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博士論文要旨

論文題目:日本における「公害・環境教育」の成立 -教育実践/運動/理論の分析を通して-
著者:曽 貧 (ZENG, Pin)
博士号取得年月日:2007年3月23日

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1) 問題の設定
本論文は、日本において1960年代以降展開された「公害・環境教育」運動に対し環境教育成立史という視角から接近し、そのきわめてユニークな教育経験のプロセスと意義を明らかにすることを目的としている。
 公害問題を「都市化工業化にともなって大量の汚染物の発生や集積の不利益が予想される段階において、生産関係に規定され、企業が利潤追及のために環境保全や安全の費用を節約し、大量消費生活様式を普及し、国家(自治体を含む)が公害防止の政策をおこたり、環境保全の支出を十分におこなわぬ結果として生ずる、自然および生活環境の侵害であって、それによって人の健康障害または生活困難が生ずる社会的災害」(宮本憲一、1989)と定義すれば、それにかかわる被害は、『地球環境運動全史』の著者マコーミック(1998)が描いているように、1950年代半ばから70年代にかけて、世界の他のどこにおいてより、日本において集中的かつ徹底的に現れた。日本各地で噴出した公害問題や地域開発にかかわる諸問題に対しては、「住民運動」と呼ばれる運動がそれぞれの地域で展開され、被害の告発から開発の差し止め、さらにはよりよい地方行政の確立やそのための市民参加・革新自治体の創設まで、様々な運動が繰り広げられるのだが、そうした各地の運動のなかには必ずといってよいほど教師たちの姿があった。すなわち、彼(女)ら教師たちは、自ら公害問題等の解決のための当事者として行動しつつ、同時にその行動の過程で学びとったそれらの諸問題の現実を自分自身たちの手で教材としてまとめあげ、様々な教育方法上の工夫を懲らして教育実践を行っていったのだった。本論文で研究の対象に設定するのは、こうした教師たちと彼(女)らを支援した研究者たちによる運動である。筆者はその運動を「公害・環境教育」運動と名づけ、とりわけ1960年代半ばから70年代にかけてのその運動の展開と到達点を考察するとともに、その運動の担い手がどのような思想をもってどのように行動し、どのような質を有する教育実践を行ったのか、を彼の生活史にまで踏み込んで分析したいと考える。それによって、これまでほとんど明らかになっていない日本の環境教育成立史の一端を明らかにすることが本論文の課題である。

2)先行研究の検討
 国際的に見れば、「環境教育」(environmental education)という用語は、「環境革命」の波に洗われた1960年代から70年代の初めにかけて、とりわけ欧米諸国を中心に用いられ始め、環境教育研究ないし環境教育学もほぼその頃から世界各地で進められてきているのだが、これまでのところその歴史的経緯についての研究はあまり盛んではない。日本においても1990年に日本環境教育学会が設立され、環境教育研究の交流を行ってきているが、そこにおいても環境教育の国内外の歴史ついての研究はこれまでほとんどなされてきていない。そうした現状にあって、日本の環境教育の歴史については、1950年代から「自然保護教育」が各地の自然保護運動と結びついて行われ、また1960年代からは「公害教育」がこれまた各地の公害反対運動との連携の下に推進され、それが1980年代半ば以降「環境教育」となり、さらに今日では、これもまた世界の動向を受けて、「持続可能な開発のための教育」(education for sustainable development/ESD)というさらなる統合的な教育概念に向けて進展しつつある、というのが現在の学界の通説的な見解である。だが、これまでのところ「公害教育」については、運動の当事者たちによって描かれた体験をベースとした歴史(例えば、藤岡貞彦[1985]、福島達夫[1993]、等)以外にまとまった研究はない。本論文は、その歴史と意義とを問い直そうとする近年の個別研究(例えば、原子栄一郎[1997]、小川潔[2002]、土井妙子[2002]、他)にも触発されつつ、とりわけ筆者の母国である中華人民共和国における環境教育の現状に対する問題意識に立ち、以下の3及び4で述べるオリジナルな視点にもとづいて研究を進めてきた所産である。

