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博士論文要旨

論文題目:現代中国農村における権力と支配:新中国建国初期の土地改革と基層政権(1949-1954)
著者:田原 史起 (TAHARA, Fumiki)
博士号取得年月日:1998年7月29日

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(1) 問題意識と課題
 旧中国において常態化していたように、国家と社会が機能的に未分化で妥協的関係にある場合、両者の間を媒介する人員の属性や役割をめぐる問題はさして大きなイシューとはならないであろう。これに対し、国家が社会に意識的な変革をもたらすと同時に、国家の工業化のためにそれまでより以上の資源を社会から調達しようとするとき、末端の国家行政人員は、このような国家意思の「代理人」としてできる限りその目標の達成を助けることのできるような人選によるものであることが望ましい。国家と社会が従来取り持ってきた自然的・粗放的な関係が終わりを告げ、時には両者の利益の方向性が食い違い、反作用する状況も現れ始める。こうした状況を「近代的文脈」と呼ぶにせよ呼ばないにせよ、統治エリートと社会との「媒介項」としての役割を、もはや自生的な「ローカル・エリート」に委任しておくわけにはいかなくなった。国家の「代理人」としての地方・基層エリートの形成、すなわち「支配」の問題が自覚的な問いを伴うようになるのは、このような歴史的転換期においてであった。それでは中華人民共和国の政治権力と農村支配の実態を、そこにつきまといがちな自明性をはぎ取りつつ見つめ直そうとするとき、我々は一体どのような権力の映像を描くことができるだろうか。こうした素朴な問いは、現状に対する個別実証分析がますます現代中国研究の主流になりつつある現在、正面から解答を与えられることなくますます議論の片隅に追いやられていく感もある。こうした研究状況を鑑みて本稿は、現代の中国農村社会に作用する「権力」と「支配」の構造について、中華人民共和国成立前後の政治エリート形成過程のミクロな政治社会学的分析を手がかりに、あえて再び問い直そうと試みる。具体的な考察対象は、1949年から54年にかけての、新解放区農村における政治変動、特に県レベルをはじめとして、郷・村レベルの政権機構の形成過程、およびそれとパラレルな関係にあった地方・基層幹部の動態である。

 上記の課題を達成するために本稿が第一章において設定した基本的な視角は、次のようなものである。すなわち中華人民共和国建国以来の新解放区社会の「支配」の確立過程を、政治権力の中核をなす「エリート集団」と、その外縁に形成され現地社会に根を持つ「エリート候補集団」の両者が、(現実には不可能だとしても)究極的には「同化」する方向を目指して進んでいく過程として記述・分析することである。本稿で問題とするのは、県のレベルおよび基層(郷)レベルの二つにおける「エリート集団」と「エリート候補集団」との関係である。続く第二章では、新中国建国初期の県レベルおよび農村基層レベルにおける政権形成を取り巻く、広い意味での「環境」について、三つの角度より基本的な整理を行った。すなわち第一に、歴史的な視野から近代以降の中国における農村統治と基層権力の特徴についてまとめ、第二に、建国前後における新政府を主体とした社会経済的ないしはイデオロギー的側面における、基層権力空間の再編作業について検討した。そして第三に、新政府の政権建設構想の法的・制度的背景について、後の各章における実態的側面を理解するための前提として整理を行った。




(2) 県級政権の形成と変動
 第三章が考察の対象としたのは、「エリート集団」と「エリート候補集団」をめぐる第一のレベル、すなわち新解放区の各県における外来の「南下幹部」と、統治対象となる県を空間的範囲とする地域社会との関係である。新解放区の県エリート集団の形成は、旧解放区の幹部を南下させ、各省、地区、県の主要ポストに配置すると同時に、現地社会から新幹部をリクルートすることにより進められた。こうした歴史的文脈をエリート形成の観点から読み直せば、革命勢力を代表する旧解放区から南下した人民解放軍が、南方の人民を「封建支配」の束縛から「解放」したという、建国にまつわる「フィクション」が新解放区統治権力の正統性を構成し、こうした「フィクション」を一つの核としながら、それへの同化の度合いということが政治エリート形成の意味世界を構成したものといえる。より具体的には、現地社会において吸収した「エリート候補集団」を北方からやってきた「エリート集団」の中に取り込み、前者を後者に同化させていく過程が、新国家による新解放区県支配の核心であり、また、続いて農村支配に駒を進めるための第一歩でもあった。本章では、両集団の同化過程に対する促進要因と阻害要因がそれぞれ論じられた。

