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博士論文要旨

論文題目:近代上海における公衆衛生事業の展開―伝染病対策を中心に―
著者:福士 由紀 (FUKUSHI, Yuki)
博士号取得年月日:2007年11月27日

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1.課題と視角
 本論文は、近代上海における公衆衛生事業の展開を、コレラをはじめとする伝染病への対応を主たる素材として検討するものである。
 本論文において主として実証される検討対象は以下の二点である。第一点目は近代上海における公衆衛生の制度化・行政化の経緯と展開のあり方である。国家や公的機関が、疾病対策や清潔の維持といった事柄を担う公衆衛生制度は、19世紀以降、ヨーロッパ社会において都市化の進展に伴う衛生問題、貿易・交通の活発化による伝染病の伝播を背景として確立されていった。ヨーロッパ社会を起源とするこの公衆衛生行政は、アジア諸国・諸地域においても、19世紀後半以降、あるいは近代国家建設の過程で「文明化」「近代化」のための必須要件として取り入れられ、またあるいは植民地権力によって移植・導入されることで取り入れられてきた。本論文では近代上海における公衆衛生事業の制度化・行政化の展開を検討することで、中国の都市社会への公衆衛生制度という近代的要素の導入・受容のあり方の一側面を明らかにすることを試みる。本論文の検討課題の第二点目は、公衆衛生事業の制度化・行政化が都市社会にどのような影響をもたらしたのかを明らかにすることである。公衆衛生事業は、ヒトの身体や生活、行動に直接的間接的に関与するという性格を持つものである。故に、国家や公的機関による公衆衛生行政の実施は、これらによるヒトや社会の管理・把握という問題と大きく関与するものと考えられる。本論文では、近代上海における公衆衛生事業・行政の実態を、コレラをはじめとする伝染病対策を事例として検討することで、上海という都市社会における国家―社会―個人関係の歴史的展開の一側面を明らかにすることを試みる。
本論文の舞台となる上海は、南京条約による開港以後、1845年にイギリス租界(1863年にアメリカ租界と合併し共同租界となる)、1849年にフランス租界が設置され、中国人による行政地域である華界も含め、一都市が行政上3つに分断されていた。伝染病の防止をはじめとする公衆衛生事業は、両租界では19世紀末以来それぞれの衛生行政当局が担っていた。これに対し華界では、1926年淞滬商埠衛生局の設立と、これを下敷きとし翌年成立した上海特別市衛生局によって専門的な公衆衛生行政が展開されはじめるが、これ以前には、市政機関によって、あるいは警察行政によって初歩的な公衆衛生事業が行われていた。更にこうした行政主体による公衆衛生事業と並存する形で租界、華界の両方で慈善団体等による公衆衛生事業も行われていた。また1937年の八一三事変勃発以後には、上海は租界を除いて日本の占領下におかれ、公衆衛生行政においても日本の影響力が強まった。1945年の終戦を迎え、上海では国民党上海市政府の下、初めて中国人自身の手による一元的な市政が行われることとなるが、間もなく国共内戦が勃発し、1949年5月、共産党により「解放」されることとなる。
以上のように、近代期の上海の公衆衛生事業・行政の大きな特徴の一つは、その担い手の多様性にある。従来、近代上海の公衆衛生を扱った歴史研究では、これら多様な担い手間の関係が意識的に検討されることはほとんどなかった。しかし、本論文の検討対象となる上海は、1842年の開港以後、アジアの重要な貿易港の一つ、国内外の交通の要衝として発展する一方で、ヒトやモノの流出入の激化、都市化、居住環境問題などの様々な原因から、各種の伝染病が流行しており、上海という都市の運営・統治に関わる人々や住民はもちろんのこと、経済的・交通的・政治的に上海と密接に関わる国内外の諸機関にとってもこれは重要な問題として認識されていた。このため内外の諸要素の思惑が複雑に絡み合って、上海という都市の公衆衛生事業が展開されていくこととなる。こうしたありようは、独り上海のみの特徴というよりは、近代中国のおかれた状況の縮図ともいえる。