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博士論文要旨

論文題目:戦後ドイツ公的年金保険の制度枠組の考察
著者:森 周子 (MORI, Chikako)
博士号取得年月日:2005年11月29日

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 本論文のねらいは、ドイツ(1990年以前に関しては西ドイツを指す)の公的年金保険(ドイツにおける正式名称は法定年金保険:Gesetzliche Rentenversicherung:GRV)の制度枠組の内容や機能を説明した上で、その機能が変容したことによって、今日のドイツ公的年金保険が抱える諸問題(年金財政の逼迫や、負担と給付の結びつきの不確実性)の克服が妨げられていることを明らかにし、さらにそのような制度枠組を年金政策立案主体(連邦政府や連邦保健省、年金政策に関する専門家委員会など)が一貫して支持し続けている理由を分析することである。制度面と思想面の両面から戦後ドイツ年金保険の制度枠組の形成及び展開を分析し、その機能が社会・経済変化、及び年金政策の展開によって、どのように変容していったのか、ということを考察している。
ドイツの公的年金保険は、賦課方式(Umlageverfahren)という財政方式によって、従前所得保障年金を賄うという仕組みで運営されている。本論文ではこの仕組みを、ドイツ公的年金保険の制度枠組と呼ぶ。賦課方式とは、被保険者の支払った保険料によって、同時期の年金受給者の年金給付を賄うという財政方式である。また従前所得保障年金とは、個々の年金受給者の現役時の所得水準に見合った年金額が保障されることを指す。ドイツではこのことは、被保険者個々人の現役時の所得水準、及び当該個々人の年金受給時における全被保険者の平均所得額が年金算定式に組み込まれることで果たされる。個々人の現役時の生産性に応じた年金額が動態的に保障される、このような年金算定のあり方は、動態年金(dynamische Rente)(又は生産性年金(Produktivitätsrente))と呼ばれる。
この制度枠組は、ドイツにおける戦後初の大規模かつ抜本的な年金改革であった、1957年年金改革(以下、1957年改革と略記)によって形成された。敗戦後の、賃金スライドのない積立方式に基づく年金額があまりにも低額であった従来の状況を打開するために、将来にわたる持続的な経済成長や、人口動態の良好な展開を見込んで、賦課方式によって、従前所得保障年金を賄うという仕組みがとられた。当時のドイツは、ナチス時代への反省や、社会主義への対抗といった側面から、社会的市場経済(Soziale Marktwirtschaft)という経済政策理念を掲げた(これは現在まで、政権交代などにも影響されず、持続されている)。完全競争市場を志向し、そのための枠組み作りとして国家が関わる、というような、自由に基づく経済政策を志向し、社会政策においても、経済政策と整合的で、個々人の自助を促進するため、拠出に見合った給付を中心とするような制度設計を目指した。また、当時の有力な社会政策思想であったキリスト教社会論(Christliche Soziallehre)や、Gesellschaftspolitik論なども、自助を促進し、また経済政策とも親和的な社会政策を目指すという点で、内容的に共通性を有していた。このような傾向は、1957年改革の下地となるプランを作成したシュライバーが、これら3つの思想のエッセンスをそのプランに盛り込んでいたことから、1957年改革によって、ドイツ公的年金制度枠組に結実した。すなわち、従前所得によって、個々人の現役時の所得水準に見合った年金が保障されることが保険原理の現れとされた。そして、ここにおいて特徴的であったのは、賦課方式が、社会的調整(ドイツにおいては保険原理の対概念として用いられる。拠出を伴わない、あるいは拠出を上回る給付を行うこと。扶養原理に相当する)ではなく、保険原理を担保するものとして理解されたことであった。現代的な理解においては、賦課方式は、世代間再分配のあらわれとして、一般には社会的調整として理解されるが、ドイツにおいては、1957年改革において、従前所得保障年金という、保険原理的要素の強い制度を担保するものという理解がなされた。このような理解のされ方には、キリスト教社会論の内容も関連している。すなわち、キリスト教社会論では、自助及び、その自助を促進するために、周囲の人びとが助け合う、という連帯性・補完性原理といったものが是とされており、賦課方式はそのような世代間の連帯性として捉えられ、自助を妨げず、むしろ促進するものとして理解されたのであった。
