博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:戦後日本における国際認識—青年国際交流事業を事例にして—
著者:クリスティン・イングバルスドッティル (INGVARSDOTTIR, Kristin)
博士号取得年月日:2006年7月31日

→審査要旨へ

本論文の概要

 20世紀における各国の社会の著しい変化は、いずれ劣らず非常に興味深いものである。しかし、きわめて大きな変化を遂げた日本社会の変容ぶりは、研究対象として際立った興味を引く。1946年に公布された日本国憲法における民主主義と平和主義、そして国際協力の精神という三原則は、戦後日本社会の思想的基盤となった。これまでの自分の研究では、戦後日本に根付いた平和主義(あるいは反軍国主義)の形成、変化と現状について検討した。博士課程の研究課題としては、時代によって大きく変化してきた国際認識を中心に取り上げたい。日本における国際認識について理解することは、その外交政策や政治・社会、また日本における平等と平和に対する意識を理解するうえでも不可欠であると思われる。そのため、国際交流事業を事例にし、国際認識の発展を描くことを目的とする。
 これまでの研究において、日本人の国際認識に関する統計等を分析し、それをめぐる既存研究は相互に矛盾する結論を持っていたことを明らかにした。量的研究の多くが(筆者の研究も含め)日本人の国際認識の高まりを示すいっぽうで、逆に質的な研究の多くは、これに対してかなり厳しい評価を示している。こうした評価は、特に日本人のアジア認識・アジア観の中にいまだ様々な問題が含まれていることを示している。これまでの研究を通じて、筆者は日本における国際認識に深い関心を持つようになったが、重要なテーマであるにも関わらず、このテーマに関する既存研究は、日本語・英語を問わず非常に限られていることに驚いた。つまり、日本経済と国際化をめぐる文献は非常に多いが、日本社会と国際化を扱う文献は非常に少ないのである。そこで、以下、日本における国際認識と社会の国際化に関する本研究の意義を説明したい。
 まず、日本における国際認識のあり方は、現在に至るまで日本の国際的活動の範囲を限定している。特にアジア近隣諸国において、日本の国際認識のあり方が、日本に関するイメージに悪い影響をもたらしてきたことに起因している。日本の国際認識は、様々な地理的、文化的、歴史的な要素のために、非常に複雑で興味深いものであるとされている。過去に目を向けると、1960年代・70年代における日本経済の海外進出が活発化するまで、日本社会・市場の閉鎖性、及び国際認識のあり方は、あまり注目を集めなかった。ところが、80年代に入ると、日本社会・市場の閉鎖性が外国との複雑な外交問題になっただけでなく、日本の指導者層も、国際化していく世界において生き残るために日本の国際化は不可欠であると主張し始めた。この「外圧」及び国内ニーズのために、国際化は、日本において80年代の中心的なテーマになった。日本社会と日本人を国際化する様々な政策、あるいは国際化戦略に、膨大な予算と労力がつぎ込まれた。この政策規模自体、諸外国では類を見ないものであり、非常に興味深い現象である。日本における国際認識とその歴史的過程は、以上のような興味深い課題を加えて、博士論文で取り扱う中心的な課題となった。
 本研究では、量的及び質的な分析を組み合わせて行う。つまり、大まかな全国的な傾向を描くために量的な分析を行い、また研究対象をより深く理解するために質的な分析を加えるという手法をとる。まず量的研究に関しては、日本の国際化過程に関する出来るだけ多くの統計的な資料を活用し、世論調査などを幅広く分析する。国際認識に関わる調査データ、特に年齢別の調査データは、後で詳しく述べるように、現在にいたるまで十分には分析されていない。つぎに質的研究に関しては、国際認識をより正確に把握するために、次の四つの事例を分析する。つまり、日本に特徴的な国際交流事業の一つである「青年の船」について、政府、九州八県、静岡県による青年の船、そしてピースボートの4つの事例を取り上げる。具体的に言うと、政府「青年の船」、九州八県による「九州青年の船」、静岡県・青年団による「静岡県青年の船」、及びNGO事業であるピースボート。「青年の船」の約40年の歴史を検討することによって、国際化過程と国際認識に関わる具体的な問題あるいは課題を見いだしたい。