したがって上海における公衆衛生事業の実態を検討することによってこれら複雑な諸要素の関係性を解きほぐしていくことは、単に上海という近代都市社会のありようの一端を照射するにとどまらず、近代中国が如何に公衆衛生という近代的要素を取り入れ、如何に定着させていったかというより大きな問題を解明する手がかりをも提供することになると考えられる。本論文では、1860年代から1950年代初めという長期的な時間軸を設け、上述の様々な公衆衛生事業の担い手の相互関係・協調・対立、制度上の連続と断絶、という側面に着目することにより、近代上海の公衆衛生事業の展開の歴史をより立体的、重層的な視点から分析していく。

2.各章の概要
 第一章では、19世紀半ばから20世紀初頭の共同租界における公衆衛生行政の展開について検討した。1842年、南京条約による開港以後、上海には医療宣教師による病院や診療所の設立を通して急速に近代医学がもたらされた。公衆衛生行政機関もまた、開港以後、租界の設置に伴って設立されたが、その活動内容・組織形態は、租界の拡大・発展に従って拡大・整備されていった。こうした変化は、租界在住の外国人自身の行政に対する意識の変化、1880年代以降は細菌学説の定着により疾病予防・治療の方法が明確化したこと、イギリス本国の政策との連動性によるものと考えられる。公衆衛生行政の範囲の拡大に伴い、これを実施する組織もまた整備された。共同租界では1897年、工部局の中に専門的公衆衛生行政機関である衛生処が設けられ、またその活動内容・予算・組織を審議する衛生委員会も設置された。こうして20世紀初頭には、租界の公衆衛生行政はより組織的に実施されるようになったが、それは時として強制力を伴うものであり、四明公所事件や1910-11年のペスト騒動に見られるように、中国人社会や華界との間での衝突が発生することもあった。そしてこうした経験は、租界・華界双方のその後の公衆衛生行政に影響することとなった。
第二章では、20世紀はじめから1920年代前半までの上海華界における公衆衛生事業の制度化の過程について検討した。20世紀初頭、清朝政府は、列強による占領地での公衆衛生行政から刺激を受け、自身の公衆衛生事業の制度化に着手しはじめた。清朝政府は、日本をモデルとした警察行政の一環として衛生行政を行う衛生警察制度を採用した。辛亥革命を経て、中華民国が樹立されると、中華民国北京政府もまた、この衛生警察制度を継承した。こうした中央での制度化を受け、上海では、1905年、巡警が設立され、警察行政の一環として衛生行政が行われたが、これと前後して設立された地方自治機構によっても衛生行政は行われていた。すなわち、公衆衛生行政は、警察機構、地方自治機構の双方によって担われていたが、両者の関係は対立的なものではなく、伝染病の流行など有事の際には協同しての活動も行われていた。中華民国期に入っても、警察、市政機関双方による衛生行政というあり方は、基本的には継続された。民国初頭の市政機関による公衆衛生行政は、環境衛生を主としたものであり、それは租界の存在や外国人からの視線を意識してのものであった。また公的な医療サービスは民間の医院や慈善団体によって行われていたが、これらの医院、慈善団体は、華界市政に関わっていた商紳が大きく関与するものでもあった。しかし、このような多様な主体による公衆衛生行政は、他国からすると、不十分なものとしてとらえられていた。こうした中、1920年代前半になると、地方自治再開に伴い設立された市政機関である上海市公所の下、従来の地域、機構によって個々に行われていた公衆衛生行政の連携の模索や、拡大する都市の衛生問題に対応すべく衛生試験所などの建設がはじめられたが、華界の公衆衛生行政の本格的な統一は、この後、1926年軍閥孫伝芳による淞滬商埠督弁公署下で行われることとなる。
