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博士論文要旨

論文題目:雇用関係の社会理論
著者:倉田 良樹 (KURATA, Yoshiki)
博士号取得年月日:2006年5月17日

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本研究は、21世紀に入った現代社会の雇用関係について、その現状を分析し、将来を予測していくための社会理論を構想することを目指している。雇用関係を対象とする社会科学的な研究は、20世紀を通じて様々なディシプリンによる応用研究として追及されてきた。だが、21世紀に入った現代社会において、われわれは既存の理論枠組みでは説明できない雇用関係の新動向に直面している。雇用関係を対象として行われてきた研究は、いずれの分野においても確かな分析枠組みを失って進むべき方向を見失っている。21世紀にはいった今日の雇用関係は、脱工業化・情報化による労働市場の変容、グローバリゼーションによる国民国家を単位とする雇用保障制度の空洞化、労働者の生活様式の脱標準化・個別化という3つの大きな構造変動に直面しており、これらの新動向は雇用関係に関する既存理論の書き換えを要求している。
本論文の第1章においては、20世紀の雇用関係研究を回顧して、雇用関係研究が現状において適切な社会理論を欠いて停滞していることを示す。そして21世紀における雇用関係の新動向を解明するためには、雇用関係に関する既存理論の限界を乗り越え、新しい枠組みを構築する必要があることを主張する。また、次章以下で過去の研究史を整理していく作業を行う出発点として、雇用関係に関してどのようなディシプリンからアプローチする場合にも共通に採用できる緩やかな概念規定を提示する。この定義によれば、雇用関係とは、第一次的には職場において観察される被用者・使用者間の職務遂行をめぐる交換関係であり、第二次的には職場の雇用関係が定常的に維持されるための社会空間(市場空間・公共空間・生活空間)における社会関係の総体をも含むものである、という一般的な理解が示される。
続く二つの章においては、雇用関係に関連して過去に蓄積されてきた既存研究の中から、とりわけ20世紀後半に確立した概念、枠組み、理論に焦点を合わせて、これらに関する批判的な再検討を行う。そしてこの作業を通じて新しい理論を彫琢するための方向を探っていく。既存研究の批判的な再検討を行うにあたっては、過去の学説の中から「制度理論」institution theoryと「行為理論」action theoryという2つの系列の理論を抽出し、それぞれに関して第2章と第3章で考察を行う。既存の制度理論と行為理論のサーベイによってその成果と限界を明らかにしながら、行為理論をさらに精錬する方向を選択することによって、21世紀の雇用関係に適用されるべき新たな理論枠組みを構想することが本論文の目的であり、2章と3章の考察を通じて、そうした構想の正当性が主張される。
20世紀の雇用関係研究を全体として振り返ると、「制度論」の系列に属する理論が主流の位置を占めてきた。第2章ではこの系列の理論に関する批判的な再検討を行う。雇用関係研究が独立した学問分野として最初に確立された英米両国のいずれにおいても、当初から実在する「制度」に対する関心が研究の原動力となっていた。英国における雇用関係研究の最初の本格的業績として、後続の研究者に大きな影響を与えたウェッブ夫妻の『産業民主制論』においては、労働組合の規則、団体交渉、賃金決定機構、労働者参加、紛争処理など、労使関係の制度に関する記述がその中心部分をなしている。アメリカの労使関係研究の創始者といわれるJ.R.コモンズの理論が新古典派経済学に対抗する「制度経済学」Institutional Economicsであったことは良く知られている。20世紀後半の研究者にも制度論の伝統は継承されている。1960年前後に英米で刊行されたA.フランダース(英国)とJ.T.ダンロップ(米国)の著作は、制度としての労使関係の諸制度を分析するための精緻な概念枠組みを提出し、制度論的な研究をひとつのパラダイムの地位にまで押し上げた。第2章の後半では、ダンロップの労使関係システム理論が依拠している概念枠組みを細部にわたって取り上げ、その批判的な検討を行う。
英米の後を追って雇用関係の学術的研究が着手された大陸ヨーロッパや日本においても、マルクス主義がより強い影響を発揮したことを除いては、研究状況は英米と大きく異なるものではなかった。20世紀後半の雇用関係研究においては、実在する様々な制度institution、規則rule、機構systemを対象とする経験科学的なアプローチが主流的な研究のスタイルとなった。こうした研究動向において、理論研究に期待されたのは、各国の雇用関係を構成する諸制度が持つ固有の型(構造と機能に関する一定パターン)を解明し、諸制度がどのようなルールを生み出しているのかを体系的に記述できるフレームワークを提示することであった。このようなタイプの研究において議論のスタートとして多くの研究者が依拠したのがダンロップの労使関係システム理論であった。
だが、筆者の理解によれば、実在する制度や規則を説明することを目的として考案された制度論的フレームワークは、アドホックな自家撞着の体系から脱することが困難であり、制度変容の動態分析や将来予測など、社会科学が本来考察していくべきテーマに関して有効な視点を提供することができない。そればかりではなく、制度論的なフレームワークからの政策提言は、現実に存在する特定の制度をいかに保守するか、という議論に陥りやすい。今日の雇用関係の現状はまさに制度変容の渦中にあり、研究者は20世紀的な制度理論では解くことのできない様々な課題に直面している。このような状況の中で雇用関係の社会理論を前進させていくためには、既存の制度理論に付着した多くのステレオタイプを棄却していくことが必要である。