このような、一種独特の理解に基づく制度枠組は、改革後から1973年までの、いわゆる高度成長期においては、順調に機能した。高い経済成長によって賃金上昇率も高くなり、それに応じて賃金スライドで保障される年金額も上昇していたからである。このような状況を追い風として、1972年に当時のSPD(社会民主党)政権は、党の政策方針や、総選挙直前といった政治的な事情もあって、社会的調整の要素を多く含む、給付拡大路線の1972年改革を実施した。しかしそこには、当時の恵まれた経済状況を受けて、そこまで社会的調整を拡大しても、保険原理を妨げることはない、との、現在から見ればかなり楽観的な考え方があったといえる。
このように、高度成長期においては、年金政策立案主体が意識的に、制度枠組の機能における社会的調整要素を拡大していた。しかし1973年以降は、社会・経済状況の大幅な変化を受けて、年金政策立案主体の意図しない社会的調整要素の拡大が起こった。すなわち、オイル・ショックを契機とする経済成長の停滞傾向や、また時を同じくして顕在化した、少子高齢化の急速な進展によって、十分な数の現役世代から十分な保険料を獲得することによって成立してきた、賦課方式に基づく従来の制度枠組が立ち行かなくなることが明白になってきたのであった。すなわち、このような社会・経済状況においては、賦課方式は従前所得保障を担保する保険原理的な側面というよりも、むしろ、世代間の再分配を強め、老齢世代と若年世代双方に将来に対する不安を残すような仕組みでしかなくなっている。年金政策立案主体も、後代世代の確保という意図もあって、保険料を拠出していない児童養育期間を年金納付期間としてカウントする、などの措置を取ってはいるが、どこまで効果があるのかは疑わしい。
また、このような財政方式面での制度枠組の機能変容とあいまって、算定方式面でも、例えば児童養育期間など、保険料を拠出していない期間を保険料納付期間としてカウントしたり、あるいは1990年における東西ドイツ統一という歴史的事件のさいには、東西ドイツの年金保険制度の統合に伴い、旧西ドイツと比べて大変低水準であった旧東ドイツ市民の年金額を短期間で上昇させるための特別措置などといった、社会的調整的な措置が増大していった。このような、社会保険制度内で実施される社会政策的な配慮による措置は、ドイツでは保険外給付といわれ、保険料からではなく連邦がその費用を賄うべきだと、保険者団体からは唱えられている。連邦もそのための補助金を増額してはいるが、全額を充足しきれてはいない。
以上のことから、現行の制度枠組は、高度成長期においては年金政策立案主体によって明示的に、また低成長期においては、社会・経済状況変化によって年金政策立案主体の意図せざる形で、当初の保険原理強化という機能ではなく、むしろ社会的調整要素の強い機能を果たすようになってきている。
現在のドイツ公的年金保険は、このような社会・経済状況変化を受けて、財政逼迫を中心とする様々な問題に苛まれ続けている。年金財政の悪化の原因は、高齢世代の比率の増加や現役世代の比率の減少、平均余命の伸張、失業者の増加などである。そして、年金財政を健全化させるために、これまで、保険料引き上げや給付水準の削減などといった対応がなされてきた。しかしそのことによって、1957年改革以降重視されてきた、保険原理や保険料・給付関連性原則といったものが損なわれ、個々人の給付と負担の関連性がが曖昧になってきた。このことは、いわゆる「世代間の不公平」や、あるいは年金水準の低下といった形で顕在化している。すなわち、少子高齢化が進展する中で、必要な年金支出分に見合う保険料収入を賦課方式のもとで得ようとすれば、保険料を納付する若年世代の支払う保険料額の上昇は避けられない。また、それを回避するために、老齢世代の給付水準を引下げることも、個々人が獲得してきた年金請求権への恣意的な政治的介入につながりかねない。また、45年加入の平均的稼得者をモデル年金(標準年金)として措定して年金水準を論じていることも、実際にはそれよりも短い加入者が多いということから、問題視されている。