 第三章では、1920年代前半の中国の公衆衛生をめぐる国際環境と、上海華界での公衆衛生事業の制度化の進展の関わりについて検討した。1920年代前半、第一次世界大戦の経験および戦後の社会的変化から、それ以前に主としてヨーロッパ諸国間で締結されていた「国際衛生条約(1912年)」の改正の必要性が叫ばれるようになり、国際衛生会議と国際連盟を中心として、この改正への準備が行われた。「国際衛生条約(1912年)」は、基本的には東から西への伝染病の伝播を防ぐことを目的に制定されたものであり、検疫に関して東アジア諸国の抱える問題に対応するものではなかったため、この改正の議論を機に、日本は国際連盟において、アジアにも適応可能な「国際衛生条約」案を作成すること、そのためにまず東アジアの衛生状態を調査することを提案し、これが実現された。調査者となったノーマン・ホワイトは、調査後、東アジア諸国にも適応可能な国際衛生条約案(ホワイト案)を提出したが、その特徴は、東アジアの各港を、その防疫施設の整備具合によって等級づけるというものであった。ホワイトによるこの提案は、1926年に調印された「国際衛生条約(1926年)」に緩和された形で反映されるにとどまった。しかしこのホワイト案による港の等級付けというアイディアは、開港都市上海の衛生事業に少なからぬ影響を与えた。すなわち、このホワイト案が実施された場合、上海が最下級港に位置づけられるのではないか、という危機感が、租界衛生当局や中国人有力者の間に広まり、これを避けるべく租界・華界・海関が協力して衛生調査・情報収集を行おうとする機運が高まったのである。この動きは、中国という国家を介在させず、地域社会が直接国際的要請に応えようとした点が特徴的であったが、1925年春以降の上海における社会的政治的混乱は、この実現を許さなかった。しかし、このような1920年代前半の公衆衛生をめぐる国際環境の変化、中国人有力者の間での問題意識の共有は、華界における公衆衛生事業の制度化の一因となった。軍閥孫伝芳支配下の上海では、1926年8月、それまで華界の各域に個別に存在していた衛生行政を担当する機関を統一した淞滬商埠衛生局が設立された。この機関は、専門知識を持つ人材を招聘し、租界の公衆衛生行政制度を参考に、租界との協力の下に、衛生行政を展開しようとするものであったが、孫伝芳の軍事的敗北により活動期間はわずか7ヶ月と短命であった。しかし、この淞滬商埠衛生局は、制度面において、後の南京国民政府下の上海特別市政府衛生局の下敷きとなるものであった。
 第四章では、南京国民政府治下の上海特別市政府における公衆衛生行政の整備状況と公衆衛生行政の実態について検討した。1927年7月、南京国民政府の樹立にともない、設立された上海特別市衛生局は、淞滬商埠衛生局をプランニングした胡鴻基が改めて局長のポストについたことから、その組織機構の面では淞滬商埠衛生局との類似性・連続性が確認できる。しかし他方で、淞滬商埠衛生局の特徴の一つであった民間の地域有力者や専門家の協力を取り付けるための衛生委員会制度は、上海特別市衛生局においては、地区レベルに縮小された形となっていた。また衛生行政と警察行政との関係においても、淞滬衛生局時代は未分離であったものが、上海特別市衛生局では、一定程度分離したものとして構成されていた。南京国民政府は、上海をはじめとする諸都市での1920年代前半の衛生行政の制度化の進展を下敷きとして、全国を網羅する地方衛生行政制度を打ち立てた。南京国民政府による衛生行政の整備は、衛生行政を整備することで、中国の国際的地位の向上を図ろうとする「衛生救国」論と、個々人の健康・衛生が中国の強国化に結びつくという「衛生強国」論とを基礎としたものであった。「衛生救国」を実現するための方法の特徴の一つは、国際基準に対する強い意識であった。1920年代、公衆衛生の国際化が進展し、様々な面で国際基準が形成された。南京国民政府は自らの衛生行政をこれに合致するようデザインすることで、それまでしばしば列国の干渉を受けていた状態を改修しようとした。すなわち、公衆衛生行政の整備はナショナリズムと深く結びついて展開され、南京国民政府は、検疫権の回収の実現に見られるように、これを国際連盟との関わりの中で実現しようとした。また、南京国民政府下の上海特別市政府では、個々人の健康・衛生が中国の強国化につながるとする「衛生強国」論を基礎として、公衆衛生行政が行われ、実際の活動においては、これは、行政側から民衆への教育と強制という形で現れた。上海特別市衛生局以前の衛生行政機関と比べて、上海特別市衛生局の行う公衆衛生行政は、より広範なものであり、民衆生活への行政の関与はより強力なものとなっていった。それは中央・地方ともに個々人とその集合体である社会が、強い国家の建設のための基本要素だという共通認識を持っていたためと考えられる。
