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博士論文要旨

論文題目:アメリカの人種エスニック編成における日系エスニシティ--エスニシティ、人種、ナショナリズムの相互関係をめぐる歴史社会学的研究--
著者:南川 文里 (MINAMIKAWA, Fuminori)
博士号取得年月日:2006年5月17日

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 本論文は、日本を出自とする移民が、「日系アメリカ人」というエスニック集団としてアメリカ社会に定着するに至る長期的な過程を、歴史社会学的な視点から考察するものである。社会学研究において、エスニシティは、集団に固有の客観的な指標・変数としてではなく、特定の社会関係のあり方を指す関係的概念として再定義する必要がある。しかし、白人系新移民の経験に依拠しながら発展してきたエスニシティ研究の枠組は、アメリカ人種主義による抑圧を経験した人種マイノリティとしての側面を持つ日系人の歴史的変容を議論するには不十分である。それゆえ、日系エスニシティの長期的変容を考察する際には、同時に、人種マイノリティとしての側面との連関を議論しなくてはならない。そして、エスニシティと人種が、それぞれ、いかなる種類の社会関係を指すのか、それぞれがどのように結びついているのかを、明らかにするような理論枠組の構築が望まれる。
本論文では、日系人をめぐるエスニシティと人種という二つの要素の交錯を、歴史社会学的なアプローチから議論する。ここで採用する歴史社会学的方法とは、日系人が置かれた社会経済的条件と、そのなかで日系人が編み出すエスニシティおよび人種をめぐる言説の相互作用に注目するものである。このような視点から、20世紀初頭から1960年代までのロスアンジェルスにおける日系人社会の変容を実証的に分析する。そして、「日系アメリカ人」という考え方が日系人社会およびアメリカ社会に定着する過程を明らかにすることによって、アメリカの人種エスニック関係の歴史的変容を描きだす。


第1章「アメリカの人種エスニック編成:理論的枠組」では、本論文のための理論枠組を設定し、実証分析の課題を明らかにする。アメリカ社会学では、エスニシティと人種という二つの概念が、それぞれ独自の潮流のもとで発展してきたため、二つの概念の相互関係が理論的には十分に検討されてはこなかった。アメリカの社会的文脈のなかで、エスニシティと人種の関係性を理解する理論枠組として、本論文では「人種エスニック編成」を提示する。人種エスニック編成とは、アメリカ社会を定義するナショナリズムが「市民」と「人種」という二面性を持っていたことに注目し、この二つの基準にそくして、マイノリティの集団化やアイデンティティ形成を理解する枠組である。アメリカでは、包括的な「市民」概念が、「人種」にもとづく排他性を背負って成立してきた。このような二つの基準の同時性ゆえに、マイノリティは、エスニック化と人種化という二つの方向性をもった集団化を経験する。エスニック化とは、「市民」の原理にもとづいた多元的なアメリカ社会を構成する一集団としての自己定義と、他の集団との水平的な差異化の動きを示す概念である。一方で、人種化とは、「人種」という序列化のルールに沿って生じる、垂直的な序列化を示している。そして、マイノリティは、「市民」と「人種」にもとづく二重の集団化の過程で、自分たちの「ホームランド」を想像的に構築し、集合的な行為やアイデンティフィケーションを進めてきた。人種エスニック編成とは、アメリカにおけるマイノリティの歴史的経験を、「市民」「人種」「ホームランド(=日系であること)」の三者関係のなかで把握するための理論枠組である。