 「同化」の促進要因を、エリート集団の構造を操作する際の個々の戦略に分解してみれば、それは一方では、北方出身の外来「エリート集団」の開放=競合構造を高めるとともに、他方で現地で吸収された「エリート候補集団」を含めた集団全体の統合を促進することを意味する。こうしてみれば、第一に、旧解放区出身の党員幹部が現地社会から相当数量の行政幹部を「エリート候補集団」として既存のエリート集団内部に取り込み、現地出身幹部にも下から上への流動性(upward mobility)が見られた点において、北方の解放区からやって来たエリート集団は県エリート候補集団に対して開放的な構造を有していたといえる。特に政府系統での県級トップのポストについては、50年代において開放的な構造が見られ、70年代後半に至っては統治集団中核の人的構成は党・政府とも本格的に「現地化」された。第二に、双方のグループがともに県城に居住する都市住民であったという点、また「県」という単位が過去の中国の最末端の国家権力機構であり続けたという歴史的要因も、県エリート集団の全体としての統合を高め、現地出身幹部を統治エリートの政治文化に同化させる作用を持った。「南下幹部」と現地新幹部との同化は、この二つの戦略要素の作用により徐々に進行し、社会的な異質性に裏打ちされた双方の分離状況は緩和されていったものと見られる。

 それにもかかわらず、統治エリートは外来の統治権力を現地でリクルートされた人員に対し完全に開放したわけではなかった。その第一の現れとして、国家の社会統治の正統性を代表する南下幹部が長期に渡って県の要職を占め、下位のポストが現地幹部によって占められる状況が存在した。幹部の移動についても、下から上への流動性(upward mobility)は存在したが、上から下への流動性(downward mobility)は少なく、特に党系統の主要ポストにおいては現地出身幹部に対して閉鎖的な傾向がみられた。このことの背景には、主として南下幹部が代表していたところの統治の正統性の所在にあったと思われる。すなわち、新解放区における統治権力の正統性とは、社会の内部に根拠を持つものであるよりは、人民解放軍の南下によりもたらされた何らかの「外来性」に結びつくものとして、人々にはイメージされざるを得なかったであろう。

 以上より、県におけるエリート集団の構造と変動の特徴について、総じていえば同化を促進する戦略要素の方が、同化を阻害する戦略要素を凌駕していたように見え、江西省の事例から描き出される映像は、国家の「代理人」としての県政権形成の一つの成功事例に属すものと思われる。言い換えれば、県政権の「地方主義的」な傾向は概して強いとはいえない。だが、こうした総合的評価よりも重要であると思われるのは、例えば政府系統と党系統のように、集団の開放性・競合性が現れる領域と凝集性・閉鎖性が生ずる領域とが権力機構内で同時に存在し、従ってエリート集団の同化過程もある部分では中央の政治文化により強く同化し、また別の部分では地方主義的傾向が育まれるなど、不均衡な形で進行していると考えられる点である。こうした点については、今後いっそう踏み込んだ考察が必要であろう。




(3) 基層政権の形成と変動
 第四章および第五章で扱った県エリートと農村社会との関係は「エリート集団」と「エリート候補集団」の関係とその変動をめぐる考察の第二のレベルに属する。基層レベルへの権力浸透過程を見るにあたっては、第一のレベルにおける県エリート内部の分離構造はひとまずカッコで括られ、南下幹部および県城の住民を中核として形成された幹部集団は既存の「エリート集団」として、農村社会に向かい合う構図となる。このとき、基層レベルにおける県エリート集団(工作隊)と基層エリート候補集団(積極分子)の「同化」過程として第四章、第五章の議論を整理すれば、「同化」を促進する側面としては以下の二つが挙げられる。第一に、 二つの方向からの幹部の官僚制度内の移動が存在したことである。一つは上から下への流動性(downward mobility)であり、行政階梯でいえば上位である指導幹部らを最下位の現場に「工作隊」のかたちで一時的に配置し、上級エリートを社会の側に同化させる試み(大衆路線)を多用したことである。もう一つは下から上への流動性(upward mobility)であり、末端での大衆運動を通じて従来は非政治的な階層であった農民が基層レベル、あるいはそれ以上の政権機構内に幹部として参入していく過程である。第二に、基層エリート候補集団を既存エリートに同化させ、基層幹部をも含めたエリート集団全体の統合を高めるための操作は、基層社会全体に政治的求心力を発生させるとともに、基層幹部と工作隊との接触を基層社会に示すことによって、政権に威信を与えることにより行われた。その中で、基層エリート候補集団をいわば上級の「手足」として養成するために、それまで国民政府の統治を受け入れてきた新解放区農村社会においては、新政権が新しく作り出そうとした基層エリートは旧社会エリートとは異なる階層の中から補充されることが望ましく、実際に基層幹部は農村の貧困層から補充された。