第五章では、1930年代の上海で展開されたコレラ撲滅運動について検討した。1930年代、国際連盟は、南京国民政府の衛生行政に対して協力援助を行ったが、その援助項目の一つとして上海におけるコレラ撲滅運動があった。上海におけるコレラ撲滅運動は、上海特別市政府、共同租界、フランス租界の三衛生当局が連携して行うという、それまでの上海史上前例を見ないものであった。これが実現された要因は様々であった。国際的要因としては、1920年代後半の国際連盟のアジアへの関心と、北京政府以来のライヒマンによる中国への働きかけ、南京国民政府成立以後の国際連盟と中国との関係の密接化、国内的要因としては、五三〇運動以来の反英・反租界運動の盛り上がりに加え、行政として公衆衛生事業を行う中国側機関の設立と、そのナショナリスティックな性格などがあげられる。これらが積み重なり、関連しあって、三当局間の連携が実現されたが、その内情は、中国・ライヒマンによる批判に晒されていた共同租界が、コレラ予防方法への認識の相違がありながらも、譲歩する形での連携であった。連携にあたって、三当局が協同して採用した予防方法は、コレラ予防注射の大規模な実施を中心とするものであり、この方向性の決定には、ライヒマンら国際連盟からの代表が大きく関与した。コレラ撲滅運動の中心機関として中央コレラ局が設立されたが、これは国民政府と上海特別市、共同租界、フランス租界との共同出資によるものであり、その所属が曖昧であったことは興味深い。この曖昧性は、潜在的に対立関係にある租界と南京国民政府とが、国際連盟という一見中立的な組織を媒介として連携するための必要条件であったとも考えられる。このように国際連盟を間に挟み連携するという戦略は、国家建設途上にあった南京国民政府の、外交と内政の間に存在する租界問題への対応の一つであったともいえよう。
なおコレラ撲滅運動の中心的手段であったコレラ予防注射の実施においては、共同租界と上海特別市政府とでは、そのスタンスに大きな相違が見られた。これはそれぞれのコレラ予防方法への認識と、それぞれの行政区内での制度上の相異に基づくものであった。コレラ予防注射の実施は、とりわけ上海特別市による棚戸への対応に見られたように、公衆衛生行政による個人身体の管理の強化という側面を持つ反面、伝染病予防を通じて公衆衛生行政と個人の関わりを密接にし、上海市民に公衆衛生観念・疾病予防意識を植え付け、行政による伝染病対策に対する一種の信頼性を増幅させるという側面を持つものであったとも考えられる。こうした観点から、上海特別市衛生局と共同租界工部局衛生処との公衆衛生行政のあり方を見てみると、市民個々に対する管理・把握の志向性の差異が明らかとなる。上海特別市においては、公衆衛生は個人と社会・国家とを接合させるものとして認識され、国家の基礎である個人に対する衛生措置が重視され、結果として、行政によって比較的強い個人への関わり方がなされたのに対し、共同租界では中国人社会、居民への強い介入の傾向は見られなかった。
 第六章では、日中戦争期上海における公衆衛生行政の展開について検討した。1937年11月の上海での日本軍と国民党軍との交戦終結以後、上海の権力構造は複雑に変化した。上海特別市および租界の一部は日本の占領下に置かれた。日本軍は、占領地域の統治機構として1937年12月に大道市政府、1938年4月に督弁上海市公署、1938年10月に上海特別市政府という一連の対日協力政権を樹立した。衛生行政機関としては、両租界には各衛生当局が存在し、華界では大道政府期には医療衛生施設の管理は社会局、その他の公衆衛生事業は警察局衛生科が担い、上海特別市期には1938年から41年までは警察局が、そして1941年3月上海特別市政府内に新たに衛生局が設けられ、衛生行政を担当するものとされた。日中戦争期の上海では、これら当局による衛生行政に対する日本の影響が色濃く見られた。とりわけ防疫行政は、それが占領地域の秩序維持、支配の正統性に関わることから、日本軍によって重要視された。1937年のコレラの流行を契機として、日本軍の提唱により上海防疫委員会が組織され、大規模なコレラ予防運動が展開されることとなった。