本論文では、エスニック化と人種化の同時性を強調する人種エスニック編成論の視点から、日系エスニシティの長期的変容を考察する。それは、日系人がエスニック化と人種化という二つの集団化を経験するなかで、アメリカ社会のナショナリズムとどのような関係を結び、「日系」を特徴づけるホームランドをどのように構築してきたのかを問うものである。これまで、日系人のエスニシティの変遷は、「世代」によって理解されることが多かった。しかし、本論文は、日系エスニシティの変化を、アメリカの人種エスニック編成の変化に位置づけて解釈する。そして、移住者としてアメリカに渡った移民一世が、アメリカの人種エスニック編成の枠組へ参入するようになる過程(第2章・第3章)、および戦前期のエスニック化と人種化のあり方の特徴(第4章・第5章)、そして、日系人社会における二世への政治的イニシアティヴの移行と「日系アメリカ人」言説の確立(第6章・第7章)をそれぞれ考察しながら、アメリカ日系人をめぐる、エスニシティ、人種、ナショナリズムの相互作用的な関係を明らかにする。



 ロスアンジェルスにおける日系移民社会は、どのように構成され、どのような契機において、日系移民がアメリカの人種エスニック編成の枠組のなかに、自らの位置を見いだすようになったのであろうか。
 第2章「トランスローカルな移民社会と滞在の長期化」では、ロスアンジェルスへの日系移民の歴史的背景と、初期移住過程における滞在の長期化の社会的文脈を明らかにする。ロスアンジェルスの日系移民社会は、19世紀末から形成されてきたが、親族や同郷者を中心としたネットワークに依存した生活を送っており、「日系人」全体を貫く共通の利害関心や集合的行為を生じさせる基盤は整っていなかった。1900年代前半までの労働者層中心の日系移民社会は、出身地とロスアンジェルスという二つのローカルを結ぶネットワークに支えられたトランスローカルなものであった。しかし、1910年頃になると、旅館・下宿屋、レストラン、グロサリーなどに従事する企業家が増加し、ロスアンジェルスの東1街周辺に「リトルトーキョー」と呼ばれる場所をつくりだした。企業家になった移民は、出身地で自営業の経験を有し、人的資本において有利な層が中心であったが、その登場を支えたのは、トランスローカルな移民の生活空間に適応する県人会や頼母子講などの制度的基盤であった。また、移民企業家は、短期間で集中的な獲得をめざす「出稼ぎ」志向によって可能になった競争上の優位を活かし、さらなる獲得を目指して滞在を長期化するようになった。すなわち、企業家を中心とする日系移民の滞在の長期化は、出稼ぎ志向の連続線上で生じた意図せざる結果であった。そして、このような滞在スタイルは、県人や階層にもとづく断層を抱えたトランスローカルな日系移民社会の状況とも適合したものであった。
しかし、滞在の長期化と日系人社会の顕在化は、ホスト社会側から厳しい反応を招いた。第3章「『エスニックな連帯』の確立:移民のエスニック化と経済活動」では、排日運動が激化した1910年代後半から20年代にかけてのロスアンジェルスで、日系人が、トランスローカルな社会関係を越えて、アメリカの人種エスニック編成へと包摂される過程を議論している。1910年代後半から1920年代にかけて、ロスアンジェルスの排日運動は、さまざまなアクターの利害関係を反映しながら、「ジャップ」という共通の敵を設定して行われた。日系移民にとって、排日運動は、「ジャップ」という名のもとで苦難や逆境を経験するという、一元的なカテゴリー化の過程であった。このような状況で、ホスト社会向け業種に進出した日系移民企業家は、移住先でのローカルな利害を共有する同業者組合を組織して、協力関係を築きつつアメリカ側の経営習慣を取り込みはじめた。さらに、日本人会が主導して、頼母子講へのアクセスを日系移民人口全体に拡張するとともに、都市部の商業と近郊の農業の間でエスニックな異業種間の協力関係が築かれ、「日系人」を基本的な単位として利害関係を調整するエスニック経済の論理が登場した。このようにして確立された日系人のエスニックな連帯は、排日運動の渦中にアメリカを定住の場所と見なした結果として生まれた、「在米同胞」という運命共同体的な意識にもとづいていた。そして、このようなエスニック化のなかで、日系移民は、積極的に、アメリカの市民ナショナリズムの論理を活用し、自分たちの主張を正当化しようとした。ここに、日系移民が、人種エスニック編成のルールにもとづいて、「日系」としての連帯や集合的行為が組織されるようになる契機を見いだすことができる。