本研究の仮説は次の三つである
① 日本社会の閉鎖的性格(つまり国際認識の狭隘さ)は、現在においても批判されるところである。しかし、近年では、世代交代によって望ましい変化が起こりつつある。自由な観光、国際化、インターネット、「アジア・ブーム」の時代に育った若い世代の国際認識(さらにアジア認識)の度合いは、上の世代より高い。
② 1980年代・90年代において、草の根の国際交流が各地で盛んになってきた。一方で中央政府も、それに対してイニシアティブをとったり、資金援助をしたり、情報を提供したりするアクターとして、国際化の発展に重要な役割を果たしてきた。しかし、中央政府の交流活動よりも、市民レベルでの活動のほうが、国際認識の高まり、及び近隣国との関係改善に成果をあげている可能性が高い。
③ 外国との交流経験の拡大によって、国際交流に対する考え方が変わってきた。国際交流の主催者や参加者は、以前の表面的な交流のあり方の代わりに、新しいタイプの国際交流を求めてきている。


結論——主な論点
 
終章では、以上の三つの仮説に基づいて、国際交流の担い手・国際交流の内容・国際認識における変化という順番で、以下の課題について論じる。

国際交流の担い手
 この研究で扱ってきた戦後数十年において、国際交流事業は、政府“独占”から自治体レベルへ、そして自治体から幅広く草の根レベルへ普及してきた。日本政府は1960年代から、国際交流事業のイニシアティブをとって、重要な前例を作り、そして全国各地における様々な国際化・国際交流事業の実施によって、自治体と市民レベルのインフラストラクチャー、あるいは基盤作りへ大きく貢献した。しかし、政府の国際交流政策は、しばしば外圧から生じ、またJETプログラムなどのように、明らかに外交・安全保障政策などに結ばれている例が多いため、日本の国益を重視するものとして見なされることがある。そのため、国際交流の中心的な担い手が、政府から自治体、そして自治体から市民・草の根レベルへ移動していくということは、先行研究においてかなり望ましい傾向として見なされていることを指摘した。
 政府や県による船での国際交流事業には、当初から担当者のイデオロギーが色濃く反映されていた。特に総理府の「青年の船」は、パイオニア的な事業であるため、「青年の船」事業の柱である「規律正しい集団生活」と「国際的視野の拡大」のみならず、その思想的な基盤も、ある程度他の事業の前例となっていたようである。政府の「青年の船」は、「明治百年」記念事業の一環として開始され、最初の大規模な国際交流事業であったこともあり、全国から注目を浴びた。その注目は同時に批判も呼び起こした。そもそも、「明治百年」事業に対しては、歴史学者などによる大きな反対運動が起きており、特にアジア・太平洋戦争における加害者としての責任を無視する歴史観、天皇中心主義、大国としての民族的優越感の植え付けなどの批判点が指摘されていた。「青年の船」の初期におけるあり方を見ると、研修前後のリーダーらによる皇族への報告、船上での毎日の「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱、強い犠牲者意識を示す情緒的な慰霊祭などが散見される。さらに、結団式、2月11日の建国記念日(紀元節)と船上慰霊祭における訓示では、「明治の先輩たち」の祖国に対する愛国心と努力が強調された。「明治の先輩たち」の努力と愛国心は、明らかに日本青年を動員するために使われたのである。
