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博士論文要旨

論文題目:植民地期朝鮮における神社政策と朝鮮社会
著者:山口 公一 (YAMAGUCHI, Koichi)
博士号取得年月日:2006年3月28日

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 本論文は、朝鮮総督府(以下、総督府とする)の神社政策の展開を、朝鮮社会や朝鮮民衆の対応との相互関係を踏まえ、朝鮮植民地支配政策の一環として、対外関係を含め、歴史過程に位置づけていくことを課題とするものである。これは同時に、元来、日本人居留民社会における信仰に立脚していた神社神道が、なぜ朝鮮植民地支配政策上、重要視されるに至り、なぜ朝鮮民衆への神社参拝強要といった問題を引き起こすに至ったのかという朝鮮の神社の役割の歴史過程を明らかにすることでもある。
 序論では、研究史の整理と研究の設定を行った。1950年代から1990年代前半以前の研究動向は(1)海外神社史研究と(2)キリスト教への神社参拝強制史研究に分類できる。海外神社史研究は、主に海外神社の機能が植民地支配を正当化する思想の注入にあることを明らかにしてきた。キリスト教への神社参拝強制史研究は、キリスト教との葛藤関係を軸に、神社参拝強制を宗教政策として把握してきた。また、韓国の研究もこれと同様に、神社参拝強制を日帝の宗教的・思想的支配の一環として位置づけてきた。1990年代に入り、問題関心や方法論の多様化が進んだ。こうした研究の多様化を、(1)「支配と抵抗」の方法的深化、(2)植民地権力の地域支配の再編成と神社、(3)朝鮮民衆の「心性」理解の必要性、(4)日本の朝鮮支配と文化の具体相、(5)「祭神」の性格分析の深化、(6)「帝国史」研究の登場といった6つの特徴に整理した。
 課題の設定では、まず以上の6つの特徴が提起した従来の先行研究における3つの問題点を整理した。第1の問題点は、先行研究が専ら天皇制国家の植民地支配におけるイデオロギー注入を自明の前提として神社参拝の強要を扱ったことで、1930年代後半を対象とする時期に研究が集中し、それ以前の時期における朝鮮の神社の存在の意味が充分に検証しえていなかったことである。第2の問題点は、神社政策の意味を専ら朝鮮民衆に対する思想・信教の自由を抑圧する帝国主義支配の特徴として把握してきたことで、日本の朝鮮支配をめぐる世界史的環境や日本国内における政治状況との関わりのなかで、朝鮮の位置を捉えていく視点が充分でなかったことである。第3の問題点は、朝鮮民衆の神社参拝強要への対応が民族独立運動に一元化されてしまい、その多様な対応のあり方が見えてこないことにあった。
 以上の問題点を克服するためには、上記6つの特徴を取り入れつつ、朝鮮社会の動向を意識して、日本の植民地支配政策と神社政策との関連を改めて「帝国主義と植民地」という関係において位置づけることが必要と考えた。そこで、研究の方法として、(1)「統合」という視角の導入による神社政策の展開過程の把握、(2)総督府の重要政策課題との関係性を重視する視角、(3)朝鮮民衆の神社政策への「抵抗」の多様性を明らかにする視角、(4)神社政策が促した地域社会の支配構造の再編成といった4つの視角から、植民地期朝鮮における神社政策と朝鮮社会について分析を試みることとした。
 また、朝鮮における重要政策課題との関連を重視して、総督府の神社政策の展開と朝鮮社会の状況を検討するために、日本の朝鮮植民地支配政策を1910-1919年「武断政治」期、1919-1931年「文化政治」期、1931-1936年「満州事変・農村振興運動」期、1937-1945年「戦時体制(皇民化政策)」期の4つの時期に区分して分析を行うこととした。
