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博士論文要旨

論文題目:中国内陸地域における金融業の史的展開-重慶銀行業に見る近代と社会主義:1915~1953-
著者:林 幸司 (HAYASHI, Koji)
博士号取得年月日:2006年3月28日

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Ⅰ 問題意識
 本論文は、近現代中国内陸部における銀行史の立場から、中華民国期と人民共和国期を通じた社会経済的な変化・非変化のありかたを明らかにしようとする試みである。本論文における分析の中心となるのは、1915年、四川初の民間銀行として重慶で発足した、「聚興誠銀行」である。同銀行は設立から共産党による接収までの38年の歴史の中で、銭荘と銀行の折衷的形態から、有限責任株式銀行への移行(1937年)、そして公私合営化(1953年)という、めまぐるしい組織的変化をとげた。これら組織的変化にともなって、聚興誠銀行の営業方針は、地域的路線と全国化路線、商業金融路線と産業金融路線の間を揺れ動いた。また、政治・経済状況の変化とともに、人的構成や政治との関わり方も大きく変化していった。このように、聚興誠銀行のありかたは、近現代中国における社会経済構造の変化を如実に反映する事例であるといえる。
 近代以降出現した内陸地域における銀行はどのような変遷を遂げたのか。また、銀行の経営者たちは、全国的な政治的・経済的変動にどのように規定され、いかなる関係を取り結んでいったのか。そして、こうした過程から、我々は近現代中国のありかたをどう見てゆくことができるのか。これらの問題を読み解く手がかりとして、本論文では、①西洋・ソ連に端を発する銀行制度の中国における展開過程、②中国における商業秩序変動との関係、③銀行の「内的構造」との対置、という三つの視点を設定し、分析をすすめていくこととする。

Ⅱ 論文の構成と内容
 本論文は、三部八章構成となっている。第一部「内陸都市における銀行の出現とその発展過程(1915~1949)」では、イギリスに端を発する有限責任株式銀行制度が、中国内陸部においてどのように展開していったかが主要なテーマとなる。
 第一章「重慶における民間銀行の設立とその時代」では、1915年に聚興誠銀行が設立される経緯とその当初の特徴についてふれる。清末期の重慶では、複雑な産業取引構造とこれに連動した重層的通貨制度が展開し、票号や銭荘などの伝統的金融機関が、金融業を担っていた。19世紀後半以降、中国沿海地方では、外国植民地銀行の影響を受けて銀行が設立されていった。外国銀行の直接の進出がなかった重慶でも、日本やアメリカに留学した人物により、四川地方初の民間銀行である聚興誠銀行が設立されることとなる。聚興誠銀行は、重慶における企業のありかたに規定された結果、銭荘と銀行の中間に属する組織形態を取っていた。また、学徒制度の継続や貿易部の併設など、商号時代の機能を引き継いだ側面が多く見られた。こうして聚興誠銀行は、銀行の名を冠しながら、西洋株式銀行の範疇には入らない、独自の形態を取ったものとなったのである。
 第二章「1920~30年代の聚興誠銀行と重慶銀行業」では、聚興誠銀行設立当初から1930年代までの経営状況について、他行との関連も交えて分析する。四川初の民間商業銀行であった聚興誠銀行は、設立当初より順調な経営を続けていた。しかし、1930年代以降、重慶では大きな変化が起こりつつあった。政治面では、軍閥同士の抗争状態から、劉湘の下での政治的統一へと動きつつあった。また金融面では、それまでの銀地金使用から額面の一定した銀元が普及していくが、当時の内国為替取引構造による信用貨幣の膨張や、四川内における複雑な通貨交換制度により、金融の不安定要素が増大していた。これに伴って重慶では銀行設立ブームが起こった。こうした動きは、1934年から1935年にかけて起こった金融恐慌、そして国民政府の介入へとつながってゆき、聚興誠銀行はその地位を脅かされていくこととなる。
