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博士論文要旨

論文題目:現代トルコにおける民主政治とイスラーム政党―ムスリム社会の政教関係をめぐる一考察―
著者:澤江 史子 (SAWAE, Fumiko)
博士号取得年月日:2005年1月12日

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1.本論文の問題設定
トルコは1923年の共和制樹立以来、西洋近代化を目指して世俗主義を国是とし、そのための宗教政策や教育政策、文化政策を行ってきた。イスラーム的な国家体制が標榜され、世俗主義を否定する政治運動は憲法により禁止された。しかし、1970年に国民秩序党が最初の主要なイスラーム政党として誕生し、その後、国民救済党、福祉党、美徳党、公正と発展党と、党が憲法原則に反するとして非合法化されるたびに後継政党が結成され、しかも勢力を拡大してきた。1996年から1997年には一年にわたり、福祉党が連立首班として政権を握った。さらに、2002年11月の総選挙において、公正と発展党が約34%の得票率により大国民議会で単独過半数を獲得し、単独政権を樹立するに至った。いずれの政党も世俗主義の国是に反するとして非合法化されてきたにもかかわらず、過激化することなく、議会制民主主義の枠内で合法政党として活動する道を選択している。美徳党と公正と発展党にいたっては、政治と宗教の相互不干渉、個人の言論や信教の自由、西洋諸国との友好関係の深化とEU加盟推進を党の綱領に掲げている。こうした主張は主として1990年代に確立され、美徳党によって1998年に公に綱領に掲げられたものである。
トルコのイスラーム政党は、このように、いわゆる「イスラーム原理主義」にまつわる過激主義的で近代的な諸価値への不寛容といったイメージからはかけ離れている。しかし、イスラームの理念を政治活動により実現しようとする -したがって、論理的にはその先にはイスラームの理念にかなった政治や社会の完成を目指している- という点で、まぎれもなく政治的イスラーム復興運動である。そして、現実政治においてしばしば「原理主義的反動的勢力」として政治的争点とされ、軍部の政治介入を正当化する理由とされ、また、時には非合法化されてきた。つまり、イスラーム政党がどのように「原理主義」的であるのかが非常に曖昧である一方で、トルコにおいてもイスラーム復興勢力と世俗(主義)的勢力との間に摩擦が生じ、その摩擦はトルコの民主主義においてクリティカルな問題となってきたのである。
本論文は、このようなトルコのイスラーム政党と世俗主義体制との間の相克の過程を分析することにより、ムスリムが国民の大多数を占めるトルコの政教関係と民主化の問題を論じたものである。この問題を論じる際に枠組みとして問題となるのが、西洋近代以降の世俗的な政教関係規範である。すべての社会は西洋が辿ってきた段階を辿り近代化するとの西洋中心主義的、単線論的近代化論は、1970年代以降、批判され尽くされたかに見えたが、政教関係規範は批判を免れ、そして近代化論の最後の牙城としてイスラーム世界をめぐる政治的分析に適用されている。近代化論の立場からは、イスラーム復興は二重の意味で近代化の障害と考えられた。一つは、宗教復興は世俗化に逆らう流れであり、もう一つには、イスラームがそもそも政教一致の宗教であるために、イスラーム世界で近代化は不可能であるというものである。この点で、「イスラーム原理主義」は、このような近代化論にぴったりと当てはまる概念だった。それは、イスラームが近代に反対する時代錯誤的な本質を有するだけでなく、政教一致の神権政治体制を樹立し、人々を抑圧するような宗教であるとの前提に立っていた。
このような「イスラーム原理主義」やイスラームに関する通念と、トルコのイスラーム政党をめぐる政治的摩擦を照らし合わせた場合、以下のような問いが浮かび上がる。第一に、「イスラーム原理主義」やそれを根底で規定する世俗的な政教関係規範などの、基本的に西洋近代的な概念や枠組みによって、現代イスラーム世界における政治的な復興運動とそれをめぐる政治的展開を捉えることが適切なのか。第二に、イスラームをめぐる政治的摩擦は、「イスラーム原理主義勢力」という「時代錯誤的反動勢力」の問題なのか、それとも政教関係をめぐる紛争のかたちをかりた権力闘争に過ぎないのか、それとも、そのような位相とは異なる問題なのか。第三に、「イスラーム原理主義」の主要な特徴として、経典の直解主義(literalism)や預言者の時代の理想化が指摘されるが、それを反近代性や教条的硬直性の証とすることが妥当であるのか -近代以降のキリスト教の文脈のアナロジーでとらえてよいのか。第四に、イスラームをめぐる政治的摩擦は民主主義やそれに付随する現代的価値(信仰、思想の自由など)についていかなるインパクトを有しているのか。