以上のように、初期の日系移民社会は、内部にさまざまな亀裂を抱えつつも、自分たちの生活圏に根ざしたトランスローカルな性質のものであった。しかし、滞在の長期化とともに激化した排日運動は、アメリカの人種エスニック編成の存在を日系移民に強制的に自覚させ、そのルールに根ざしたエスニックな集合的な実践へと導いた。



 それでは、日系移民がアメリカの人種エスニック編成の枠組へと構造化されるなかで、エスニック化および人種化が、どのような条件のもとで、いかなる言説を編成しながら生じたのか。また、二つの集団化の過程のなかで、日本およびアメリカのナショナリズムは、どのように作用していたのか。ここでは、戦前期の人種エスニック編成のあり方を明らかにする。
第4章「エスニック・タウンと人種化:リトルトーキョーにおける集団間関係」では、エスニック・タウンとしての「リトルトーキョー」を舞台にした集団間関係の考察を通して、エスニック化の背後で進行する人種化の様相を考察する。1910年代から日系移民の住居・商店・社会機関などが集中したリトルトーキョーは、日系人の集合的なアイデンティティを可視的に表現する場所として、さまざまなエスニック運動の舞台となったが、なかでも最初の大規模な集合的実践となったのが、1919年の矯風運動であった。これは、アメリカの革新主義的な改革運動の影響のもと、時間励行・看板改良・集会改良・賭博追放をスローガンに行われた日系移民社会の生活習慣の改善と合理化の運動であった。なかでも最も活発に行われた賭博追放運動では、中国賭博との関係が問題とされ、移民社会の「支那人化」を回避するという言説を掲げ、リトルトーキョーから中国系の賭博業者が追放された。矯風運動の指導者は、「日本民族」が、東洋人として同一視されがちな中国系移民よりも「文明的に優位」であることを強調し、差別化をすすめた。矯風運動は、アメリカ市民としての適性を強調することで、「市民」に含意された人種的な境界線を、「白人」対「東洋人(日系・中国系)」から、「白人・日系」対「中国系」へと引き直す試みであった。そのために日本ナショナリズムの民族的優越性の言説に依拠しながら、ロスアンジェルスでの集団間序列関係へと参入することになった。それは、同時に、賭博者への厳しい対応にも見られるように、市民ナショナリズムの原理にもとづいて逸脱者を統制し、日系人社会に、日本人会を中心とした秩序をうちたてる試みでもあった。
第5章「移民ナショナリズム:戦争、ホームランド、『民族』」では、1920年代以後の日系エスニシティの変容を、とくに1930年代に日本の東アジア侵出と日米関係の悪化に対して生じた移民ナショナリズムに注目して、人種エスニック編成の長期的視点から考察する。1924年代移民法によって新規移民の入国が停止されると、日系移民社会では、日本との精神的つながりを維持しながらも、物質的には日米両政府に頼らない「自立論」がさかんに主張され、移民という立場にもとづいた連帯を強化しようとした。30年代までには排日運動も緩和し、日系人が自らの「日本人性」を商業的にアピールする機会も増えた。しかし、1937年以降の日中戦争および日米関係の緊張は、移民社会にも影響を及ぼした。日系移民社会の指導者層は、日本に支援物資を送る一方で、アメリカ社会に日本の立場を理解させる移民ナショナリズム運動を主導した。移民ナショナリズムは、アメリカの労働運動と結びついた社会主義者からの抵抗はあったものの、女性も含めた移民社会全体を動員した。この運動は、これまで、「日本人」としての移民による日本ナショナリズムへの忠誠心の発露と考えられることが多かった。しかし、本論文では、移民ナショナリズム運動が、日本への物資や支援金の送付だけでなく、アメリカ政府に対する「宣伝活動」にも力を入れていたこと、そのような運動を動機づけていた枠組として、「大和民族の海外発展」という言説とともに、「米国市民(=二世)の親」や「合法的な永住民」という立場を強調していたことに注目した。それは、移民ナショナリズム運動が、アメリカの市民ナショナリズムの枠組に応じて行われたエスニック運動であることを示しており、そのようなエスニック化の文脈では、「合法的な永住民」「米国市民の親」という日系移民の立場は、「日本民族の海外発展」という言説と相互補完的な関係にあったことを明らかにした。このように、移民ナショナリズム運動とは、アメリカの人種エスニック編成に条件づけられたエスニックな実践であった。