 第1章では、1910年代「武断政治」期における総督府の神社政策の展開を、「国家祭祀」の整備過程として把握した。1910年代の神社政策は天皇の代替に伴う神社法令の整備と朝鮮神社創建計画を中心に進行する。一方で、神社自体は行政上「宗教」と共に扱われ、朝鮮における宗教管理統制法令によって総督府内務部が主管した。「韓国併合」以前から存在した居留民神社は、皇祖神天照大神を祭神とする大神宮と、農業神、海上交通の安全の神を祭神とする日本人居留民の素朴な信仰に立脚した稲荷神社や金刀比羅神社などが併存していたが、「保護国」政治や「韓国併合」という政治状況に影響をうけ、次第に天照大神を祭神とする神社が増加していくこととなった。明治天皇から大正天皇の代替に際して新たに創立された神社は、ほぼ天照大神を祭神としており、なかには明治天皇を祭神する神社も現れた。それは在朝日本人社会の「日本的アイデンティティ」を確保する機能を果たした。また、「併合」直前に神社関係者から「韓国の総鎮守」創建論が持ち上がり、一部の神道関係者が「素盞鳴神=檀君奉祀論」など「日韓融和」のために日韓人双方が奉祀可能な祭神の奉祀を主張したが、「韓国併合」という政治状況を受け、かき消されていった。朝鮮神宮創建計画は、韓国の「国家祭祀」である社稷壇祭祀に替わる「国家祭祀」の場として官主導で進められた。それは神社法令の整備とともに、朝鮮における天皇の「祭祀大権」の行使を意味した。これに伴い朝鮮の神社も神社法令によって「国家祭祀」を執行するにふさわしい体裁と設備を神社に要求され、これまで在朝日本人の信仰心から多数創立された居留民神社は整理されていった。神社の基準に未だ満たないものについては簡易神社である神祠として創立を認可することで、在朝日本人の信仰心を国家に統制された神社祭祀に回収しようとした。こうした「国家祭祀」の整備は、総督政治に従順な社会規範を創っていく基盤を整備するものであり、こうした社会規範からの逸脱を許さない宗教政策の成立を促すことにもなった。
 第2章では、1920年代「文化政治」期における総督府の神社政策の展開を、三・一独立運動後の宗教統制秩序再編を促したキリスト教や「朝鮮の総鎮守」として創建された朝鮮神宮と総督府の「国民儀礼」をめぐる葛藤と対立の過程として把握した。その際、1925年に行政上の「神社と宗教の分離」とともに盛んに総督府によって強調されることになる「神社非宗教論」に着目し、総督府とキリスト教系学校の「国民教育上の儀礼」とされた神社参拝の「宗教性」をめぐる認識の対立、総督府と朝鮮神宮の神社の「宗教性」をめぐる認識の対立を引き起こしたことを明らかにした。三・一独立運動後、総督府はキリスト教などの公認宗教に対する管理統制を弛め、布教の自由度をひろげて、朝鮮支配への「協力」を引き出そうとする一方で、安寧秩序を紊す恐れや諸法規からの逸脱の危険性があれば、布教施設の使用停止や禁止を可能とする枠組を新設した。1910年以来の神社と宗教の関係は、行政上も「分離」措置がとられ、朝鮮における宗教管理統制秩序の再編が促された。「神社非宗教論」はキリスト教系学校に対し、「国民教育上の儀礼」として神社参拝を迫る言説となったが、キリスト教系学校は神社不参拝を選択し、総督府の方針に抵抗した。これに対し、学務局長は処分があるとの意見を述べたが、内務局長は以後も「神社非宗教」論で説得をする意向を示し、結局処分されることはなかった。
