政治派が台頭し、いわゆる護憲三派内閣が成立した。このとき、国家意思の最終決定者と執行権者の分離を特徴とする寡頭制メカニズムは既に行き詰まっており、政権政党が両者を一手に担うにいたる。だがそのことは、自立的国家派のヘゲモニーの喪失を意味してはいなかった。これについて三点を指摘しうる。
 第一は、政党勢力が議会中心主義を放棄してしまったことである。それは、従来通りの執行権優位の統治機構を存続させれば、政権政党となったときに強力な執行権を手中に収めることができ、議会における野党からの掣肘を回避できるからであった。
 政党政治を不可逆的なものにするためには、明治憲法を改正するか、あるいは何らかの立法措置をとることによって、議会を国家意思の最終決定者の地位に置き、議会が外交政策をはじめとする重要問題の決定や、後継内閣首班の決定を行うことができるようにしておく必要があった。そうすれば、政党という存在を他の国家諸機関・諸勢力よりも上位に置くことができ、一つの政党内閣が失政によって倒れても、その次に超前内閣が現れるという事態を避けることができるからである。だがそれをしなかったために、依然として政党と国家諸機関は同じ土俵で政治的ヘゲモニーを争う関係を続けることになったのであった。政党内閣は、諸勢力間のときどきの力関係において政党が優位に立った場合にのみ存続しうる政治的慣行という位置づけを得たにとどまったのである。したがって1930年代になって政党が政治力を減退させたとき、政党はさしたる抵抗もなしに政権を明け渡さざるをえなかったのである。
 第二は、政党がワシントン体制を前提とする協調主義外交以外の外交政策の選択肢を奪われ、自立的国家派と同様の後発近代国家であることを前提にした国家運営を余儀なくされたことである。そのことは、政党が執行権優位の統治機構に手を付けなかったことの帰結であった。というのも政党は、議会における多数党が自動的に政権を担当することが可能になるように議会権限を強化するかわりに、元老に「憲政の常道」原則を遵守させることによって、議院内閣制を事実上実現するという戦術を採用したのである。
 だがそのために政策の内容面で元老の容喙を許すこととなった。西園寺は特に外交政策に関して、次期政権が従来の対外的な枠組みを踏み越えることがないよう政党をコントロールしたのである。したがって、政党が自立的国家派の国家構想を内容的に踏み越えていくことは困難となった。事実、それまで対外硬的外交政策を掲げていた憲政会が、政権獲得が現実味を帯びてきた1920年代中葉になって協調主義外交を受け入れたのは、そうした西園寺の意向を受けてのことであった。結果として政党政治期の元老西園寺公望は「憲政の常道」に沿った後継内閣首班指名を続けたが、そのことは政党が実質的に首班指名権を獲得したことを意味しなかったのである。政権政党は日々の政策決定を主導したけれども、それはすでに外交政策に関する自己決定権を奪われた上での、内政問題に限定された主導性であった。
 しかも第三に、政党自身の政策立案能力はそれほど高くはなく、内政問題に関する政党の主導的決定は、官僚機構の提示する政策メニューから何を選択するかという局面においてのみ発揮されるというのが実情であった。そして官僚の側も、自らの構想を実現するためには政党に選択してもらわなければならなかったから、政党に積極的に働きかけ、入党することも珍しくなかった。
 こうした内政問題に関する官僚機構の働きかけを受けて、党の政策に大きな変化を被ったのは、これまた憲政会であった。護憲三派内閣の成立からしばらくして、憲政会は労働組合法制定に消極的となり、また浜口内閣期には政友会と同様に地方官吏の大量更迭に踏み切っている。この猟官制は、党勢拡大を地方行政機構を通じて行うようになったことを意味しており、独自の党組織を弱体化させ、党内における官僚派の優位に拍車をかけていったと思われる。そしてここでの憲政会の変化は、内務官僚において地域統合論が優勢になる過程と軌を一にしていた。
 さて上記のような構造をもっていた政党政治は、満州事変や五・一五事件などを経て、元老西園寺がワシントン体制からの逸脱を回避すべく軍部統制を重視するようになると存続を許されないこととなった。この政党内閣の終焉によって開始されるのが第三期(1932-1945)である。統帥権独立制度を楯に取る軍部を、政党内閣では制御できないとみなされたのであった。
 政党内閣の終焉を受けて成立した斉藤実内閣は、対立しあっている諸勢力を一堂に会した「挙国一致内閣」という形態をとっていた。これは、国家意思の最終決定の場となっていた内閣の中に対立を封じ込め、それら諸勢力同士の討論に対立の調整を委ねる意図を持っていたと思われる。