本論文は、これらの問題意識にもとづいて、イスラーム世界における「政治的近代化」の優等生とされてきたトルコにおけるイスラーム政党の台頭とそれに伴う世俗主義体制との相克の過程を分析することにより、既存のイスラーム復興運動と世俗主義の概念、政教関係論を再検討し、その上で現代ムスリム国家としてのトルコの民主化と政教関係について論じたものである。

2.本論文の構成
 本論文の構成は以下の通りである。

序章
第一部:世俗主義体制のなかのイスラーム政党
第一章:世俗主義体制の成立とイスラーム:イスラーム復興をめぐる相克の原点
第二章:イスラーム政党の成立と初期条件
第二部:自由化と民主化の時代のイスラーム政党
第三章:周縁化される世俗主義:1980年代以降の政軍関係とイスラーム政策
第四章:政権政党への階段:イスラーム復興とイスラーム政党の両義的関係
第五章:福祉党連立政権の政策
第六章:「2月28日キャンペーン」の分析:トルコ的民主主義の限界
終章

3.既存の分析枠組みをめぐる問題と本論文のアプローチ
序章では、政治的なイスラーム復興運動の研究における分析枠組みの問題を整理した。まず、政治的なイスラーム復興運動の研究は、「原理主義」、「イスラーム主義」、「政治的イスラーム」といった概念が一般的に用いられてきた。これらの概念は、いずれもイスラーム国家の樹立とシャリーア(イスラーム法)の導入を目指す政治運動と定義されている。そして、そこにおける国家とシャリーアのイメージは、時代錯誤的で教条的、抑圧的、神権体制への親和性という意味合いを帯びていることが多い。しかし、トルコのイスラーム政党は、この概念に合致しておらず、これらの概念をそのまま援用することはできない。そこで本論文では、イスラーム復興という概念を用いた。この概念は、個人レベルの宗教的覚醒から社会的領域における復興、政治的領域における復興まで、社会の多様なレベルにおける復興を全体として理解しようとする点で特徴的であり、それらが相互連関性や相乗的ダイナミズムによって互いに影響しあい、政治的なイスラーム復興運動が展開する方向性を規定していることを明らかにできるという利点がある。この点は、政治的運動のみを切り取って分析する「原理主義」、「イスラーム主義」といった概念と対称的である。
序章では、その他に、現代西洋諸国においても政教関係の実体は異なっていること、そしてそれは各国の個別具体的な国家と教会・教団との関係の歴史に由来しており、したがって、今後も社会の宗教的状況の変化に応じて政教関係をめぐるコンセンサスも変化するものととらえるべきであることを指摘した。また、イスラーム世界の政教関係については、啓蒙主義的な政教関係規範やオリエンタリスティックなイスラーム観が、イスラームが神権体制を必然的に帰結するとの偏見をもたらしていることや、現代のイスラーム復興勢力も世俗主義に敵対するあまり、世俗的国家体制の裏返しとしてイスラーム的国家体制が独自のものとしてあると主張するようになったが、こうした主張が極めて近代的発想であるとの先行研究の成果を整理した。
さらに重要なことは、現代の政教関係規範において用いられている宗教や世俗的といった概念が西洋近代の産物であり、イスラーム世界にそれを適用することは適切ではないということである。カトリック教会が法的にも人的・組織的・空間的にも聖俗の区別をしていたのに対し、イスラームにおいてはそのような意味での聖俗の区別が地上において存在しなかった。第一に、イスラームにおいては聖俗の制度が二項対立的に併存していないということは、「イスラーム国家」においてすべてが聖(批判を許さない不可侵の絶対)であるということを必ずしも意味しない。つまり、あえて聖と俗という用語を用いるとすれば、俗人の統治者が聖なる規範の拘束を受けながら行政機構を通じて統治し、聖なる法源から聖に関する知の専門家たる俗人により引き出され構築された(したがって、運用ベースにおいては俗である)法制度により紛争や問題を解決していくことで、聖なる規範に依拠した正当(統)性を主張するような政治社会でありうる。また、聖なる知の専門家たちは不可侵の権力を有するわけでも、絶対的権力を頂点とするヒエラルキーを組織するわけでもなかったということは、近代以前のキリスト教西洋において見られた聖俗両権力間の厳しい緊張関係や世俗権力同士の権力闘争に教会権力が積極的に関与するという状況を生じにくくしたのである。
