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博士論文要旨

論文題目:近世日本思想における儒学・神道・兵学の関係
著者:戴 文捷 (DAI, Wenjie)
博士号取得年月日:2008年3月21日

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1.本論文の課題
 近世日本思想には儒学・神道・仏教・兵学など様々の思想が混在する。かかる近世思想が、初期の複合的な思想形態から、中後期に純化されていく過程は、徂徠学を契機に外面的実用に傾け、思想における内面的価値と政治的価値が分離される過程でもある。内面的価値と政治的価値を別々に捉えることは、心性を探求する道徳論と政治論の分離を意味する。心性への問いは、宇宙観・生成観を基点とするので、政治実践と切り離された時に、政治論におけるかかる意味での宗教性・哲学性が後退する。その結果として、近世の祭祀は、民の統制手段として利用され、中後期に神事・仏事が娯楽とされるほど更に隆盛していき、教理が発達せずに思想本来あるべく倫理性・方向性を失い、幕府と朝廷の権力の均衡が破られる時に容易に天皇・朝廷側に逆手に取られてしまう危険性を持つ。先行研究に導かれつつ、そこに残された課題を取り組む。
 まずコスモロジーの喪失とされた近世日本思想は、何時、どのようにして、なぜ欠けていったかを検討する。そして近世思想に宗教(神仏)、政教、風俗がどのような関係を持ち、どのように取り込まれていたかを探る。更に、日本実学思想の源流はどこにあるかを究明する。最後に近世の人々にとっての兵学とは何かを論じる。
 以上を踏まえて、研究内容と対象を設定する。本論文において、近世日本思想における儒学・神道・兵学との関係を研究のテーマとして設定する。そして、研究対象は、兵学者であり儒学者でもある実学者山鹿素行とその弟子津軽信政に絞る。

2.方法論
 本論文は、二部構成からなる。第一部において、山鹿素行の思想を考察する。第二部は、津軽信政の思想特質を迫る。著作を多く残した素行と違って、信政は勉学の際に書かれた覚書などのみで、著書らしきものを記していなかったため、第一部と第二部の考察方法が異なる。第一部の素行学は、従来の思想研究の手法に従い、テキストを中心に分析する。まず素行の著作を各時期に区分し、その形成過程を追うことによって、素行学の特質を突き止める。第二部の信政に関しては、異なる研究法を用いる。彼の覚書や、次男与一に学問を伝授した際に与一が残した覚書と、津軽藩の法律である「覚」や「定」、そして藩政と照合しながら、信政の政治思想に迫る。つまり、信政はどのような学問を学んだか、そして信政が受容した学問思想が藩政にどの様に反映したのか、という二つの視点から信政の思想に近づく。

3.本論文の構成と各章の概要
―はじめに―
 1、なぜ日本思想の研究を始めたか
 2、近世日本思想における先行研究の成果と問題点について
 3、本論の構成 
第一部 素行学における儒学・神道・兵学の関係
 第一章 素行学の先行研究と時期区分
  第一節 先行研究について
  第二節 素行著作による時期的区分
 第二章 文武論時代における素行学の特質 ―その一 開始期―
  第一節 『奥義』に見える文武関係
  第二節 兵法における秘伝目録から見た素行の天人観
  第三節 人心と「神心」
  第四節 治国論と修身論に見られる素行学の特質
  小括
 第三章 文武論時代における素行学の特質 ―その二 円熟期―
  第一節 「陰陽兵源」と「道法兼備」の融合 
  第二節 『武教本論』における宇宙論の形成 
  第三節 心性論の形成
  第四節 治国論  ―法教と礼教―
  小括
 第四章 人間論と治国論の融合
  第一節 人間論の確立
  第二節 治国論 ―教化・政令・風俗・人心―
  第三節 文武論の発展
小括
 第五章 儒学・兵学・神道の融合
  第一節 『中朝事実』の概要
  第二節 「先天章」と「中国章」に見える宇宙論の特質