 しかしながら、基層の政治文化をエリートのそれに近づけ、究極的には同化させようとする以上のような戦略は、他方で基層権力空間を取り巻く様々な環境により阻害されることになった。第一に、上から下への流動性(downward mobility)の存在は、全てが臨時派遣の工作隊派遣の形態を採っており、いわば「擬似的な」下方移動であった点である。このため「大衆路線」のイデオロギー的牽引力を持ってしても、都市に出自を持つ上級エリートは農村の基層エリート候補集団に「同化」することが困難であった。一般に、上級からの派遣人員は既成の行政的権威を保持したままで、「官僚主義的」に仕事を行う傾向が強かった。下から上への幹部の流動も、基層単位である郷のレベルを越えて、区以上への上昇を遂げる社会層は、経済的に貧困な「階級」に属しており、かつ一定の教育程度を備えていなければならなかったため、その数は非常に少なく、こうしたケースは寧ろ稀であった。すなわち農村からの幹部のリクルートは、ほとんどが農村に近い基層レベルの職位に止まり、それ以上の上昇のチャンスはさほど多くはなかったことから、県エリート集団が農村社会にとって真に「開放的」であることはできず、農村社会にとり県城は依然として遠い場所であり続けた。第二に、政治的な分散化傾向が、有効な基層政権の形成にとっては阻害要因となった。分散化傾向の要因には、二つにまとめられる。・農村社会の政治化のための戦略は、各村落へ工作隊を派遣しての大衆の「発動」というかたちをとり、社会構造全体の変動をともなう社会の「動員」とは本質的に異なるものであった。したがって外部から人為的に加えられた圧力が取り払われるや、多くの地区では政治的な求心力が失われることになった。・新しい基層エリート候補は、従来において農村社会内部で認知された威信階梯からみれば低いレベルの階層出身者(貧困層)により構成されていた。基層まで含めたエリート集団の統合のためには、成員の階級的出自における「純潔さ」が要求されるが、問題はそのような貧困層出身の成員は社会的威信を欠いており、そうした人員により構成される政権には、しばしば政治的な分散化傾向が現れることである。ここから、基層エリート候補集団の分散化傾向を抑え、基層政権を有効に機能させるためには、農村社会の中で様々な「不純」な背景を持ちながらも、威信を有する人員を組織の内部に許容することも必要になってきたのである。

 総じていえば、統治集団と現地農村社会との分離を分離のままで放置した「伝統的」なエリート集団の構造、ないしは分離状況を解消しようと試みつつもそれに成功しなかった旧来の中国国家と比較するならば、新中国の農村統治に特徴的なのは、統治集団と社会との分離をそのままで放置しなかったばかりでなく、両者の距離を縮小するために県エリートの下方移動と「大衆の発動」の方法を積極的に活用し得たことである。だが、それにもかかわらず、県城と農村社会の政治社会的な一種の「分離構造」は基本的に不変のまま残り続けたことは重要である。基層レベルは幹部人事制度を通じた「エリート形成戦略」の埒外となり易く、現場の農村工作人員の個別の「戦術」に依存せざるを得ない側面が大きかったために、基層幹部の形成・配置は上級の完全な掌握下に置かれにくく、「基層エリート形成戦略」も様々な戦略外的な要因によって規定されざるを得なかったのである。




(4) 不均等な基層権力空間
 以上までの論述の過程で明らかになったのは、有効なエリート集団形成の過程に、いわば空間的な不均等がかなり顕著に見られるという側面である。一つの問題は、そうした「不均等さ」を比較分析する際のコミュニティーの単位をどのあたりに持ってくるかという点であったが、ここでは、もっぱら基層レベルでのエリート形成における空間的な不均等という点について本文の議論を再整理しておきたい。

 基層政権の形成過程は各地区によって一様ではなく、おそらくは「郷」単位でみれば各「郷」によってそれぞれ異なったプロセスを経ていた。これに関しては、農村における各種事業の展開においては常に「郷」の単位で「点」と「面」の考え方による統治空間の序列化がなされ、「試点郷」において創造された経験を、その他の「面」に属する周辺郷に向かって普及させる方法が採用されていた。「点」と「面」の思想は、社会のあらゆる領域に、同程度の強度で支配を浸透させることを究極的な到達点として設定するものだったが、しかし「究極的な」到達目標を掲げること自体、ある程度まではその「究極的な」要求を満たさない領域が生じることを暗黙の内に許容するものであった。一般的に言えば、「試点」に選定された郷では政治的にアクティヴな理想型に近い政権組織が形成される一方で、「面」の部分、とりわけ政治的中心地の「点」から離れた周辺郷の基層組織のもつ政治的求心力は弱くなる。こうした地区間の差異は、社会経済的ないしは地理的条件に規定されながら各村落に所与の条件として備わっているところの政治構造の違いにより生起するものと思われた。つまり、基層エリートの形成が困難であり、それゆえ国家支配の及び難い「後進的」な郷・村はまた、地理的に見ても周辺地区に位置する場合が多かったであろう。