3)「公害・環境教育」という用語の選択について
 これまで、「公害教育(運動)」という概念の下で議論されることの多かった研究対象を、本論文においてあえて運動の当事者たちが厳密な検討を加えることなく用いていた「公害・環境教育」(運動)という用語によってとらえ、分析していくことにしたのには理由がある。
 先述のように、今日日本における環境教育史の通説的な理解は、あえて図式化すれば、「自然保護教育」「公害教育」→「環境教育」→「ESD」とするものである。だが、しばしばそのように位置づけられる「公害教育」という概念の今日的な使用には、危険が潜んでいると考えられる。即ち、「公害教育」という言葉を用いたとたん、それはすでにその歴史的使命を負えており、いまや「環境教育」ないし「ESD」の時代であるとする一般的な理解が存在することである。それは「公害教育」と「環境教育」ないし「ESD」とを切断し、前者を古いものとして切り捨てるスタンスと言ってよい。言うまでもなく、その根っこには加害者による違法行為によってつくりだされた環境被害としての公害問題という問題構造は既に過去のものであり、人間と自然/環境との関係性そのものこそがいまや問われねばならないのだ、という問題認識が存在している。
 だが、そのような意味で「公害教育」と「環境教育」とを切断する思考は、二重の意味で誤りであると筆者は考える。
 第一に、水俣病やアスベスト問題をとりあげるまでもなく、今日でも厳然として公害問題は日本社会に存在しており、その加害-被害の関係が司法の場で争われているという事実があることである。いまでも日本の教師たちのなかには「公害教育」に真剣に取り組んでいる人々が存在している。
 第二に、「公害教育」と「環境教育」とを切断する思考は、「公害教育」と「環境教育」とが実態として区分できるという発想に立っている。だが、本論文第2部が明らかにするように日本の「公害教育」の歴史は当初から「環境教育」的な取り組みを含んで展開してきている。本論文第3部で対象とする西岡昭夫などは、ある意味では当初から「公害教育」の発想に立って「環境教育」的な問題領域をも含み込んだ市民形成の教育を行ってきた教師であった、と言ってよい。
 飯島伸子が、「欧米と日本とでは、環境問題の実態が、歴史的に見た場合に著しく異なる面を有して」おり、「(「環境運動」という)『翻訳』概念を(「反公害運動」という)日本の現実に当てはめようとする」営みの困難さを語りながら、沼津・三島の運動を「被害予防的な反公害住民運動;日本的新環境運動の嚆矢」と形容したときのある種のためらい(飯島、1995)を筆者もまた共有せざるをえないが、にもかかわらず「公害教育」と「環境教育」とをあえて別物とせず、日本社会の公害・環境問題の実態に即して運動の担い手たちが自らの教育的課題を語っていた「公害・環境教育」という用語のほうが、これから本論文で分析する対象については実態を形容しやすいのではないかと考え、あえて用いることにした次第である。それは、「公害教育」から「環境教育」へという形で眺められてきた日本環境教育成立史を問いなおす方法装置としても一定程度有効であると考える。

4)本論文の課題
 本論文では、日本における「公害・環境教育」の成立を、次のような3つの課題意識をもって明らかにしていく。
 第一に、今日の中国と日本における環境教育を取り巻く状況を明らかにすることである。中国と日本とでは環境教育が成立してくる文脈は大いに異なっている。だが、環境教育の主体として国家の役割が大きくなり、その結果としてとりわけ学校における環境教育のあり方がきわめて形式的・部分的になってきているという状況については合い重なるところが多い。こうした中国と日本の環境教育を取り巻く現状、とりわけそれをめぐる政策動向を考察することによって、あらためて日本における「公害・環境教育」の成立研究の意義を検討する。
 第二に、「公害・環境教育」運動とはいかなる運動であったのかを明らかにするとともに、とりわけそれを支えた組織のネットワークとそこを土台としてなされた教育理論の彫琢過程とを跡づけることである。ここでは、まず1960年代に展開された初期の「公害・環境教育」実践を3つの類型に分類して西岡昭夫の仕事の位置づけを明らかにし、さらに1971年頃に成立するこの運動を支えた国民教育研究所-日教組全国教育研究集会-<公害と教育>研究会という三者のネットワークを考察する。そのうえで、1970年代の「公害・環境教育」実践の動向とそれにもとづいてなされた「公害・環境教育」の理論化の動向を明らかにする。
 第三に、「戦後日本の住民運動発展の舞台の幕をきっておとした」(宮本憲一、1978)沼津・三島・清水2市1町の石油コンビナート反対運動(1963-64年)における「公害・環境教育」運動の中心的な担い手であった西岡昭夫の生活史を追いかけることによって、彼の「地域実践」(住民運動へのコミットメント)と「教育実践」との全体構造を明らかにすることである。
 以上に述べてきた「公害・環境教育」という用語の選択、及び上記の3つの課題意識は、これまでの先行研究にはない本論文のオリジナルな視角であると考えている。