  第三節 治国観 ―神教・武徳・神治・聖政をめぐって―
  小括
 第六章 素行学における宇宙観の完成
  第一節 「理形用」説への回帰と新しい聖人像
  第二節 山鹿流「大星伝」の確立と特質 
       ―北条流「大星伝」との比較を通じて―
  第三節 「三重六物伝」と『原源發機』
  小括
 第二部 領主思想における儒学・神道・兵学の関係
            ―津軽信政の学問受容と思想形成―           
 第一章 信政の学問の土台と政治課題
  第一節 信政の略歴と津軽藩政についての先行研究
  第二節 藩主就任時に直面する政治課題
  第三節 現存史料目録からみた信政の学問の受容過程
 第二章 素行学の受容と信政の藩政
  第一節 治国論の受容
  第二節 「知土」・「管用」と藩政策
  第三節 「撰将」・「用士」と人材登用のあり方
  第四節 「教」と家臣の養成
  第五節 大学の起用と「文」の重視
 第三章 吉川神道の受容と思想の融合
  第一節 神道的君道思想の受容
  第二節 津軽藩における宗教的背景
  第三節 信政の宗教政策
  第四節 素行学と吉川神道の融合 ―文武観を巡って―
  小括
―終わりに―
 第一部 素行学における儒学・神道・兵学の関係
 第一章 素行学の先行研究と時期区分 
 素行の政治論はどのように構成されているか、宇宙論や心性論とどのように対応して確立していったか、素行学における実学が何に由来するか、「教」の思想と兵学・儒学そして晩年の神道思想とどのように関わるかについて検討する。素行学における思想的主要素と、宇宙論・道徳論・治国論との関わりの視点から、素行学を六つの時期に新たに区分する。第一期の修学時代を除き、第二~六期の各時期を検討し、素行学の形成過程および思想的特質を究明する。
 第二章 文武論時代における素行学の特質  ―その一 開始期―
 当該期の素行が目指す実学は、文(儒学)と武(兵学)の融合から始まった。当該期の兵学と儒学の関係は、全体と個人にある。治国には兵学的な謀略に力点を置き、個人的な修身には儒学的な倫理観を用いる。両者の関わり方は、三つの文武観に現れる。則ち、「陰陽兵源」は、陰陽説・太極図説と結び付けることによって、兵学に儒学的な道徳観と人間観を持ち込み、文内武外の文武観を根拠づけた。「草創」「守成」の区分は、武は「草創」に有効で文は「守成」に不可欠だというもう一つの多変的な文武観を支える。更に、「道法兼備」は、文体武用の主張を支援した。
 また、儒学的な人間観は、兵学の秘伝に変化をもたらした。天を絶対視する北条流と違って、素行流の兵学は、天の領域における人知の最大限の発揮を唱えるものである。より重視された「人用」は、兵学的な有効性を本質とする。それは、素行の実学思想の源流となる。是非・善悪を予めに決めず、用において検証する。事の成敗によって、是非・善悪を決める。この意味では、治世に向けて倫理的な追求は、朱子学より希薄である。しかし、政治における個人の道徳修身はやはり重要だと素行は考え、「神心」によって独特な修身論を提唱する。修身は、聖人になる為ではなく、「国恩」を答え、「陰徳陽報」のご利益をえ、先祖の功績を守り、治者として民に嘲笑されないために不可欠である。素行の「神心」論は、儒学的な心と神妙的な心を結合させたもので、神道的な発想の端緒が既にここにあった。
 第三章文武論時代における素行学の特質  ―その二 円熟期―
 円熟期の素行学において、生成論・宇宙論が形成される。それは、儒学的な三才思想・陰陽説に依拠しつつ、有効性を求める兵学的な三才思想に基づき、「理・形・用」を確立したことである。と同時に、実践において法・礼を中心とする治国論として具体化された。法教は賞罰を通じて刑法による治国である。礼教は、風俗を正す為の礼儀祭礼作法の普及を目的とし、人心を収服する。