他方、20世紀後半の雇用関係研究に活用されてきた社会理論の中には、行為理論の系列と総称することのできる一群の流れがある。第3章では、雇用関係に関する行為論的な理論研究の過去の成果を踏まえ、これを精錬しながら21世紀の現実に適応可能な新しい社会理論を構想していくことが試みられる。行為理論による雇用関係研究を純粋に学説史的な関心に基づいて遡っていけば、マックス・ウェーバーの近代官僚制組織の理論にまで戻って考察していく必要がある。ウェーバーの官僚制組織理論については終章において若干の批判的言及を行うが、第2章で主として取り上げるのは20世紀後半に登場した行為理論である。20世紀後半における行為理論的な雇用関係研究には、制度論の系列におけるダンロップの「労使関係システム理論」に相当するような、大きな影響力を継続させた主流パラダイムは存在しない。第3章では、筆者なりの視角から諸学説をフォローし、その流れをツリー状に整序していくことを試みる。
制度論的な労使関係論が確立したのは、およそ1960年前後の時期といってよいが、この時期にこれと並行して、パーソンズ・マートンの後続世代にあたる社会学者たちが機能主義Functionalismの理論を活用した実証的な雇用関係研究に積極的に取り組むようになった。アメリカにおいて推進された、これらの研究の成果はヨーロッパや日本にも紹介され、社会学的な雇用関係研究の一つのスタイルを確立することとなった。だが、機能主義的な社会理論は、その後社会学の内外から提出された様々な批判に対して有効な答えを出すことができず、次第に停滞、凋落の道を辿ることになった。1970年代以降、機能主義的な行為理論は雇用関係研究が依拠するメインパラダイムとしての地位を失うことになり、これ以後登場する幾多の社会学的ミニパラダイムにおいては、社会学者の研究関心は徐々に雇用関係から遠ざかっていくようになる。
他方、1970年代という時代は、脱工業化、グローバル化、生活様式の脱標準化など、雇用関係の現実それ自体が大きな変貌を始める時代でもあった。既存理論と現実との間のギャップは徐々に拡大していくが、多くの研究者は雇用関係の社会理論を再構築するという困難な作業を回避して、現実に生起する様々な新奇な個別事象を追いかけたり、政策当事者から要請されるあれこれの研究テーマに受動的に取り組むことで自足するなど、雇用関係研究は理論面で大きな停滞に陥っていく。
雇用関係研究の理論面での停滞は、今日まで継続している。こうした停滞状況から脱却するための方途はどこにあるのだろうか。第3章の後半では、機能主義以後の行為理論的な社会理論の中から、ギデンズの「構造化理論」に着目し、これを導きの糸としながら、雇用関係の社会理論を再建していくための方途を探っていく。雇用関係の社会理論を再構築するための基礎理論として、ギデンズの構造化理論の内容を解読していく。
本研究の結論部分にあたる第4章では、まずその前半で構造化理論に基礎をおいた雇用関係の社会理論で活用される主要概念を提示する。構造化理論によって雇用関係の社会理論を精錬していく筆者の構想はまだ着手されたばかりであり、ここで提示された諸概念をもとに、より明確なフレームワークとして組み立てていく必要がある。その意味で、ここに提示するのは現段階におけるひとつの試論である。筆者が構想する雇用関係の社会理論においては、ギデンズが構造化理論で展開している以下の3つの主題を、筆者なりの発想に基づいて雇用関係の理論の中に組み込んでいくことが試みられている。第4章前半の概念規定によって筆者が意図するところをより正確に伝えるために、このことについて補足的に説明しておこう。
第1には、ギデンズの構造化理論は、構造が再生産される過程で行為者が発揮する自らの行為に対する再帰的なモニタリング能力の役割を重視し、社会の生産と再生産に関して行為を中心に説明する枠組みを提出している。筆者が構想する雇用関係の構造化理論もまた、ギデンズと同様に個人の行為を中心にした概念構成を行っている。そこでは、集団的労働関係を中心に分析を進めようとした制度理論とは対極的なアプローチがとられている。
第2には、ギデンズの構造化理論は、社会における行為と構造との関係は、連続的な行為の流れの中で構造が生産・再生産されていく様相としてしか観察することができないことが示されている。筆者が構想する雇用関係の構造化理論では、この観点を生かして、雇用関係が時間的な流れの中で再生産される様相を記述することを重要な主題として設定している。そこでは、時間の要素を括弧に入れて因果関係を説明しようとする傾向の強い機能主義的な労働研究の限界を超えて、雇用関係の動態に関してより精密な議論を展開することが目指されている。
第3には、ギデンズの構造化理論は、構造的多元主義structural pluralismという主題を含んでおり、構造が多元的に発現する3つの場として、市場と政府とコミュニティを想定している。筆者の雇用関係の構造化理論では構造の多元性を市場空間、公共空間、生活空間という社会空間の三層によって捉えようとしている。雇用関係の再生産を支える社会空間をこの3つの要素で説明する枠組みを提出している。
第4章の後半では、21世紀における雇用関係の研究にとって最も重要な将来的な動向として、市場空間の脱・工業化、公共空間のグローバル化、生活空間の個人化という3つの動向によって雇用関係の存立条件に著しい変容が起きていることを指摘し、こうした現象に対して、構造化理論を適用することでどのような研究成果を期待することができるのかを考察する。このことによって、筆者が今後取り組んでいくべき作業がどのようなものであるのかを示す。

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