 このように、西洋中心的な政教関係の規範や概念をイスラーム世界に適用することはかなり問題があるといえる。しかし、現代のイスラーム復興勢力は、現代という時代の条件に大きく規定されていることも事実である。本論文において特に着目したのは、第一に、近代主権国家という枠組みである。現代は西洋近代が生みだした近代主権国家が地球上を覆い尽くした時代であり、しかもその国家は対外的にその領域の主権を主張するのみならず、対内的にも暴力装置の独占や住民の国民化を通じて中央主権的、一元的に国民を統括しようとする性質を有し、そのための制度を確立している。そこでは、公教育や国家行事などを通じて特定の国民アイデンティティの植え付け、他のアイデンティティの国民アイデンティティへの従属などが政策として実施されている。この過程でイスラームは国家に統制される存在ともなっている。こうした現代的条件のもとで、イスラーム復興勢力は国家体制に対してどのような関係にあるのか(体制権力を有する側なのか、体制と対立する側なのか)、あるいは体制はどのようなイデオロギーを掲げ、どのような政治制度を築いているのか、他の政治勢力といかなる関係にあるのかの違いによって、民主化にまつわる諸問題に対する主張が異なってくるのではないかということが検討されねばならない。
 第二に、現代のムスリムの間には「ムスリム意識の対象化」(objectification of Muslim consciousness)が見られると指摘が人類学者からなされている。[Eickelman & Piscatori 1996:37-39]。「ムスリム意識の対象化」とは、国民教育制度やマス・コミュニケーションといった近代的制度や技術の普及にともなって、一般の人々が他地域のムスリムと非ムスリムの伝統やイスラーム理解の多様性を意識するようになった結果、自分の宗教や信仰を再認識し、より深く理解しようと意識的にイスラームにアプローチするようになる現象である。このような個人の意識的営為としてのイスラーム解釈と実践を基盤とするイスラーム復興は、少なくとも二つの重要な結果をもたらしている。第一に、伝統的な宗教権威が相対化していく。その一方で、必ずしも伝統的なイスラーム学の訓練を積んでいないが近代科学や社会科学の専門家として国を引っ張っていく立場にある知識人の意見が、国家の発展を願う一般ムスリムにアピールするという環境が成立している。そうした新しい知識人による伝統的イスラーム学の方法や立場から自由な解釈が、現代のイスラーム復興運動の政治思想や言説構築の点でも、世俗的教育を受けた若者を動員する上でも、重要な影響を持つようになっている。
本論文においては、現代トルコにおけるイスラーム政党を規定するこの二つの条件について具体的に検討することによって、イスラーム政党がいかなる政党として発展してきたのか、世俗主義体制との相克の過程はいかなるものであったのか、そしてトルコの民主化の深化という問題において何を意味する存在となっているのかについて考察した。

4.本論文の内容
 第一部では、現代トルコにおけるイスラーム復興勢力とイスラーム政党を規定する条件を具体的に検討し、トルコで最初のイスラーム政党がいかなる理念を掲げ、どのような人々により結成されたのかを検討した。