 第三章「金融恐慌・日中戦争と聚興誠銀行の近代化」では、1930年代の金融状況について整理した後、聚興誠銀行が法人化などの改組に至った要因を、金融恐慌及び日中戦争による重慶遷都などとの関連から論じていく。銭荘と銀行の折衷的形態を持っていた聚興誠銀行は、重慶の政治・経済が大きく変動してゆく中で、有限責任化や企業の法人化・経営方針の転換など、組織及び経営の制度的近代化を推し進め、名実ともに近代有限責任株式銀行の様相を備えることとなった。西洋に端を発する株式銀行制度が内陸部重慶において展開するに至ったのは、同制度を有利ならしめる社会経済的変動が、金融恐慌を契機として起こったことと、銀行の経営者たちが分裂から統合へと向かう歴史的流れの中で、あらゆる手段を尽くして銀行の存続を図ろうとしていたからであった。それゆえに、聚興誠銀行が、日中戦争の激化による時局の変化と、国民政府の戦時統制政策の影響から自主的な営業を阻まれると、組織は一転して事実上楊家が総攬する方向へ修正され、経営方針も従来行ってきた地域的商業金融路線へ回帰していったのである。
 第四章「日中戦後の聚興誠銀行」では、日中戦争後に進展した銀行の中央化とその挫折過程を、国民政府の政策面と銀行の内情の双方から分析し、銀行が中国大陸に残留した要因を探っていく。聚興誠銀行では、戦後重慶の地位が低下する中で、経営のありかたに端を発した内紛が起こった。その中で、アメリカ留学を経験し、経営の国際化・産業金融化を志向する人物が台頭し、国民政府による金融管理政策に適応すべく、上海への本拠移転や、国際業務・投資活動の展開などに積極的に取り組んでいく。その一方で、これまで地域的営業を進め、新勢力に経営の主導権を奪われた創業者一派は、内部対立と経済研究室の活動を通した現状認識から、対局の立場にあった中国共産党に接近していった。1948年、国民政府体制の瓦解により中国に再び混乱の時代が訪れると、聚興誠銀行では、銀行の国外離脱を図る新勢力の立場と、国内での営業継続を志向する創業者の立場が現れた。前者は銀行本体を残したまま中国大陸を離れ、後者は共産党との関係を背景に、重慶における存続を選択することとなった。聚興誠銀行内部の対立の構図は、銀行の国際化・産業金融化路線と、地域的商業銀行路線の間で揺れ動いた結果であったといえる。ただし聚興誠銀行全体から見れば、対立の主体である銀行の経営者たちは、銀行の存続及び発展のためにあらゆる手を尽くして動いていたのであり、国家や党派はそのための手段にすぎなかった。その中で、地域志向が強く、戦後訪れたつかの間の新時代に適応できなかった人物が、混乱の中で現実的選択として選んだのが、次期政権を担うこととなる中国共産党だったのである。
 第二部「重慶における共産党政権の成立過程(1949~1952)」では、重慶において共産党政権が成立した1950年前後の聚興誠銀行をとりまく政治的環境の成立過程が中心的なテーマとなる。
 第五章「中国共産党による重慶『接管』工作の展開」では、重慶「解放」とともに実施した公営銀行(省・市銀行)の接管過程について検討する。1949年12月に着手された接管は、翌1950年1月初頭に終了が宣言された。大規模な接管が、1ヶ月足らずという非常に早いペースで、大きな混乱もなく行われたのは、共産党側が南京などを始めとする大都市接収の経験を踏まえた現実的政策を実施したことに加えて、共産党側の意図と接収された側の内在的要因の利害が一致したことによる。事実上の営業停止状態にあった省・市銀行の旧職員が接収に参加していくことは、自らの生活維持のための極めて現実的な選択であった。一方、共産党の視点に立てば、政権が成立した直後のこの時期にあって、接収は政権安定のために必須のものであると同時に、当面の雇用対策の側面を兼ね備えたものであった。共産党は省・市銀行を接収する際、「自上而下」方式の組織を編成する一方で、実際の接収活動に当たっては、かなりの部分を現場の裁量に任せていた。共産党のこのような接収方法は、銀行内において共産党の接収活動を受けいれやすい状況を醸成していった。こうして重慶では早い時期から、公的部門における共産党の間接的支配関係が形成されていった。