以上の考察から、排日運動が厳しかった1910年代後半から第二次世界大戦に至るまでの、人種エスニック編成と日系エスニシティの特徴をまとめると以下のようになる。日系移民は、アメリカの市民ナショナリズムの論理にもとづいて、「アメリカ社会の構成員」と自集団を位置づけていた。しかし、当時の「市民」が抱えていた人種主義的な排他性に対峙するなかで、「市民」と「人種」の矛盾を乗り越えつつ、自分たちの存在を正当化する枠組として、「日本民族」論を積極的に取り込むようになった。戦前期の日系社会において、「日本民族であること」と「(国籍ではなく主観的な意味づけとして)アメリカ市民であること」は、両立可能な考えとして、幅広く共有されていた。



 「民族」と「市民」の共存関係によって特徴づけられるエスニック化と人種化のあり方は、二世の登場によって、どのように変化したのであろうか。また、戦時強制収容を経て、再定住から公民権運動の時代に至るまで、アメリカの人種エスニック編成と、日系エスニシティの関係は、どのように変容したのであろうか。
 第6章「『日系アメリカ人』と市民ナショナリズム:日系二世と人種エスニック編成」では、戦前から戦時強制収容を経て、戦後の再定住にかけての日系二世の変容を考察した。戦前期ロスアンジェルスの日系二世は、高い教育を獲得しても職業的機会はほとんど制限されていたが、そのなかには階級、教育を受けた場所(日本か、米国か)、ジェンダーなどに応じて多様な層が含まれ、決して一枚岩とはいえなかった。1930年代には一世同様、「日系市民」を自認しつつも、「日本民族」の言説も受け入れた二世も少なくなかったが、そのような状況は、日米開戦と戦時強制収容によって大きく変化した。二世エリート層の組織であった日系アメリカ市民協会(JACL)は、収容キャンプを管理する戦時転住局(WRA)に積極的に協力し、WRA-JACL体制を築き上げた。このような動きに対して、帰米二世や一世は強く反発したが、収容所の日系人には、「日本人か、アメリカ人か」という忠誠心の二者択一を迫る忠誠登録が行われ、排他的ナショナリズムの思考が押しつけられた。その過程で、JACLは、独自の愛国主義的市民ナショナリズムにもとづき、日系人社会における政治的なリーダーシップを確立した。戦後になると、リトルトーキョーを中心とする日系人社会とエスニック経済が再建されたが、日系二世に対するアメリカ一般労働市場の職業機会は開放され、多くの日系人がエスニック経済の外部で働くようになった。このような社会経済的条件の変化に対応し、JACLは、戦後も日系人を「代表」する組織として、愛国主義的市民ナショナリズムにもとづいた「日系アメリカ人の信条」をアピールするようになった。すなわち、「日系アメリカ人」という自画像は、戦時強制収容という例外的な体験を経て、JACLという特定の団体の利害関係を反映して構築されたものであった。
第7章「『日系アメリカ人』エスニシティの再帰性:日系アメリカ人研究プロジェクトとエスニック多元主義」では、JACLによる「日系アメリカ人」という言説が、1960年代以後の人種エスニック編成と呼応しながら、日系人が個々の生活経験を理解する再帰的な枠組として確立する過程を、日系アメリカ人研究プロジェクト(JARP)を題材に考察する。1960年代は、公民権運動を通して、アメリカ社会をエスニック集団を構成単位として考えるエスニック多元主義が浸透した時代であった。この時期、日系二世の一般経済への編入が拡大すると、日系エスニシティは、排他的な連帯意識や実質的な生活資源としてよりも、個人としてのアイデンティティを意味づける言説としての特徴が顕著になった。JACLは、このようなエスニシティの機能的変化に対応して、「一世の歴史」を掘り起こし、「日系アメリカ人」の定義を明確にする「一世の歴史」プロジェクトを開始した。このプロジェクトは、UCLAと連携することでJARPとして1962年に開始された。JARPは、当初の想定に反して社会学的調査としての様相を強化しながら、JACLが描く「日系アメリカ人」像を反復するかたちで実施され、その成果は、日系アメリカ人の成功物語として発表された。そして、JACLが描いた「日系アメリカ人」の自画像は、JARPやモデル・マイノリティ論を経て言説化し、エスニック多元主義の「模範的な」例として、広く浸透した。そして、「日系アメリカ人」という言説は、いくつかの対抗的言説を生みながら、ポスト公民権期の日系人のエスニック化/人種化を支える枠組となった。