 「教」の重視は、心性論の形成と相応する。心は性と情を統合するが、性に霊なる知覚があるので、その霊なる知覚から人心が本心=神心へ到達する理論的可能性を見出した素行は、「教」を提唱する。なお、本心=神心は、心性論のレベルにおける儒学と兵学の結合でもあり、兵学の倫理化をもたらす。これによって、素行の「法」は倫理的に色づけられていく。
 更に身分に応じる教の考えから、武教が唱えられた。武士に行う武教は、武士のアイデンティティの確立に根拠を与える。また、異端思想への防止から、自国の礼儀風俗を重視する意識が生まれ、「武」も本朝の独自のものとして強調され、武教が一層重視される。そして、これは徐々に、武国という「本朝」尊重意識として目覚める。
 第四章人間論と治国論の融合
 この時期の素行学の大きな特徴は、宇宙論を「理形用」から「形気用」に変わったことに現れる。気の導入により、宇宙論と心性論が結合し、素行独自の人間観が誕生した。人は「形」によって役割を変えられないが、気質の変化によって、知を究め地利を尽くし、役割をより良く発揮することができる。更に気を媒介に、鬼神が心性論に導入され、神道的な神の影が見せ始めた。心性に具わる「神舎」と「感通知識」が「誠」によって一体となる。
 かかる心性論に支えられる治国論は、風俗の教化の「わざ」を強調する。賞罰による教化よりも、徳による心(恵み・憐れみ・助け)の教化のほうがが、より人心の統一に有効で、風俗を醇朴なものにすることができる。教化の「わざ」の主張につれて、法と礼は結合し、政令と教化の関係へと変わった。これに伴い、教化の対象と相応する内容も明確なものとなった。素行の文武観は、より「わざ」―策略―重視へ傾斜していく。そのため、経済的な均等を求める仁政説が唱えられた。
 と同時に、「本朝」尊重意識と教化の「わざ」は、自国の神道祭祀に目を向けさせた。武国の他に王家相承の意識を取り込む「本朝」尊重意識は文化的優位意識ではなく、歴史風俗の優位意識にすぎなかった。自国歴史の肯定的な捉え方は、文武論を治国の方法論から、武家政権を正当化する論理に進化させた。
 第五章 儒学・兵学・神道の融合 
 これまで兵学と儒学的宇宙論を融合した独自の「形気用」論及び政治論に加え、『聖教要録』・『山鹿語類』に確立された心性論や鬼神論と、『謫居童問』に芽生えていた「本朝」尊重意識が、『中朝事実』を結実させた。自国風俗を肯定的な見地から、素行は心性論や治国論をより独自なものにしていく。
 まず宇宙論において、素行の神道思想は、神道家のと一線を画す。「天先」で神の生成を触れたが、吉川神道に比べたら、神話的な要素が少なく、儒学的生成論の影響が強い。素行は、『日本書紀』を宗教的な捉え方でせず、歴史として神道を理解するのである。
 そして、心性論において、人心=神心には、致知→思慮→感通という知的な営為を堅持しつつも、祭祀の役割を大きく取り上げる。宗教的テクニカルな行為を通じて、敬・誠な心になったときに人心が神心とシンクロする。これは心情的・身体的な鍛錬を主眼とする。素行が自国の神道に関心を寄せたのもこのためである。
 更に治国論は、教化の「わざ」、弱者への憐み、策略的かつ利益的な仁政観、「本朝」尊重意識などを、神道歴史と融合し、更に強固なものとなった。「武徳」は「神教」とされるため、武は、辺土・国外に顕揚され、国外から書籍を輸入し、文字・知識をもたらし、朝貢を受ける「徳」を後世に及ぶプラス的な一面を持ち、文と結ばれ、「文武両道」に歴史的根拠を得た。「神治」と「聖政」は治国の大綱と具体的な方法を示し、政令と教化の「わざ」に対応する。「治平の道」を理想とする「神治」は、弱者への憐みや経済的均等を求める仁政観から発展したものである。一方「聖政」は風俗による民心の治を目指すので、教化の「わざ」を要する。これは「本朝」尊重意識と共に、素行が提唱する「礼樂」、神道祭祀、謡曲などの神儒融合的な教化思想を支援する。「神知」では、君臣あるべく理想像は儒学によるものだが、人材の識別方法は、兵学的な基準を用いる。更に天皇と臣下の間に起こった歴史的事件は、武備の重要性を強調したと同時に、天皇と武士の不易な上下関係を示した。かかる認識を元に、『武家事紀』は編纂された。