5)研究の方法と資料
 以上の課題意識にもとづく「公害・環境教育」の成立過程の研究は、何よりもこの運動と担い手である西岡昭夫に関する諸資料を丹念に読み解くことによってのみ可能となる。運動そのものについてはその中心的な担い手であった藤岡貞彦が所蔵する大量の資料を用いている。また、西岡昭夫についてはこれも本人が所有する膨大な資料を閲覧し、利用させていただいた。さらに、西岡に対しては1999年から2004年にかけて7度にわたりインタビューさせていただいている。本稿においてそのインタビュー結果そのものからの引用は必ずしも多くはないが、西岡の考え方や行動スタイルを理解するうえでこの作業は何よりも有効であった。

6)構成
 本論文の構成は、以下の通りである。
 第1部「中国と日本における環境教育の現状;『主体』の問題を中心に」では、中国と日本の環境教育の現状をとりわけその「主体」の問題を中心に考察していく。
 第1章「現代中国における環境教育;国家から民衆への主体の転換は可能か?」では、まず中国における環境教育政策の成立過程とその政策をめぐる矛盾とを分析し、さらに近年の新たな環境運動の分析から「環境権の主体から環境教育の主体へ」と民衆が発展を遂げていく可能性について論じている。
 第2章「日本における環境教育の主体;その現在から過去へ」においては、とりわけ2000年代に入って以降の政策化される日本の環境教育の動向について整理する。そのうえであらためて「公害・環境教育」の成立過程を分析することの意義について考察する。
 第2部「『公害・環境教育』の成立・1;実践の模索から全国的ネットワークへ」は、「公害・環境教育」の運動の全体構造について検討する。
 第3章「『公害・環境教育』運動の誕生」では、草創期の「公害・環境教育」実践を3つの類型に分け、それぞれの特徴を分析していく。そのうえで、「公害・環境教育」研究の組織化がどのようになされたのかを考察していく。
 第4章「『公害・環境教育』運動の展開」では、「公害・環境教育」実践の展開、「公害・環境教育」運動における「自然学習」の位置、「公害・環境教育」の理論、「公害・環境教育」運動の到達点、そして転換期としての1980年代について、それぞれ順を追って検討していく。
 第3部「『公害・環境教育』の成立・2;西岡昭夫を対象として」では、静岡県沼津市の高校教師であった西岡昭夫を対象として、「公害・環境教育」の思想と実践がどのように展開していったのかを見ていく。
 第5章「西岡昭夫における『公害・環境教育』の誕生」では、西岡における「公害・環境教育」の生成過程」を検討していく。
 第6章「『公害・環境教育』実践における教育目標づくり;静岡県立三島北高校物理クラブ(1966-1981)の活動を中心に」では、まず物理クラブ活動における教育経験を検討し、つづいて目標づくりの構造と「参加」の質を考察し、最後にクラブ活動への評価とその基準について吟味してみることにする。
 最後に「終章 結論と今後の課題」で結論と今後の課題を述べる。