以上のように、現在、日系人を語るもっとも有力な枠組としての「日系アメリカ人」は、日米開戦と戦時強制収容によって「市民」と「民族」の共存関係が解体された後に、二世のなかの一団体であったJACLの愛国主義的市民ナショナリズムの発想にもとづいて構築されたものであった。そして、「日系アメリカ人」の物語は、1960年代以後の人種エスニック編成を特徴づけるエスニック多元主義と共鳴し、日系人の再帰的な自己準拠枠組として定着した。この時期、日系エスニシティは、アメリカ市民であることを前提として、アメリカの文化的多様性に「貢献」するものとして再定義された。「日系アメリカ人」言説では、ホームランドとしての「日本」は、アメリカの「市民」概念と矛盾しなかったが、それは、戦前のように「日本民族」論の膨張主義的性格によるものではなく、日本文化をアメリカの文化的多様性の一要素へと縮減可能なものとして再構築したからであった。そして、「日系アメリカ人」言説は、ポスト公民権期の新しい人種化の様式とも密接に結びつき、アメリカ社会全体の序列的な集団関係を温存させる一因となった。


以上のように、ロスアンジェルスにおける日系エスニシティは、1910年代の排日運動を通して人種エスニック編成の枠組へと積極的に参与するようになり、「市民」と「日本民族」論を共存させる戦前期のエスニック化/人種化の様式を確立した。しかし、戦時強制収容における排他的ナショナリズムの強制は、そのような共存関係を解体し、その結果、愛国主義的市民ナショナリズムにもとづいた「日系アメリカ人」という新しいエスニシティの様式が登場するに至った。また、1924年の移民法改正と1960年代の公民権運動は、それぞれ、このような戦前期、戦後期のエスニック化/人種化のあり方をいっそう確固としたものにする契機となった。
人種エスニック編成論にもとづいた歴史社会学的考察は、一世から二世へ(そして三世へ)の世代交代という形で理解した世代論的なエスニシティ論に対して、それぞれの時期の日系人社会の状況と、それを包囲するナショナリズムの変容にもとづいて理解することの重要性を提起している。一世にとって、「日系」としての連帯意識は、アメリカ人種エスニック編成のルールを取り込む過程において成立したものであり、それはアメリカにおける集団間序列関係への埋め込み--人種化--を伴っていた。さらに、二世における「日系アメリカ人」という意識の定着も、戦時強制収容を契機とした日系人社会内部の政治権力構造の移行と、愛国主義的なナショナリズムからエスニック多元主義への人種エスニック編成の変容を反映したものであった。
また、日系エスニシティの最も基礎的な土台として、アメリカの市民ナショナリズムが存在していたことが明らかになった。戦前期から戦後にかけての長期的なエスニック化は、アメリカにおける「市民」概念が含意する包括性によって支えられていた。そして、エスニシティの長期的変容は、さまざまな日系人が、それぞれの時代状況のなかで変質した市民ナショナリズムを自らの立場にあわせて読みかえる過程として生じた。そして、「市民」概念の変容の背後では、集団間の序列関係を再生産する人種化が、さまざまに様式を変えながら存続してきた。エスニシティ研究に求められているのは、主流派エスニシティ論のように市民ナショナリズムとエスニック多元主義を規範的に言説化することではない。エスニック化と人種化の同時進行的な過程を描く人種エスニック編成論は、具体的なエスニック現象の検討にもとづいて、それらの成立や由来を歴史化するとともに、そこに内包される人種化の問題も俎上に載せるための歴史社会学的枠組なのである。

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