 第六章「工商行政機関の成立――重慶市工商業聯合会籌備委員会」では、工商行政機関の設立過程とその機能について見ていく。中国共産党が「解放」した当時の重慶は、重慶経済が大きく発展した抗日戦争期と較べれば、相対的に斜陽の時代にあった。共産党政権は朝鮮戦争の勃発とともに、重慶において鉄道建設や加工委託発注など巨額の公共事業を行っていくが、これは不景気のただ中にあった重慶経済にとって、大きなインパクトを持つものであった。工商行政機関として設立された重慶市工籌会は、これらの活動を仲介する機能を担ったことで、民間企業の経営に対して大きな影響力をもっていくこととなる。この結果、人民共和国後の重慶では、政府と民間企業経営者の間にも、共産党による間接的支配の構図が生まれていったのである。外来政権が重慶に入る際、その旧来の機関を利用しつつ再編していったことや、経済的利権を集約していくことで現地の財界人を引きつけていく方法は、国民政府がかつて四川に入った際に設けた各種組織や、工会や商会などの機能と、基本的に共通するものである。ただし、国民政府期と異なるのは、経済的に斜陽の時代にあった重慶において、政府の持つプレゼンスがこれまでにないほど大きくなり、企業経営者が政府との関係を取り持っていくことが、これまで以上に重要になっていったことである。こうした状況の中で、それまで企業間・地域間の利益を代表する自律的活動を行ってきた重慶の同業者組織は、政府による他律的企業統制組織としての性格を強めていった。このような中間組織の性格の変化は、のちに政府が民間企業を社会主義化していく際の、基礎的な条件となっていくのである。
 第三部「公私合営化へ(1949~1953)」では、「解放」直後における聚興誠銀行の自主的再編から、1953年に公私合営銀行へ統合されるまでの過程を、ソ連の銀行制度との関連を交えながら論じていく。
 第七章「重慶『解放』と聚興誠銀行」では、共産党政権による重慶「解放」前後の聚興誠銀行について、「幹部座談会」を中心に検討していく。「解放」当初、聚興誠銀行の内部では、重慶離脱と重慶残留という二つの立場が現れたが、銀行は共産党との関係を背景に、重慶において存続することとなった。共産党の理念に共鳴して残留したわけではなかった銀行の経営者たちは、社会主義化の即時実行はないとの認識から、地域的営業によって国家銀行である中国人民銀行に対抗していこうとする。その一方で、人民共和国の成立後、中国ではソ連の銀行制度改革の影響を受けて、単一銀行制度の確立が目指されていた。この時点で銀行の経営者たちは、共産党の政策や方針に備わる一定の説得性に呼応しつつ、まず経営陣の改組などによる自主的かつ現状維持的改造の方針を打ち出した。そしてここにおいて、かつて挫折した経営の多角化や事業銀行への転進という路線が、改めて浮上してくるのである。重慶「解放」の時点で、聚興誠銀行の経営者が、銀行の自主経営存続にむけた積極的な活動姿勢を貫いていることに変わりはない。しかしその後、朝鮮戦争の勃発など国際環境が激変するとともに、第六章で見たように民間企業を取り巻く条件が変化し、中国が急速な社会主義化への道を歩むことになると、状況は大きく変化していくこととなる。