第一章では、イスラーム政党を規定する最大の条件としての世俗主義体制のイデオロギーと体制がいかなるものであるのかを明らかにした。ここでは、世俗主義が政治社会の非宗教化・西洋化を現代文明の証とみなす啓蒙主義的思想に基づいており、政治社会の非イスラーム化を達成するために国家が宗教的領域を強制力を行使してでも管理・統制するような体制が樹立されたことが明らかにされた。そのような思想的背景のもとで、建国後25年ほどは権威主義的な一党制による体制確立が目指され、その後複数政党制に移行した後も、軍部を中心として、司法機関、大学などの国家機関が世俗主義体制の維持のために実力行使をしてくことになる。他方で、建国後の世俗化改革の結果、従来のイスラーム的公的制度は廃止され、イスラーム的知の伝統を継承することも困難となるなかで、イスラーム復興勢力も世俗主義体制の教育制度のなかから輩出されていく。また、イスラーム復興勢力もオスマン帝国の崩壊からトルコ共和国の成立への闘いを支えたとの自負が強く、現代の国家の枠組みの中でいかにトルコをイスラーム的理念に依拠しながら発展させ、オスマン帝国の栄光を再興できるのかという問題意識に基づいていた。この問題意識は復興勢力を既存の国民国家の枠内で近代化を志向する運動として規定し続けていくことになる。
 第二章では、1970年に結成された最初のイスラーム政党の国民秩序党とその後継である国民救済党の党綱領と、党幹部や支持基盤のプロフィールについて検討した。これらの政党は、ミッリー・ギョリュシュというイスラーム的ヴィジョンを掲げて活動した。それは、トルコ国民がムスリム性を保持しつつ、イスラーム的に公正な社会として発展することを目指していた。具体的には、世俗主義体制は反イスラームであり、体制下で既得権益を獲得している大企業は外国資本の下請けと化して国民の大多数を搾取するだけだと批判し、地域格差や階級格差を縮減するために、国内各地の中小企業の振興による国産技術の開発とそれに依拠した産業化を提唱した。また、国民の精神的発展のために、宗教教育の拡充を主張した。外交においては、反西洋的立場からムスリム諸国との協力や同盟への転換を主張した。この時期のイスラーム政党を牽引したのはテクノクラートとして国家の発展に務めるエリートであり、支持層は中小企業や地方の宗教保守層であった。
 第二部では、1980年の軍事クーデターにより仕切り直しをされたトルコの政治空間において、国際政治経済的潮流に後押しされて、経済自由化と政治的自由化が常識となった時代において世俗主義体制とイスラーム政党がそれぞれいかにイデオロギーや言説を変化させていったのか、そしてその変化の結果、体制とイスラーム政党の対立の構図がどのように変化したのかを明らかにした。
 第三章では、1980年の軍事クーデターの後、軍事政権がイスラームをトルコ民族性と並べて国民アイデンティティに組み込み、そのことにより政治社会の安定を図ろうと世俗主義を修正したことを指摘し、その結果、民政移管後のトルコではイスラーム実践がより自由となり、イスラーム復興の現象が経済から文化まで他領域で見られたことを確認した。この時期に非常に重要なことは、民主化後の中道右派政権を率いたオザル首相が生みだした新しいムスリム政治家像である。すなわち自らも敬虔なムスリムであるオザル首相が世俗的政治体制を否定することなく政治や経済の自由化を断行したことが、宗教実践の自由を拡大することに成功したのである。加えて、敬虔なムスリムであることと現代的で有能な人間であることは矛盾しないとの肯定的なムスリム政治家イメージが国民の間に広まったことである。1980年代以降のイスラーム政党である福祉党は、このオザルの政治スタイルと競争していかねばならなくなった。また、世俗的立場の知識人の中で、民主化や自由化を促進すべきだと考える人々が宗教的実践についてもそれが民主化や自由化に逆行しない限り、当然の権利として保障されるべきだとして、権威主義的な世俗主義体制を批判する著名人が登場した。このことはイスラーム復興勢力にとって、世俗主義体制に対して共闘できる世俗的勢力が登場したのである。
 第四章では、支持が伸び悩む福祉党が二つの戦略を採用したことが、福祉党に変化をもたらしたことを明らかにした。まず、福祉党は、反体制であり政治的不安定を引き起こしかねないとのイメージが誤ったものであり、党は反動主義的でも反体制でも軍部に敵対的でもなく、公正な政治経済を実現しようとする政党であると宣伝するようになった。また、福祉党は、支持基盤を拡大すべく、草の根動員型の組織を作り、都市の貧困層地区を中心に大いに支持をのばした。こうして福祉党は1994年地方選挙でイスタンブルやアンカラなど大都市部で勝利をおさめた。オザルが醸成した政策本位、結果重視の政治スタイルを踏襲した福祉党市政は、市民の日常生活環境の改善など目に見える成果を収めることに成功し、1995年の国政選挙でも議会第一党となった。この時期に、党内では国際政治や経済の専門家をリクルートすることで、変動する国際政治経済状況に対応しようともしていた。こうした現実の変化への対応策は、その後大きな意味を持ってくるのである。