 このように、「神治」、「武徳」、「神知」(知人)、「聖政」は、神道的歴史思想と従来の兵学的・儒学的見解を織りなして、素行の新たな治国論の提示と見なすことができる。但し、『中朝事実』に現れた神道的歴史思想は、「本朝」尊重意識を起点とするため、批判は外に向けて行われ、自国の歴史や政治は、風俗として全般的に肯定されてしまう。かかる自国優位の思考は、鬼神祭祀を通じて抵抗なく治国論に取り込まれていく。
 第六章 素行学における宇宙観の完成
 朱子学と異なる心性論・治国論を持つ素行には、聖人・鬼神を宇宙論において如何に位置づけるかの課題が残される。これらを積極的に取り組んだ結果として、素行流「大星伝」・「三重六物伝」・『原源発機』が生まれた。素行は、無形と有形の視点から世界を見つめる上に、陰陽説で天地聖人の生成を説明し、聖人と万民を君臣関係(王権神授説)で結ぶ宇宙生成論を確立した。ただし、ここに見る王権神授説は、性・気・形・理の心性論から発するものである。人は生まれた時からそれぞれの形や性(理)を持ち、形に具わる気質の変化によって、それぞれに付与された性=才に全うすることができる。従って、聖人と万民は、生まれつきでかかる社会的関係が付随する。これが、素行の王権神授の内実である。素行の宇宙論における陰陽説と王権神授説は、かなり複雑に絡みあい、表裏一体となっている。
 また、「大星伝」、「三重六物伝」は「理形用」に基づくものなので、「用」=実用性を求めば求めるほど、倫理性・道徳性が希薄になるという一面が免れない。そのため、素行は、道徳にリードされる「用」を模索し、『原源発機』を考案した。そこでは、素行は、「誠」を設定し、「人用」万事がそれに収斂されると考える。しかし、実用に偏重する「格物致知」による「誠」は「正」と直ちに同様に認識されるために、理による是非の検証が伴われず、自らの心意を純一なものにすることを意味するので、内面的な倫理性が強いものの、外部に対する規範性が極めて弱く、「用」に対する拘束力があまりないと思われる。
第二部 領主思想における儒学・神道・兵学の関係 ―津軽信政の学問受容と思想形成―
 第一章 信政の学問の土台と政治課題
 まず、信政がどのような政治課題に遭遇したか、彼の学問基礎が何によるかという二つの視点から、信政の政治思想を接近する。
 藩主に就任した時、信政は領内経済・領民の統制は勿論のことで、家臣の統制・藩士の教育・支配体制の確立・交通整備など、山積みの課題を突きつけられた。
 そして、現存史料目録から信政の学問の受容過程と特質が窺える。延宝元年~宝永三年にかけ、信政は、『武教小学』、『武教全書』、「三重伝」、『原源發機』を生涯学んでいた。延宝六~八年に素行学の三大秘伝を受けた信政は、貞享元年~四年に将監と藤介に北条流の「微妙」「至善」を学び、更に『武教全書』や『兵法奥義』を教わっていた模様である。元禄初期に入ると、信政は、神道を積極的に学習し始め、『日本書紀』から神道的生成観、「中臣祓」の神道的君臣観を受け入れた。そして、元禄後期、特に十一年以降に素行学・吉川神道を融合する形で、自問を綴り自らの考え・理解を示すようになった。
 信政は素行の死去を境に、元禄期以前に主に素行学に没頭し、兵学の全般を主に習得し、儒学も『聖教要録』などの学習を通じ一定程度に受け入れたが、元禄期に入ると徐々に吉川神道へ接近し、『日本書紀』を通じて神道的生成論を受容し、「中臣祓」の君臣観を学び、神道的祭祀儀礼を教わった。晩年、これまで培ってきた兵学・神道・儒学的知識を自問という形で自らの考え・理解を示すようになった。
 第二章 素行学の受容と信政の藩政
 信政の藩政は素行による影響がかなりあった。特に治国論は、「主本」・「撰将」・「用士」・教化論・祭祀論を熱心に勉強し、受け入れた模様である。
 信政は、津出入に対する監視体制による商品の把握、運輸交通網の整備、水利整備と新田開発を通じて、後に更に知行性から俸禄制への変更などによって、津軽藩政および自らの藩主権力を確立していった。これらの政策の多くは、素行学の治国論(「知土」「管用」)に刺激された結果だと考える。後に、素行が「主本」において強調された「知土 制国土詳地理」と「管用 弁財節用」的な考えと、兵学従来の「四神相応」の考えを信政は結合して捉え、子息に伝えた。