 ジョン・ダワーが指摘するように、戦後日本の保守派の夢は、明治時代の価値観を戻し、伝統的な民族精神と道義を復活させることにあった 。さらに、キャロル・グラックが主張するように、日本政府は、「明治百年」を “ハッピー・エンティング” の近代化の物語・歴史として祝ったが 、その歴史では、アジアへの侵略戦争、及び大日本帝国と天皇中心主義の起こした悲劇は無視された。「青年の船」の初期のあり方を見ると、前述の「明治百年」に対する批判は、ある程度正確であると考えざるを得ない。研修内容は、戦前のナショナリスティックな価値観を反映していたと言えよう。1980年代の終わりには、「青年の船」は大きく見直され、以上のようなナショナリスティックな潮流はなくなる。しかし、ダワーは1980年代の日本人論を、日本の保守派による1968年の明治百年記念事業の思想との連続物として見なしている。つまり、昭和時代の終わりには、日本の保守派(自民党)は、「積極的な国際化による、腐敗に対抗できる伝統的な民族精神」を強調した。ダワーによると、日本政府は国際化政策を促進しながら、戦前の帝国日本における愛国心や公共心の美化をはかった 。船の交流事業では、以上のような傾向も見える。逆に、NGO活動であるピースボートは、以上の事業と大きく異なり、歴史教科書問題への反応として1983年に始まった。ピースボートのクルーズは、現在に至るまで若い人々のボランティア活動と努力に基づいている。「過去の戦争を見つめ、未来の平和を創る」、そして「みんなが主役で船を出す」という原則に基づき、行われてきた。
 「青年の船」の結団式や解団式、そして報告書の内容などにおいて、省庁・自治体の担当者たち、及び高級官僚や大臣は、国際的な視野、国際化、国際性や国際理解などのキャッチフレーズを主張するが、初期において事業のあり方自体は、豊かな国際理解、あるいは国際性を示しているとは言えない。例えば、政府「青年の船」は、第三回から外国人の参加者が多いが、外国青年による多くの感想文は示すように、外国文化への対応力はあまりないようである。つまり、国際化や国際理解をめぐる議論が省庁や自治体に盛んに行われているが、船の国際交流事業は国際理解の良い例であるとは言えない。
 一般に、日本の国際化と国際交流をめぐる議論では、「世界は日本を正しく理解しなければならない」、「日本に対する誤解を正さなければならない」というものが多い。特に、1970・80年代の貿易摩擦が激しかった時期に目立っている。つまり、外国人の日本理解を深めるために、日本文化を海外で紹介することが大事だという考え方である。その上、日本人が国際人になる前提として、「日本を正しく理解し、日本人としての意識を強めなければならない」という主張がよくなされる。日本の指導者たちは、世界について勉強し、国際的なスキルを獲得することの重要性も強調するが、日本政府の国際交流事業を見ると、日本の国際化というよりも、外国人(と日本人)の「日本化」ということのほうが主な目的であるように感じる。これは、JETプログラムでも同様に見られることである。1980年代後半までの船の事業、特に政府「青年の船」では、ほとんどの講義は日本のことを中心とし、クラブ活動も圧倒的に日本の伝統文化のみを紹介する。このやり方に関して、日本人参加者による批判はほとんどないが、外国人青年の感想文では、船の「日本主義」への批判が目立つ。つまり、彼らは船上で、日本のことを幅広く勉強するが、訪問国などについてほとんど勉強しないのである。“一国文化主義”や船のナショナリスティックな雰囲気への外国青年からの批判は、その問題を顕著に示している。日本は世界に誤解されているという考え方は、現在に至るまで幅広く残っている。
 省庁、自治体、市民レベルの国際交流事業のあり方をみる限りは、国際交流事業のウエートは、国益の影響と保守イデオロギーの影響を考えると、政府レベルから、一般市民の身近に移る傾向が望ましいと言える。しかし、その前提にあるのは、一般市民の充実した国際認識・国際理解である。船の各事業を見る限りは、国際認識の面では様々な問題があり、その多くは現在でも残っていると思われる。