 だが軍部統制を主眼としたこの「挙国一致内閣」は、1930年代の後半に現実の課題として浮上してきた国家総力戦の遂行という課題を担う内閣としては不十分なものであり、ファシズム国家体制への転換が図られることになった。その転換のプロセスにおける主要な政治的対抗は、自立的国家派と、新たに台頭してきたファッショ的改革派の間で展開されている。
 まず国民統合構造の再編から見ていくと、両派は自発的結社への弾圧を志向した点で共通していた。その理由は、自発的結社の持つ抵抗力が、国家総力戦の求める柔軟な生産体制の構築と衝突することにあった。また自発的結社は、民意を吸収し支配一般への同意を調達する機構としては優れていたが、国家総力戦期の同意調達機構としては不十分とみなされたのである。
 そのうえで新たな国民統合構造が形成されなければならなかったが、そのやり方をめぐり、自立的国家派とファッショ的改革派は異なる構想を打ち出していた。ファッショ的改革派が構想したのが、職域型国民再組織である。これは現存する議会に対する不信から出発していた。その不信とは、現存議会の議員は地域代表としての性格を色濃くもっており、経済機構改革が進んだ結果として職能的に分岐しつつある国民の諸利害の分布を、正確に代表しえていないというものであった。ファッショ的改革派の中心にいた陸軍が、制限選挙制の復活や、あるいは国民議会を廃止し職能代表議会を新設することなどを提言していたのはそのためであった。
 これに対して自立的国家派は、地域型国民再組織を構想していた。その第一の柱は、地方制度を活用し部落を活性化させて、寄生地主層ではなく耕作農民層を再組織化していくことにあった。戦争遂行という国家的課題の要請に即して民意を改変していくには、寄生地主層を掌握しているだけでは足りず、農村の中下層の農民を国家が直接に組織化することが必要だったのである。そのことが最も明確にしめされていたのが、内務省地方局によって構想された農村自治制度改正であった。第二の柱は、地域間再分配政策である。富の都市への集中を防ぎ地方団体間の格差を是正するために、地方財政調整制度が提唱されたのであった。
 他方、国家意思決定メカニズムの問題については、戦争遂行に必要な国家意思決定の効率化・迅速化をいかにして実現していくかを共通の問題意識として、両派の構想が練られていくのだが、ファッショ的改革派はナチス・ドイツを念頭に首相独裁を提唱していた。統帥権を抑え込んで一元的な戦争指導体制を構築するために、国務大臣単独輔弼制を改める必要があると考えられたのである。これには明治憲法の改定が必要であった。
 これに対して自立的国家派は、明治憲法に定められた既存の統治機構を前提にして、内閣調査局などの内閣を補佐する機関を設置することで国家意思決定の効率化は達成可能と考えていた。むしろ自立的国家派は、首相独裁の成立によって国家運営がカリスマ的人格に依存する傾向を強め、その結果として長期にわたる合理的な国家意思決定が阻害されることを恐れたのだとも言いうる。また実際に独裁権力が攻撃すべき社会的抵抗はドイツほどには強くなく、既存の統治機構のもとで処置可能なものだった。
 この両派の構想は対抗的な関係にあり、国民議会の停止と職能代表議会の開設も、明治憲法の改定も実現していないから、基本的には自立的国家派の構想が貫徹したと言うことができる。だが、ファッショ的改革構想の担い手たちはその後の政治過程の中で必ずしも活動領域を狭められていたわけではなく、実際のところ両派の構想がどのような関連性を持ち、どの程度まで実際の制度として実現したのかについては今後の検討課題として残さざるを得なかった。他日を期すこととしたい。
 以上のように、自立的国家派が一貫して支配層内の主流にあって政治支配を領導し続けたことにより、天皇制国家の支配構造は専制的性格とパターナリズムを保持し続けることとなった。そしてその点が、戦後の日本における前近代国家としての天皇制国家イメージを形作ることになったと思われる。だがここまで縷々検討してきたように、そうした専制性やパターナリズムは、決して前近代性を現すものではなく、他国も直面した近代的な諸課題に後発近代国家としていかに対処することが国家が生き残る途につながるかということを模索する中から形成された特徴だったのである。天皇制国家批判は、この点を踏まえた上で、近代批判の一環として再構成される必要があると思われる。

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