 また、信政は「用人」・「家老」・「城代」という職制を作り出し、異なる役職に異なる将・用を配置する。「家老」にも「用人」にも新参の者を投じ、城代職には一門・重臣以外のものが就任できない。かかる人選も素行が与えた影響が大きい。信政が藩政において人材と役割を吟味しつつ、藩内の既存勢力に新しいエネルギーを注ぎ、文治の社会的潮流に適応する藩制度を作り上げる工夫・試みが窺える。
 信政は、文は礼法で武は武威であると理解し、藩政に「文」を一定のカテゴリーの中で導入し、家臣にも文武両道を求めていた。そして、大学を含める多くの学者を招聘し、武士教育に当たらせた。更に、信政は素行の政令と教の「わざ」の考えも受け入れられた。信政は、江戸での評判が芳しくない自藩の藩士を、役職を通じて礼儀作法を教える。また江戸と国元の実情に即して、それぞれに適合する法を採用した。江戸詰藩士には、身嗜みの改善を求め、法の力点は主に礼儀に置くが、国元藩士には実務的な法度を多く出した。このような制法思考・江戸と国元の法度の相違は、素行学に用の思想に由来する。
 第三章 吉川神道の受容と思想の融合
 元禄期を境に信政は神道に没頭した。信政が吉川神道から受けた君道とは、天道に従わなければならず、天照大神のような智の謀略・心の謀略を双方用いるものである。また、吉川神道の「誠」や「敬」=畏怖による「無我」も受け入れた。そして『中臣祓』を通じて、祭祀による神力を崇信するようになった。
 ただし、排仏的な吉川神道と違って、信政の宗教政策はかなり神仏混合的である。信政は、国元の菩提寺を曹洞宗から天台宗へ改宗した。天和期以降に創立した寺院の多くが浄土真宗である。これは村々は真言密教系の寺院、特に修験や浄土真宗を非常に必要としていたからである。このような宗教政策は津軽藩の信仰状況と関連する。当時弘前城下町の人々多くは、曹洞宗に帰依していたに対して、農民の多くは、八幡信仰と観音信仰を崇拝していた。また、アニミズム的信仰もかなり見られる。したがって、信政は、数の最も少ない天台宗寺院には、藩主の菩提寺という格式を与え、一定の石高を保障する。一方曹洞宗は石高が少なく、町人に信仰され日常的な寄付を受け、経営を継続していた。村々においては、祈祷系の真言宗や修験が勢力を持ち、規模が小さいながら、各居村に分布することで寺院の存続をさせた。
 また、信政によって創めた祭礼は、八幡宮祭礼と岩木山祭礼がある。元禄年間以降に、賀茂宮・貴船・広瀬宮・龍田宮の四社を設立し、それぞれ日・雨神・水神・風神を祭る。信政は、祭祀権に対する潘権力の独占する一方、除災(=安民)という最大の目的を達成する為、民心や民情に配慮し、密教的祈祷、神道的祈祷、地元のシャーマン的なものという神仏習合的な儀礼を行っていた。
 領内における寺社の統制や祭礼・祭祀制度のあり方は、神への敬畏・神の力を強調する吉川神道からの影響と、『中朝事実』に触発され政治における祭祀の役割の重要性を信政が認識し藩内の民間習俗・信仰情況を尊重した上に融合した結果だと言えよう。更に、風俗の「教」と神教・神道の祭祀を融合した形で、祭礼や神社の創立などにより、具象的かつ簡易な教民方法を試みた。
 晩年素行学と吉川神道を融合して、信政の独自の文武観を示す。信政は、武本主義の立場から、武士にとって必要な見聞を家と津軽藩に限定するので、彼の格物は素行よりスケールの小さいものである。しかし、実践において素行よりも用への傾斜度が大きい。元禄十四年ごろから、信政は、素行学と神道の融合を図った。彼は武士の忠を伊册両神・天照大神に連結し、誠な心と理解する。武士の本来の勇は否定されず、其の倫理的根拠を宗教的人格神に求められ、武は神に収斂されていく。これを踏まえて、元禄十六年に信政は「武」を「道体」、「武備」を「道体の用」とする。信政にとって、文と武は、武が圧倒的に文をリードする立場にある。素行以上に武本を強調するところが、信政の文武観の特質である。