国際交流の内容
 論文の前半に示したように、1970年代以降、国際交流事業の数が著しく増加してきた。そして、1980・90年代から、その規模が増大し、対象地域も広がった。この数十年の間で、国際交流に関する様々な大きな変化が起こっている。まず前述のように、交流の担い手に関して、その中心は、政府レベルから自治体、そして自治体から草の根レベルへ普及してきた。言うまでもなく、その変化によって交流機会のある人数が大きく増加してきた。特に1960・70年代において、海外に行ける青年が非常に少なかったために、「青年の船」などの応募者が多く、競争率も高かった。国際交流の中心が、草の根レベルに進んできたことによって、関心ある人々の誰でも交流できる機会が与えられる。要するに、次第に、政府から草の根という動きのみならず、参加者もエリートから一般市民になってきている。
 対象地域・国も、非常に多様化してきた。以前は、米国や地理的に近い東南・東アジア諸国は中心であったが、近年、世界の幅広い地域との交流は行われている。さらに、中国などの近隣諸国のシェアは増大してきた。同時に交流の舞台は、外国に行くことだけではなく、日本国内に外国人を招くという形での事業も行われるようになった。この傾向によって、国際交流は日常生活により近づいてきていると言える。海外への修学旅行、交換留学生システム、JETプログラムなどによって、外国文化に接触する年齢は下がりつつある。
 国際交流事業の内容自体にも変化が起こっている。その種類は大きく多様化しているだけではなく、その公式度は下がり、より双方向的になってきた。そして事業のウエートは、公式的な国際交流スタイルから、発展途上国や環境問題を中心とする国際協力事業へ移りつつある。
 船事業において、「真の国際交流」とは、しばしば登場する表現である。参加青年による「真の国際交流」への要求が次第に高まってきたが、その表現はほとんど、「現地・外国人との接触機会を増やす」、「自由で直接的なコミュニケーション」、「現地研修期間を伸ばす」などの文脈において現れている。その結果として、船の事業において、特に1980年代後半・90年代から「真の国際交流」への変化が行われ、さらに根本的な改編を行った事業もある。その変化は、外国人参加者の増加、現地におけるホームステイやホーム・ビジットの追加、現地研修時間の増加、そして研修において国際問題などをめぐる講義の追加などを含んでいる。この方向に進んでいない事業は、近年、参加者募集に苦労している傾向が見られる。ピースボートの近年の成功と拡大は、事業内容のあり方に基づいていると言えるかもしれない。
 政府「青年の船」の参加者の一人が指摘したように、「国際協力の精神は、お土産交換や写真撮影だけで、獲得・実現できない」 。参加青年や日本人の担当者が、その事実を認識し、船事業に大きな変化をもたらしてきたのである。