 第八章「公私合営へ」では、銀行が聯営に参加して公私合営化し、そして幕を閉じていく過程をみることで、それを促していった要因を探っていく。朝鮮戦争の勃発など国際環境が激変する中で、中国は急速な社会主義化への道を歩むことになる。その際、中国人民銀行のような国家銀行は、営業面で私営銀行に対して必ずしも絶対的優位であったわけではなく、むしろ競合する関係にあった。両者の間に一定の緊張状態があったがゆえに、当時一定の割合を占めていた私営銀行の社会主義化を、政治的問題として行うという手法がとられた。一方で聚興誠銀行では、状況の変化への対応と、自身の財産保護の観点から、社会主義化を積極的に受け入れようとする人物が登場し、やがて銀行の接収へとつながっていった。これまで見てきたように、聚興誠銀行の経営者たちは1915年の設立当初より、常に複数の可能性を残しながら、場面に応じた選択を行ってきた。その行動は必ずしも首尾一貫しているわけではなかったが、その根底には、限定された状況の中であらゆる可能性を探ろうとする能動性と、自主独立経営を志向する自立性が常に存在した。しかしながら、このような能動性を基礎として行われた聯営の受け入れという選択は、経営者の自立性を失わせ、国家権力を背景とした他律的・広域的組織へ経営を委ねる結果になった。こうした流れが、銀行の接収と急速な社会主義化を促していったのである。

Ⅲ 結論
 以上のように、本論文では四川初の民間銀行である聚興誠銀行の事例を中心に、中国内陸地域における金融業の変遷過程について論じてきた。聚興誠銀行がたどって来た変遷の構図は、銀行の全国化・産業金融化路線と地域的商業銀行路線、言い換えれば、国家を背景とした他律的・広域的経済秩序に則った営業と、従前の自律的経済秩序に従った営業の間で揺れ動いた結果であったといえる。聚興誠銀行全体から見れば、対立の主体である銀行の経営者たちは、銀行の存続及び発展のためにあらゆる手を尽くして動いていたのであって、彼らにとって国家や党派は銀行存続のための一手段であった。共産党の理念に共鳴して残留したわけではなかった聚興誠銀行の経営者たちは、政権の交代後も、地域的商業金融経営と、政権機関への積極的関わりによって、国家銀行である中国人民銀行に対抗していこうとする。
 ところが、国民政府から政権を奪取した共産党政権は、既に早い時期から、ソ連の銀行制度に端を発する単一銀行制度の導入を決定しており、同時に公的機関における間接的支配体制を確立し、公共事業の発注や借款契約などにより大きな求心力を持っていった。またこれに加えて、重慶における商業金融の最大の需要者である山貨業や小売業の聯営及び合併を、1952年頃に進めていった。営業の根幹を揺さぶられた聚興誠銀行では、五反運動などの急進的な大衆運動を背景として、聯営への参加を受け入れることとなった。しかしこの聯営への参加は、経営者が銀行の直接経営権を放棄し、最終的には他律的経済秩序の具現者である国家銀行へ経営を委ねるという性格をもつものであった。こうして、聚興誠銀行の経営権は、実質的に経営者の手を離れ、共産党政権の側へ渡った。そして1953年、聚興誠銀行は公私合営化により、共産党の志向する単一銀行制度確立の波に飲み込まれる形で、38年の歴史を終えた。
 聚興誠銀行がその幕を下ろした後、楊粲三や楊受百など、銀行の主要な経営者たちは、当面公私合営銀行聯合董事会の董事とされ、株式配当などの利益を確保したが、もはや経営の実権を握ることはなかった。その後中国においてはソ連の単一銀行制度に基づいた金融統一が進められるとともに、農業の集団化や産業の社会主義化が実施され、国家による他律的・広域的経済秩序が完成していった。このような中で、公私合営銀行は1956年に中国人民銀行の民間工商業業務を行う専業銀行として国有化され、その姿を消すこととなる。その後大躍進、文化大革命といった急進的流れの中でも、状況に応じて積極的に動く能動的な人々の姿は失われることがなかったが、かつての自律的経済秩序が復活することはついになかったのである。
 

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