上海防疫委員会には、日本の医療組織である同仁会が大きく関わっており、防疫に関する政策立案、人材供給、物資供給など、ソフト・ハード両面で大きな役割を果たしていた。上海防疫委員会が打ち出したコレラ予防運動の中心は、コレラ予防注射の大規模な実施であったが、これは、予防注射証明書の発行・検査を特徴とするものであり、間接的に個々の市民に対して注射を強制するという性格を持つものであった。しかし、他方で上海社会では、証明書の偽造や密売などが横行しており、これは強権的な政策に対する、民衆による消極的抵抗とも考えられる。1942年以後には、保甲制度や食糧配給制度とコレラ予防注射とを関連づけることにより、市民の大部分に予防注射が実施されていった。保甲制度は、コレラ予防注射のみならず、防疫スタッフの供給や、日常の環境衛生など広範な公衆衛生事業に利用された。
 第七章では、戦後上海市政府による公衆衛生行政の再編を伝染病への対応を事例として検討し、更に建国初期の共産党上海市人民政府の公衆衛生行政についても概観した。戦後上海では、1945年コレラの流行の中で公衆衛生行政の再編が進められた。上海市衛生局は、戦中の租界の消滅による行政範囲の拡大、戦中に内遷していた人口の帰還に伴う人口増のため、戦前に比べ、より大規模な伝染病対策を行う必要に迫られていた。このため上海市衛生局は、戦中に同仁会が設立した華中中央防疫処を接収し、これを利用して大量のワクチンを製造して市民に供給しようとした。しかし、国民政府は上海市による使用を認めず、華中中央防疫処を中央行政機関である衛生署の所管とし、ワクチンの製造供給も、中央が管理するものとした。ここからは、戦前に比べ、より中央集権的な全国衛生行政体系を再編しようとする中央の意向と、実際の伝染病の流行への対応の中で生まれる地方の要望との間に齟齬があったことが看取できる。また戦後上海市衛生局は、戦後の各種の伝染病への対策協議機関として上海市防疫委員会を組織した。上海市防疫委員会は、上海市衛生局と市内の医療機関および経済界とによって構成されていた。経済界の取り込みは、衛生行政財政の困窮を反映したものであり、上海社会からの寄付金の取り付けが期待されていた。また、戦後上海社会でも、日中戦争期と同様に、伝染病対策の具体的施策を社会へ普及させるチャネルとして保甲制度が利用された。1945年末から46年はじめにかけて、保甲制度が再編されたが、戦後の保甲制度は、公衆衛生の面では、日中戦争期のそれに比べ保甲長の指導役割が協調されていたのが特徴的であった。このように戦後上海では、防疫の際の対応ルートの制度化は進展していたものの、行政側がデザインした防疫の諸施策に市民が呼応しないという問題が生じていた。とりわけ衛生インフラや衛生施設・物資の整備面における不十分さから、市民の間には上海市政府による衛生行政への不信感が醸成されていたのである。
1949年5月に樹立された共産党上海市人民政府は、それ以前の国民党上海市政府を接収、再編したが、その際の特徴の一つは、医療衛生人員の大規模な増員であった。これは共産党政府が、中国医学の医師をも衛生行政の体系へ組み込んだことと関係するものと考えられる。また、建国初期には、民衆を動員した大規模な衛生運動が行われ、その過程で、衛生行政の受け皿となる組織の編成が行われ、これを通して社会の隅々まで衛生行政を普及することが目指されていた。これはまた、新たな中国の政権として、社会の隅々まで統治を貫徹させようとする共産党の有力な政策の一つでもあったと考えられる。
 終章では、以上の各章の内容をまとめ、①近代上海の公衆衛生事業の制度化・行政化の歴史的展開にとって特徴的要素である租界・国際社会の役割やその華界との関係性、②公衆衛生行政の展開から見た近代上海の国家―社会―個人関係の歴史的展開、特に南京国民政府以降、公衆衛生行政が統治主体と社会・個人とを取り結ぶ重要なツールとされたこと、および統治主体が公衆衛生行政を住民へ普及させるためのチャネルは日中戦争期に一定程度整備され、戦後内戦期・建国初期にもこれは基礎として継承されたことなどを本論文の成果として述べた。

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