国際認識における変化
 国際認識は、多様な文脈において多様な意味で使われるが、この研究において、国際認識の根本的な要素としたものは「自国と他国に対する関心、理解と知識、外国語およびコミュニケーション能力、かつ、国際的な体験」である。論文全体では、この要素を頭の奥底におきながら、議論を進めてきた。この研究を始めた時は、「自国と他国に対する関心、理解と知識」という点をこれほど強く主張するつもりはなかった。しかし、事例を分析していくと、特にアジア人との交流において、戦争と歴史観というのは、中心的な問題となるため、結果的に歴史認識・知識と戦争観はかなりクローズアップされる。
 まず、世論調査に見えるように、日本人は自国の国際化をきわめて積極的に評価し、主に「日本の産業や経済へのよい影響」とつながりがあるようである。しかし、個人生活・社会のレベルでは、影響があまりないようにみえる。外国人との接触は、90年代にはわずかに増えているが、日本人の外国人との交流は基本的に少ない。回答者は、若ければ若いほど、外国人との交流、あるいは、外国での経験を望む人が多い。全般的に、アジア重視の高まりは一つの重要な傾向であると言える。特に中国への関心が最も強い。しかし、それと同時に、日本人は好きな国について聞かれると、ほとんど西洋の国々しか挙げられず、逆に、嫌いな国の場合には近隣諸国が並んでいる。信頼できる国と信頼できない国の場合にも、同じ傾向がみえる。日本人は、自国が世界であまり信頼・評価されていないと思っているが、特に、アジア諸国から嫌われ、信頼・評価されていないという意識が強い。
 日本への意識に関して、ほとんどの日本人が「日本に生まれてよかった」と思っているが、自国への自信と愛国心は、両方とも80年代の半ば以降、弱まりつつある。特に、年齢が低ければ低いほど、愛国心は弱いという印象が強い。世論調査では、「愛国心」および「国への誇り」が重視されたものの、世代によってその程度は異なる。高い年齢層は、国そのものに誇りを持ち、また、強い軍隊、「日の丸」、天皇などの戦前的な価値が残っているようである。若い世代は、日本の治安などを重視する新しいデータと分析をみる限り、若い世代ではナショナリズムが強化している傾向はないようである。全般的に、日本で「自国民であることの誇り」を持っている人々は、国際的に比較しても、目立つほど少ない。2000年の世界価値観の調査では、例えば「自国民であることの誇り」(「非常に感じる」と「かなり感じる」)は約54%を占め、他の60カ国と比較にならないほど少ない 。
 歴史問題に関して、若い世代は戦争問題と戦争の基本知識はあまりないが、戦争への評価と戦後処理問題への態度は、どちらかと言えば上の世代より、アジア諸国に近いような歴史認識を示している。先の戦争の誤りを学びたいと答えた人が若い世代で多い。一般に、戦争への評価、及び、戦争のあり方への判断などの場合には、「わからない」と答えた率の高さが目立つ。他方では、「自由主義史観研究会」などの動きによって、青年の歴史観において右翼化が進んでいるようである。例えば、『朝日新聞』による2004年の世論調査は、小泉首相の靖国神社参拝への支持は、特に若者で高まりつつあることを示している 。現在、若者の閉塞感がナショナリズムに向かわせているという議論も登場してきた。歴史問題に関しては、世論が時期によって大きく揺れるようである。要するに、終戦から60年たっても、戦争への評価は非常に分かれている。