 一方、朝鮮神宮鎮座祭を前に神社関係者との間で祭神論争がなされた。「檀君等合祀」によって「内韓融和」を祭神の奉祀においても実現すべきであるとした神社関係者に対し、総督府はこれを拒絶し、天照大神と明治天皇のみを祭神とする旨を決定した。これは総督府によって「文化政治」期に盛んに強調された「内鮮融和」が事実上、朝鮮人の日本人への「同化」の方針の下に図られるべきだとする立場を明らかにすることとなった。しかし、神社関係者の「檀君等合祀論」も、朝鮮統治上の「統合」のあり方をめぐっての一つの方法を提起したものであり、朝鮮神宮祭神論争はいわば朝鮮人の「統合」の方法をめぐる神学論争であった。
 総督府内務局は「神社非宗教論」に基づき朝鮮神宮の神前結婚式や守札(お守り)、神符(おみくじ)といった「宗教性」を抑制する立場をとった。結局、内務局は神社を利用した「思想善導」には消極的で、朝鮮神宮への設備投資などに影響が及ぶこととなった。当時の内務局は地方制度改編などによって朝鮮人地域有力者を取り込むことで朝鮮支配の「安定」を図ろうとしていた。また、キリスト教系学校との軋轢もあって、朝鮮神宮の「宗教性」を抑制しようとしたと考えられる。こうした状況の中、大正天皇から昭和天皇への代替の「国家祭祀」が行われた。また、大正天皇崩御の半年前に純宗(李王)が崩御するが、その際、朝鮮社会では「望哭」や撤市奉悼などの「哀悼」の意を示す行動が連日のように続いた。しかし、『東亜日報』では天皇の代替に関する報道も少なく、「哀悼」や「奉祝」を示す朝鮮社会の対応は冷ややかであった。また、昭和天皇の即位礼に際しては天皇代替に伴う政治犯の恩赦に対する関心が示されていた。1920年代においては、神社は朝鮮民衆に対する「国民統合」の手段としては本格的に重要視される状況にはなかったのである。
 第3章では、1930年代中盤までの「満州事変・農村振興運動」期における総督府の神社政策の展開を「国民儀礼」の浮上過程として把握した。
 世界恐慌の影響を受け、朝鮮の農村も窮乏した。こうした農村の窮乏を打開するとして、1932年に総督府は「農村振興運動」を開始する。「食糧の充実、現金収支均衡、負債償還」という目標を立て、朝鮮農民に営農意識の向上と生活改善を求めた。総督府が「農村の窮乏」の原因を朝鮮農民の「惰風」と見る発想は、宗教による朝鮮民衆の精神改造をめざす「心田開発運動」へと展開した。「心田開発」は神社や各宗教による信仰心の涵養によって、朝鮮農民の営農意識の向上や生活の規律化を図ったが、「国体明徴声明」の影響を受けて、「国体観念の明徴」、「敬神崇祖の思想及び信仰心の涵養」、「報恩、感謝、自立の精神の養成」が目標とされた。
 一方、「満州事変」の1年後、朝鮮においても各地で戦没者慰霊祭が行われた。慰霊祭へは児童生徒の参列が求められた。キリスト教系学校は、仏式で行われた慰霊祭への参加を拒否したが、平安南道は「国民的儀式」を神道式に転換する方針を打ち出した。その後、明仁皇太子、常陸宮の生誕などの「慶祝」が続き、神社での祭典とともに、奉祝行列など附帯行事が行われ、これまで同様、帝国日本の繁栄を奉祝する社会規範や慣習が朝鮮社会に印象づけられていった。1935年の2度にわたる「国体明徴声明」は、朝鮮において「国民儀礼」の重要性を説明する論理として機能し、平壌におけるキリスト教系学校に対する「国民儀礼」強要の動きにつながった。長老派系の学校長は神社不参拝を表明したが、平安南道や総督府はこれに対して、「校長罷免」という措置に出た。こうした平壌での流れを受けて、1936年4月には総督府学務局長はすべての教育機関に対して「神社非宗教論」に基づく神社参拝の事実上の義務化を通達した。以後、神社参拝を拒否した学校は廃校処分に遭うこととなった。