4.結論
 素行学に織り成す儒学・神道・兵学の関係は、考察を通じて、次のように考える。兵学の即物的な視点は学問の基調となっている。それを前提に儒学の宇宙観(生成論)・心性論・治国論を取り入れ、兵学との結合を試みた。『武教本論』や『原源発機』に盛り込まれた宇宙観は、兵学的な視点から再構成した儒学的な宇宙論であるが、儒学的な宇宙論が素行に完全に受け入れたわけではない。これが故に、素行は、有形・無形の視点から世界を捉え直し、兵学の即物的な事物の見方と一部の儒学的宇宙観と融合し、「三重六物伝」を考案した。この有形・無形は鬼神とも関わる概念で、広義な意味での神道からの影響だと私は理解する。
 素行学における儒・神・兵は、複雑に絡み合って、相互牽制し合い協力し合いの関係にあり、「応変」によって比重が異なる。時には儒学が主張され、時には兵学が多く用いられる。また時には神への祭祀が強く意識される。従って、実践において有効性を発揮するように、三者は相互補完する。
 勿論、素行は、最終的に「誠」によって儒・神・兵の統合をはかろうとしたが、「万事無善悪、能用則万事善」を基底とする「誠」は普遍的な規範性・道徳性を持てないため、倫理的であっても主観性を免れないが故に、実際三者を統合できないままに素行の死を迎え、「誠」の構想も終止符を打たれた。これは、思潮的にやがて倫理道徳を重視する仁斎学と、「先王の術」を強調する徂徠学に分かれて受け継がれていく。
 そして、信政の学問思想を織り成す兵学・儒学・神道の関係と比重は、素行より明確で簡単である。信政の思想の根幹は、兵学である。その上に、儒学と神道が並存し、兵学的治国を支援する。儒学は主に兵学と共に、知的な「教」に用いられるに対して、神道はテクニカルな「教」として利用され、人心を安定させる。
 また、素行学の形成過程を追い、信政と比較することによって、素行学のもう一つの特徴と信政における政治思想の在り方を突き止めた。素行は、宇宙論の前に心性論と治国論を完成した。つまり、素行の治国論は、宇宙論への依拠度が低く、随時そこから離脱できる完結性を持っている。「大星伝」、「三重六物伝」、『原源発機』は、氏長のように順序を決めずに伝えられるのは、かかる素行学の特質を物語る。素行学からも吉川神道からも最高秘伝を受けた信政が、宇宙論を構築しないまま、自らの政治学を形成させたのは、素行学の形成過程と大いに関係があると思う。素行が宇宙論を経由せず治国論を樹立したので、信政は素行学を摂取する際に、宇宙論と治国論をセットにして同時に受け入れる必要がなかった。それがゆえに、彼は素行の治国論に深く影響されつつ、神道的な生成論の受容ができた。従って、政治家の治国論は、思想性の薄い脆弱なものと言わざるを得ない。
 近世日本思想における儒学・神道・兵学の関係は、徂徠学以前に儒・神・兵が相互補完的な関係にあったが、それ以降は三者の比重とバランスが変わり、兵学の力が圧倒的に強く、思想の普遍性を喪失した儒学が日常道徳として矮小化し、祭祀神道が兵と癒着するという兵学・神道が中心となる思想模様と変化していった。なお素行と信政に見られる思想の相違は、このよう儒学・神道・兵学の関係の流れの前兆として理解するのみならず、領主思想において儒学が近世初期から日常道徳としてしか受け止められていなかった実態を反映する。
 また、儒学・神道・兵学の関係が変化していく中に、「兵」や「武」にまつわる複合的な意味も徐々に変色していく。素行や信政のような多義的な「兵」や「武」は、「日本型華夷」観や対外危機意識のもとで、「武威」―暴力的な性格が全面に誇張される方向へ転回していった。兵学的な即物思考を底流とする実学の一部は、武力を自国の美徳と昇華し、神を通じて権力との一体化を図った。このように普遍性を失った「武」は、武士のアイデンティティから、国家のアイデンティティに変形し宣揚されていった道程をたどる。

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