 次に実際の国際交流において、どのような国際認識が現れるのか、また、どのような現実問題や変化が見えるのかを見てみよう。まず、各事業に参加する青年の共通点として、国際経験の乏しさを挙げられる。特に初期においてそうであるが、最近でもこの事業によって初めて海外に行く人が多い。ただし青年の海外経験の有無は、船によって当然異なる。船事業への参加は、特に初めて海外に行く青年たちにとって、大きな刺激になり、そして印象にのこる経験となる。しかし、同時に自分の勉強不足や従来の視野の狭さを認識すると、ショックを受ける青年も多い。実は、どの事業でも、各報告書・感想文に最も頻繁に現れる表現は勉強不足であろう。勉強不足というのは、外国・訪問地への知識のみならず、自分の国、その歴史と文化への知識の無さのことである。しかし、その発見は、もっと勉強する決心につながり、積極的な意識変化をもたらすと言えよう。
 船の場合には、「勉強不足」の気持ちを起こさせる要素があると思われる。まず、アジア諸国の青年は、独立などを経て愛国心は非常に強い。そして、彼らはアジアの代表的な先進国である日本のことを良く知っており、日本語を話せる人も少なくない。それに対して、日本人にとって、訪問するアジア諸国はほとんど「未知の国」であり、また日本語以外の言葉を話せずにとまどう青年が多い。勉強熱心で日本に非常に関心あるアジア青年との出会いによって、自分の勉強不足と外国語能力の不足を初めて認識する日本青年は多い。そして前述のように、政府と自治体の船事業で日本人としての意識を強められた青年が、日本のあり方と「日本人であること」について反省してもおかしくないのである。
 日本青年の勉強不足は、日本とアジアの共通の歴史——特にアジア・太平洋戦争の歴史に関して最も明確に現れる。日本の戦後教育および社会全般において、大日本帝国時代のアジア侵略やアジア・太平洋戦争の歴史はほとんど無視されてきたのに対して、日本帝国主義の犠牲となったアジア諸国では、その歴史は学校教育や犠牲者たちを通じて世代から世代へと伝わった。例えば、政府と静岡の船の場合には、日本の犠牲という側面を重視する船上慰霊祭が情緒的に毎年行われていたが、そのあり方に現れる戦争観・歴史観は、参加した青年にめったに批判されなかった。それは、報告書に“検閲”があったためであると言うよりも、当時の日本青年はその歴史観を当たり前なこととして見なしていたこともあると思われる。
 1982年代の歴史問題以降、船の事業において、歴史問題に対する態度の変化が見られる。例えば、政府の「青年の船」の1983年の研修では、初めて日本社会の好まれない点(島国根性、集団行動、マナーの悪さ、経済大国、欧米志向)や戦時のアジアへの侵略などについて教えられた。日本単一民族論さえも、はっきりと拒否された。「九州青年の船」の担当者は、1980年代では、様々な歴史問題の“対策”として、青年になるべく「政治的な話を避けるように」とアドバイスをするが、1995年の戦後50周年に当たって新たなアプローチをとる。この年、韓国・中国青年も参加し、共通の洋上慰霊祭、及び「戦後50年、平和について考える」というテーマの共通フォーラムなどのプログラムが催された。ピースボートは、政府の歴史問題への対応として開始され、過去の歴史を実感するために、アジア地域の日本軍の戦った戦場を訪問し、犠牲者の話を聞いた。
 ピースボートの事業は、教科書問題のもたらした日本の教育システム・メディアなどの主要な情報提供者への不安を表している。つまり、当時大学生であったピースボートの設立者たちは、教科書問題によって、今まで教えられたことは正しいかどうか判断できなくなり、ショックを受けたのである。そのため、自分の目で確かめて自分で判断することは、ピースボートの原則となった。船事業に参加する青年の多くは、アジアにおける戦争との出会いによって、ピースボートの設立者と同様に、ショックを受ける。特に、1980年代以降、日本語でコミュニケーションのできるアジア人が増加し、国際交流の公式度が下がったため、アジア人の本音を聞く機会が増えた。つまり、アジアの青年や戦争の犠牲者と出会って、かれらとの大きな歴史認識と知識のギャップを発見する。自分の浅薄な歴史認識を感じると、それを生み出した日本の教育などへの批判の声が増え、そして「もっと事実に近い歴史を学ぶべき」といったような発言が登場する。「歴史の壁」を感じ、それを指摘する青年が多いが、勉強によってそれを越えようとする青年も少なくない。要するに、省庁の船への参加も、歴史認識の高まり・歴史観の変化につながると言える。しかし、それは、船上研修のおかげであるというよりも、現地の人々との交流・会話の結果である。
 船事業の30年以上の歴史を経て、どの時期でも青年に経験されることは、コミュニケーションの難しさである。ほとんどの青年は、英語あるいは他の外国語を話すことができず、交流に「言葉の壁」を生み出す。英語能力の無さは、さらに外国人に対するコンプレックスをもたらし、この二つは、意義のある意見交換や一般交流の障害となる。船事業の数十年の歴史において、この点では大した変化は起こっていない。エリートが多い政府「青年の船」でも、「言葉の壁」は交流の最大の問題である。国際化論の高まる時期から英語は「国際人」に必須だと思われてきた。これはさらに、日本に対する「誤解」の議論につながり、外国人が日本を正しく理解できるように英語を学ぶというロジックが出てくるといった興味深い傾向も見られる。