7)結論
 日本公害史研究が明らかにしているように、日本の近代化の過程にあっては、足尾銅山の鉱毒事件をはじめとして、数多くの公害問題が引き起こされてきた。だが、それらの事実が戦前の日本の学校において子どもたちに教えられたという記録は、管見の限り知られていない。水俣病や四日市の大気汚染が問題となり始めた1950年代半ばから1960年代の初め頃、まだ公害問題に関する文献はほとんど存在せず、「公害」という言葉そのものでさえもまだ十分に人口に膾炙していなかった。だが、今回は、沼津・三島で、四日市で、熊本で、富士で、教師たちが立ち上がり、住民運動に参加し、さらにときにはそれを自ら組織しながら、公害問題や地域開発にかかわる諸問題を科学的に調査し、それを住民たちとの学習会でひとつひとつ確認していったのだった。だが、彼らはそうした地域実践にばかりコミットしていたのではなかった。彼らは教育の専門家として、収集したデータや最新の研究をもとに自ら(ときに共同で)公害問題を学習するための教材を編成し、様々な教育方法上の工夫を凝らして、子どもたちに伝えていったのであった。そこでは、何よりも地域実践と教育実践との統一が求められ、自然科学と社会科学、さらには人文諸科学をも含み込んだ総合学習によって、子どもたちに「環境権」の自覚を得させることが目標とされたのであった。そして、こうした実践と運動と理論づくりとを、国民教育研究所環境と教育委員会―日教組教育研究全国集会「公害と教育」分科会―<公害と教育>研究会という三者のネットワークが支えていたのだった。
 本稿では、こうしたプロセスの全体とその担い手のひとりとしての西岡昭夫の思想と行動を分析するにあたって、「公害・環境教育」という必ずしも熟していない概念をあえて用いてみた。「公害教育」と「環境教育」とは別物であり、前者は後者の前史であって、前者から後者を経てESDへと向かうのが日本の環境教育の発達史なのだとする通説的な見解に対して、この用語を用いて日本環境教育成立史を再検討することによって、「公害教育」と「環境教育」とは決して対立したり、相前後して生成してきたのではなく、前者が土台のうえで後者が展開してきたことが、日本全体の歴史のなかでも、西岡という一人の担い手の歩みのなかでも、確認されたのであった。換言すれば、それは、日本独自の環境被害の構造を見据え自他の生命とそれをとりまく環境との価値を伝えんとする教育思想のうえに、人間と環境とのより豊かな関係を見通しそれを自ら構築していく力を形成する教育思想が、1960年代半ばから70年代半ばの間に形成されたことの確認に他ならない。筆者の指摘する日本における「公害・環境教育」の成立とは、まさにその事態を指していた。言うまでもなく、それは私の祖国である中華人民共和国においてこの数十年の間に環境教育が歩んだ道とは明らかに異なっている。そして、おそらくそれは欧米諸国において同じ時代に展開してきた環境教育の歴史とも異なる、きわめてユニークな経験であったのではないかと推測される。

8)今後の課題
 何よりもまず、西岡昭夫には膨大な時間を割いてインタビューに応じてもらいながら、その思想と行動を必ずしも十分に分析しきることができなかった。彼の1967年に至る歩みの分析によって、その基本的な思想と行動のあり方については理解することができたものと考えている。だが、本章冒頭で記したように、彼の仕事の息は長く、また活動範囲は文字通り全国に及んでいる。そうした彼の足跡全体を視野に修め西岡研究を書き終えたとき、私たちはさらに多くのことを彼から学ぶことができるはずである。
 第2部で分析した「公害・環境教育」運動を支えるネットワークについての分析も、必ずしも十分ではない。教研集会や公害研集会に提出されたレポートそのものをもう少し丁寧に分析することができたならば、よりいっそう精緻に当時の運動の状況を描き出すことができたことだろう。また、「公害・環境教育」の理論についても、同時代の教育研究や公害・環境問題研究の動向とすりあわせることにより、いっそう立体的に描くことができたはずである。以上の研究を推し進めていけば、1980年代半ば以降構築されてきた日本の「環境教育」界を少しは客観的に眺めることもできるようになるはずである。
 以上の作業をふまえたうえで、中国と日本との比較研究をさらに推し進めることができればと考えている。今回は、中国の環境運動に見られる「環境権」意識の覚醒と言うべき事態に注目し、その背後に急激な変貌を遂げる中国社会における新たなセクターとして市民活動のあり方に言及したが、日本との比較において十分展開することができなかった。可能ならば韓国社会をも視野に入れ、東アジアにおける環境教育経験の同質性と異質性との比較研究に進み出たいと考える。

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