ドイツの年金政策立案主体は、公的年金保険の抱える上記の諸問題について、1957年以来の、賦課方式によって従前所得保障年金を賄うという制度枠組を随時修正していくことで対応してきた。そしてそのために、これまでの年金改革では、受給開始年齢の引上げや高齢者の就業促進、保険料率の引上げ、私的年金への加入促進などが実施されてきた。しかしこれらの改革によっても、事態はいっこうに改善されておらず、最近の世論調査などからも、公的年金保険に対する国民の信頼の低下が浮き彫りになっている。賦課方式によって従前所得保障年金を賄うという仕組みは、少子高齢化や経済成長の停滞といった状況下では、必然的に給付と負担の非対応性や、給付の不確実性などを招く。すなわち、若年世代の保険料負担は大きくなり、しかも老齢世代になってからの年金額は、後代世代の負担を軽減するため、といったような理由で、政治的操作によって削減されてしまう可能性もある。このように将来見通しの不透明な公的年金保険に対する国民の不安感は増大している。
そのような中で、むしろ現行の制度枠組自体を刷新すべきではないか、この制度枠組は高度成長期の社会・経済状況には有効であったけれども、1970年代半ば以降の社会・経済状況にはもはや適合的ではないのではないか、という疑問が、1980年代から提出されるようになり、基本年金の導入や、積立方式の導入などによって、現行の制度枠組を抜本的に改変しようとする提案が、各方面から見られるようになってきた。



及びこれまで多くの改革や改正が、1957年改革以来の制度枠組を存続させたままで実施されてきたが、諸問題の根本的解決には至っていない。現在のドイツ公的年金保険の制度枠組は、1957年に実施された年金改革(以下、1957年改革と略記)において形成された。この制度枠組は、ドイツの経済政策・社会政策の理念に沿うものとして、国民や政策立案主体からの幅広い合意を得て形成され、高度成長期においては順調に機能した。の制度枠組に当初付与されていた機能が、高度成長期、及び低成長期において変容したことによって、現在のドイツ公的年金保険が抱える諸問題が解決に至るどころか、さらに深刻化している、ということを指摘し、またそれにも関わらず、年金政策立案主体(連邦政府、連邦保健省、年金政策に関する専門家委員会など)が、なぜこの制度枠組を一貫して支持し続けているのか、という理由を考察することをねらいとしている。
ドイツの公的年金保険制度は、賦課方式によって従前所得保障年金を賄うという制度枠組みで運営されている。すなわち、財政方式は、1年を単位期間とする純賦課方式であり、また年金算定方式は、給付建てで賃金スライドという、動態年金(生産性年金)とも呼ばれる仕組みである。
この制度枠組は、保険原理や自助を強化すると期待されて、戦後初の大規模な年金改革である1957年改革において導入された。実際には、賦課方式で運営されている限りにおいて、また社会保険でもあることから、これは給付・反対給付均等原則というようなミクロレベルでの保険原理を担保する仕組みではなかった。しかし、1957年改革以降から、高度成長期にかけては、所得が大きく上昇したこと、またそれに連動して年金額も大幅に上昇したこともあり、あたかもミクロレベルでの保険原理が実現されているかのような、加藤榮一の言葉を借りれば「等価原則擬制」とも呼ばれるような状況が実現していた。
しかし、1957年改革の制度枠組に期待された機能は、高度成長期と、1973年以降の低成長期において、異なる方法で変質した。すなわち、まず高度成長期においては、
次に、1973年におけるオイル・ショックの勃発、また時を同じくして1970年代後半から1980年代にかけて顕著となった少子・高齢化の進展により、今度は年金政策立案主体の意図とは関係なく、社会・経済状況変化によって、制度枠組自体が変質するという事態が起きた。
実質的には社会的調整の要素の方が強くなっているように見受けられる。そしてそのことが現在における問題を増幅させているように思われる。
しかしそれにも関わらず年金政策主体は現行制度枠組を擁護している。なぜなのか?そのことを追求したい。
分析の方法としては、
まず、1957年改革の成立過程について、思想的背景と交えながら検討した。
この形は、高度成長期においては比較的順調に機能した。
しかし、オイル・ショックを契機とする低成長期への突入、またこの頃にちょうど顕著になってきた少子高齢化の進展により、制度枠組の見直しが迫られるようになった。1980年代には様々な抜本的改革案も出されたが、却下された。
 さらに1990年代には、ドイツ統一、及び経済のグローバル化の進展により、経済政策や雇用政策とも結びついた
 結局のところ、賦課方式への信頼が基盤となっている。関与等価性も。このことを認識して、改めて是非を問う必要があるのではないか、との問題提起を行っている。

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