 第五章では、1996年に誕生した福祉党連立政権の政策について、財政政策と外交政策に焦点をしぼり、1970年代のミッリー・ギョリュシュに照らして検討した。その政策は、根本的には、イスラーム的理念に基づきながらも、外交については、冷戦終焉という国際政治の新しい条件や、今後の国際経済の見通しに依拠したものであり、財政政策についても性急で極端な体制変更や政策変更ではなく、現実的政策を行いながら漸進的に方向転換を遂げようとしていることが明らかになった。
 第六章では、軍部を中心とする世俗主義体制の構成機関やマスメディアらが、福祉党連立政権の崩壊から福祉党の非合法化、福祉党を支持するイスラーム復興勢力の弾圧を実現した「2月28日キャンペーン」の過程を分析した。「2月28日キャンペーン」は、1980年代以降の世俗主義の修正を自ら否定し、共和国建国当初の世俗主義に回帰しようとするものであった。「2月28日キャンペーン」は福祉党とその支持層の間で、民主化と思想や信仰の多様性を党の中核的主張として党のプログラムを組み替えることなく、国民的信頼を獲得して安定的政権を確立することはできないとの反省を喚起した。また、福祉党から美徳党への移行過程では、福祉党支持のメディアにおいて福祉党が克服すべき課題が論じられたことも大きな特徴であった。その結果、福祉党を引き継いだ美徳党は、民主主義、自由、人権などを党の主要理念とした。こうして、美徳党以後のイスラーム政党は民主主義や自由と従来通りの発展政策やイスラーム的価値の擁護を組み合わせた綱領を掲げていくのである。
 他方で、世俗主義体制は、共和国当初の世俗主義に回帰しようとするものの、イスラーム復興が社会的現象となった1990年代においてそれは容易ではなく、イスラーム政党を支持するイスラーム復興勢力を「反動主義者」として「一般のムスリム」から区別し、後者を擁護するという政策をとらざるを得ないのであった。また、EU加盟を「西洋文明化」の証と捉える世俗主義勢力にとって、1990年代に高まったEUの民主化・人権擁護圧力はイスラーム復興勢力を力でねじ伏せようとする「2月28日キャンペーン」と矛盾するものであった。こうして、「2月28日キャンペーン」はイスラーム復興勢力にとっては同時代的政治経済的条件に対応して次のステップへ進む効果をもたらしたのに対し、世俗主義体制にとっては、ムスリム社会の世俗化と民主主義の背反というディレンマをより浮き彫りにすることになったのである。

5.結論
 本論文を通じて明らかになったのは、トルコのイスラーム政党は、イスラーム的に公正な社会の発展という党の根本的理念については妥協することなく、政治経済的条件の変化や国内諸勢力との関係の変化、党の組織の変化に応じて、柔軟に言説を変化させ、反体制と反西洋を強調する政党から、民主化や社会の多様性を擁護する政党へと発展してきたということである。また、その過程において、党支持層の世論を形作るマスメディアや、草の根的動員組織の確立によって党に意見する回路を獲得した底辺の支持層が、党の変化すべき方向性を決定する上で重要な役割を果たしていた事が確認された。
このようなトルコのイスラーム政党の発展と変化の軌跡は、イスラーム政党の概念を拡大することを要請しているといえる。つまり、世俗的民主主義の統治体制とは異なる主張のみを問題とするイスラーム主義の概念に立脚した狭義のイスラーム政党の概念から、イスラーム復興の多元的レベル(個人の覚醒から政治運動まで)と多様な領域(政治、経済、社会)をまたぐダイナミズムを媒介し、それに影響される存在として、広義のイスラーム政党の概念に移行することが重要だと思われる。
広義のイスラーム政党の概念は、イスラーム復興と民主化が同時に進行しつつあるムスリム社会の政教関係について、多様なイスラーム的ヴィジョンを有する政党が世俗的政党と政策を競い合い、国民の政治参加がより実体的なものとなり、多様性と自由を包摂するようなムスリム社会が発展する可能性を排除しない。今後は、この点についてより具体的に検討すべく、イスラーム世界各地のイスラーム政党と民主化や自由化との関係について比較論的な実証研究を進めていくことが必要となる。

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