 こうした不均等な支配形態をめぐる第一の論点は、第四章で間接的に扱われた工作隊の活動形態と派遣郷の政治構造との関連である。すなわち、多くは農村事業の「試点」に選定されるような、コミュニケーション的な条件に恵まれまた凝集的な政治構造を備えた郷においては、工作隊は比較的「大衆路線」に近い活動スタイルで、基層政権の「培養」作用を持つことができた。これに対し、県城・城鎮からも遠く、政治的にも不活発な大部分の郷・村落においては工作隊はともすれば求心力に欠ける基層政権の「代行」作用を全面に押し出し、上級の批判を受けることになった。基層政権の形成が空間的に不均等に進行することについては、ここで更に時間軸を導入することで動態的なゆらぎの部分を記述することが可能となる。すなわち、エリート集団の流動性が存在する時期、工作隊の派遣や、末端幹部のリクルートが進行する時期においては、有効な政権の形成を表す「点」の中心部分が拡大し「面」の周辺部分にまで近づいていくのに対し、幹部の人的環流が存在せず、官僚制的位階制が固定化される時期においては、有効な支配(=「点」の部分)の領域は縮小する。つまり、いつの時期においても「不均等性」は存在していると考えられるのだが、支配の厚い中心部分と薄い周辺部分の割合は時間のサイクルによってある程度、拡大・縮小するのである。

 政権形成の不均等さをめぐる第二の論点は、第六章において検討した基層政権と政策浸透力との関わりである。ここでは土地改革運動の一部として展開された、階級区分政策の実施過程を用いたケース・スタディを行った。ここでの問題設定は、統治エリートの構想に端を発する諸政策が末端レベルで実施されなかったり、また実施の過程でその内容に何らかの変更が加えられたりした際、それは我々が常識的に考えるとおり、基層政権が国家の意思を代表して政策を実施する能力の不足、つまり基層政権の脆弱さを示すものなのかどうかというものであった。これに対し本文での議論から仮説として提起可能であると思われるのは、政策浸透力が不足していることの背景には、主として次の二つの状況が存在したことである。

 まず一つの状況は、当初から予想されたように、基層政権そのものの政治的求心力が不足しているような地区における政策の不浸透現象である。そのような地区においては、上級からの工作隊が政策実施を代行してしまったため、階級成分の審議について必要な個別の世帯に関する情報が収集されず、階級区分の適用に誤りが起こる傾向がある。こうした状況に対しては、当局側は否定の姿勢をとり、「再検査」により再び「大衆の発動」を行うことによる矯正を求めた。

 他方、政策浸透が弱くなるもう一つの状況は、基層政権が政治的求心力を備えた地区において、農村住民が階級区分の適用プロセスに積極的に参加したが故に、統治エリートの側が自ら社会変革の経験に従って造り上げた階級区分政策と、実際の社会構造との間のズレが顕在化し、そのために政策内容の適用の仕方において逸脱が生ずるというものである。つまり、基層政権が求心力・指導力を増すに伴い政策浸透力が強まるという、当初の我々の予想は、少なくとも階級区分政策に関する限り当てはまらないのである。

 ここでは階級区分政策の実施という非常に限定された一つのケースを用いて、国家レベルの政策が社会に浸透する際のフィルターとしての基層政権の働きを検討した。だがそこに見られる一つの特徴として、どうやら上級政権(=国家)は、基層政権に対してその完璧な「代理人」となることを求めていたわけではなかった点が指摘できるように思う。印象論的な言い方にはなるが、国家は基層政権に対し、ある部分では厳格に政策の執行を要求するとともに、また別の部分では政策内容の現地化が行われることを積極的に認め、むしろ基層政権が政策内容の一部を現地化し、変更を加えることを可能にするような「自治能力」の向上を、農村統治の第一の課題としていたようなふしがある。




(5) 結論
 さて、県レベルおよび基層レベルにおけるエリート形成パターンの相違、および基層における支配の不均等な側面などを総合して本稿の議論を振り返ってみれば、国家が管理できなかった、あるいは敢えて管理しようとしなかった社会生活の領域は、建国初期の農村社会変革期にあっても相当多く残されていたと見るべきで、そうした意味では確かに伝統的な「村落自治」にかなり近い側面が、少なくとも50年代半ばまでの中国農村には見られたと考えられる。さらに一般化を恐れずに述べるならば、建国初期の中国に限らず、農村社会の統治・管理には多かれ少なかれ「粗放的」であり、どれほど「全体主義的」に見える体制下にあっても内部的な「自治」に任されている、あるいは任せざるを得ない領域が少なくないのではないかと思われる。それは「近代国家」においても同様であり、こうした農村における権力と支配の形態が真の意味で変革を被るのは、産業構造の高度化やそれにともなう都市化の進展により、都市-農村の二元構造そのものが破られる日を待たねばなるまい。

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