・・・・

 船の事業の歴史は、40年弱にわたるトライアル・アンド・エラーによる修得のプロセスとして見なされる。この章からわかるように、各船事業の担当者らは、参加青年の意識を変えようとしているが、彼らの果たしたい目標・“理想の意識”は、大きく異なる。しかし、どの事業を見ても、青年の反応・感想には共通点が多い。つまり結果的に、アジア諸国の人々との交流によって、(計画されても・されなくても)、「歴史をもっと勉強するべき」、「アジアをもっと知りたい」、「日本語だけで国際人なれない」、「自分の国を知らない」等々が大きな発見となる。
 さらに、事例研究に見えるように、「真の国際交流」に近づき、国際的なスキルを獲得するプロセスは、長い時間がかかった。前述のように、各事業は自らの理想に基づき、「トップダウン形式」で、青年の意識を影響させようとしている。しかし、政府・自治体の船の場合には、青年の国際経験や国際的な常識の高まりに伴って、特に国際交流のあり方への青年からの期待が変わり、事業の内容は大きく改編された。つまり、参加青年によるボトムアップの変化をもたらす。この傾向は、明らかに、青年の国際経験と国際認識の高まりを示している。
 そして、論文の前半で論じたように、1980年代から日本政府や自治体は、地方の国際化を促進するため、大規模な国際化・国際交流事業を導入した。これは明らかな「トップダウン形式」の国際化であったと言える。しかし、ピースボートの事例に見えるように、国家の枠をこえて共産圏諸国などに対して親善訪問を行ったり、歴史問題に反対したりすることによって、草の根交流団体も自らのアジェンダに従って行動し、結果として日本政府の言動や外交の方針に影響を与えている。要するに、全国的には草の根から政府、そして各船の事業においては、参加青年から省庁への「ボトムアップ」の動きが強まってきたと言えよう。

 先行研究でも、本研究においても、国際化政策及び国際交流事業にはナショナリスティックな潮流が目立つ。そのナショナリスティックなアジェンダは、様々なパターンで現れる。例えば、政府「青年の船」は、外国人参加者と日本青年の両方に日本を理解・意識させることが主な目的である。その目標を果たすために、研修では日本文化を教え、伝統的に日本国家を象徴する「日の丸」と「君が代」を驚くほど強調する。実は、日本青年の感想文を検討すると、どの船事業でも、日本人としての誇りの欠如とそれをめぐる感想が目立つ。日本青年は、例えばアジア地域の最も貧しい地域を訪問する時、日本の豊かさ・経済力・技術的発展などを高く評価する。しかし、同時に現地で経験する愛国心や自国への誇りは、日本人として「何か」足りないということを発見する。その「何か」は、自国意識、自国知識、及び自国への誇りであろう。前述のように、国際比較調査でも、日本人の愛国心と日本人としての誇りは、例外であると言えるほど少ない。世論調査、及び数十年の船事業の報告書を見る限りは、日本青年はもっと日本を認識しなければならないという点において、船事業の担当者たちの判断は正確であったと言えよう。日本人青年は、間違いなく何らかの自国意識を必要としている。しかし、省庁の事業で促進される、天皇、「日の丸」、「君が代」、民族精神、及び国家のための努力や犠牲を重視するような、帝国日本の古い価値観を象徴するナショナリズムは当然時代遅れである。
 日本の国際交流事業は、外国人を対象とした自国の国益の追求や外交政策としての手段であり、他方、日本青年を対象とするナショナリズムを促進する手段としても利用されており、そのために批判を受けることが多い。しかし、前者に関しては、高く評価すべき面もあると思う。つまり、大国として国益と安全保障を守るために、「文化外交」や「海外での仲間作り」を実施しなかったら、オルタナティブとして他の大国と同様に軍事力や貿易制裁を行わなければいけないだろう。それに比べて、国益を守る平和的な方法として、外国人に日本文化を勉強・理解する機会を与えた方が理想的であろう。実は、他の国々がそれを真似すれば、国際親善と理解への貢献となる。しかし、日本政府による「日本化」は、平和的な外交政策として評価できても、日本の国際化と国際認識をめぐる問題は当然解決しない。日本人は、国際的な知識に自然に興味を持つようなコスモポリタンになるように、日本のみならず、当然世界にも目を向けるべきである。

 本論文において、二つの有名な海外雑誌の分析に基づいて、日本と国際化・グローバル化を論じ、相対立する日本の二つの大きなチャレンジを指摘した。つまり、ひとつには他の先進国に負けないようにグローバル化の風に乗らなければならない。もうひとつには同時に、日本社会の日本性を失ってはいけない。要するに、グローバル化を促進し、かつ日本性を保護・再発見しながら、今までの国際化の反動として現れたナショナリズムのトラップに落ちないことが日本のチャレンジであると言えよう。

このページの一番上へ