 1930年代中盤には、神社政策は朝鮮植民地支配政策上重要視されるにいたるが、そうした政策的な位置づけの上昇を示したものが1936年8月の神社制度改編であった。神社制度の改編では、京城、龍頭山両神社に国幣小社の社格を与え、神饌幣帛料供進制度を朝鮮にも導入することで、朝鮮に官幣大社-国幣小社-道供進社以下の神社-神祠という神社の社格体系を完成させた。こうした神社制度の改編は「満州事変」以降、東アジアで孤立化の道を選択した日本がより一層の帝国内における「国民統合」の必要性に迫られた結果であった。1930年代の神社政策は「国家祭祀」、「国民儀礼」を担う存在として、朝鮮植民地支配政策の表舞台に登場してきたのであった。
 第4章では、1930年代後半以降の「戦時体制(皇民化政策)」期における総督府の神社政策を「国民儀礼」強要政策の展開と位置づけた。総督府は戦争の拡大とともに朝鮮の地域社会の末端にまで「国民儀礼」の場を設置しようと試みた。神社制度の改編と一道一国幣社設置方針を基盤として、日中戦争期には一面一神社設置方針、護国神社設置方針、官幣大社扶余神宮造営計画によって、朝鮮の神社の体系は強化・補完され、アジア太平洋戦争期には、「大東亜共栄圏」の「中核的指導者」錬成と称して、禊祓の実践を行ったり、神宮大麻と神棚の普及による家庭の錬成道場化を図った。そこでの「国民儀礼」の実践は地域と職域という2つの系統から個人を二重に組織化し、朝鮮民衆の「皇民化」を図る戦争動員政策の一環として展開した。こうした「国民儀礼」強要政策に対し、朝鮮民衆はさまざまな対応を示した。第一に、キリスト教者の神社参拝拒否や潜在的なものまで含む反日意識を基盤にした抵抗・「非礼」言動の諸相である。第二に、自己の生命・生活を護るために、形式的に「国民儀礼」強要に「屈従」した者に見られる「面従腹背」の諸相である。第三に、生活実感によって立ち現れた「本音」の吐露から、神社施設等に対する「無関心」の言動が読み取れる。これらいずれのケースについても、個人の感情・言動が、神社参拝などの「国民儀礼」強要政策との葛藤として立ち現れてきた例であり、当該期に生きた朝鮮人が少なからず持っていた日常的な感情・「心性」であったといえよう。
 一方、総督府は、戦時体制期の朝鮮神宮の神社参拝者数の増加を植民地朝鮮における「国風移植」が徐々になされつつあるとの認識を示していた。総督府はそれを根拠に戦時体制下の朝鮮における「国民統合」の進展を自らの統治の成果として評価するが、こうした「国民儀礼」強要政策が、朝鮮民衆全体に対する「皇民化」を促したとは言い難い。「国民儀礼」に対する「不穏」言動の取締からは意識的にせよ無意識的にせよ、戦時体制下の朝鮮における社会規範から逸脱する朝鮮人の存在を確認することができる。事例は数少ないが、それらは氷山の一角を取り締まったに過ぎず、戦時体制を支えるべき朝鮮人の「協力」のあり方が形式的で脆弱であった実情を示していた。
結論では、各章で論じたことを踏まえて、序論で挙げた4つの視角から明らかになったこととして、1.「国民統合」の手段としての神社政策の展開過程、2.神社政策が促した地域社会の支配構造の再編成、3.朝鮮民衆の神社政策への対応について整理した。最後に、本論文が残した課題として、第一に神社政策と宗教政策との関係については1910年代から1920年代にかけての宗教管理統制秩序のあり方や1930年代の「心田開発運動」や戦争協力について若干言及するに留まった点、第二に朝鮮民衆の神社参拝への「抵抗」の多様性を明らかにする方法であった民衆の「心性」への接近が不充分なものとなった点を挙げた。これらについてはさらなる解明に努めたい。

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