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博士論文審査要旨

論文題目:資源分配における妬みの適応的機能-資源所有者の分配志向性と資源の分割容易性の影響-
著者:井上 裕珠 (INOUE, Yumi)
論文審査委員:村田 光二、稲葉 哲郎、安川 一、阿久津 聡

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1. 本論文の概要
 本論文は、社会的に望ましくないと思われている「妬み」というネガティブ感情を、なぜ私たちは抱くのかについて、進化論的議論に依拠しながら社会心理学の観点から論じ、実証的に検討した成果である。
申請者によれば、人類が霊長類の祖先から進化してきた環境において、人は食物資源を互い分け合うことによって生存と繁殖を計ってきたが、自分が獲得した食物を占有できる機会が常にあったという。その占有者の出現を察知して妬むことは、独占されかかった食物の分配を促す役割を果たし、妬む人の適応価を高めたと論じている。もちろん、妬む人の個人的利益追求が過ぎると、その人の方が社会的に排斥される可能性が高まるだろう。このように、社会関係の微妙なバランスを保つなかで、人類にとって適応的機能を果たしてきた感情として妬みをとらえることが可能だと第一部で論じている。第一部では併せて、従来の妬み感情に関する社会心理学研究をレビューして、その問題点を論じている。
第二部では、この適応的機能の視点から妬みが生起する条件を見直して、申請者は2つの要因の役割を実証に研究した。1つが、資源所有者の分配志向性で、一般には分配志向性の高い人に要求する方が資源をたやすく得やすいだろう。しかし、妬みはむしろ食物資源を占有しやすい人から分配を引き出す役割を果たしてきたので、「分配志向性が低い人に対して抱きやすい」という新規な仮説を申請者は立てた。ただし、実際に資源を分配してくれるかどうかは資源そのものの性質に依存し、分割容易性の高い資源であるときのみ、この仮説が成り立つと併せて論じている。この仮説は、資源所有者が妬みを抱く相手に遭遇した場合に、実際に資源分配をするようになることを前提としている。特に、分配志向性が低い資源所有者であっても、分割容易な資源を所有している場合には、妬んでいる相手に資源を分配しやすくなることが前提になる。第二部の前半ではこれらの現象が存在するのかどうかを実証的に検討して、支持する証拠を得たことを説明している。その上で、本論文の主たる仮説を、自ら実施した調査や実験など実証的研究のデータを分析して検討し、支持する証拠を得たことを報告している。
第三部では、第二部で示した実証的研究の成果をまとめ、その問題点と今後の研究の方向性について論じている。併せて、本論文の成果から、妬むことと妬みの知覚が分配行動に影響するプロセスについて理論的考察を深めている。

2. 本論文の成果と問題点
 本論文の成果は、妬み感情の適応的機能が資源の分配促進にあることを議論した上で、その議論から導かれる仮説「分配志向性の低い資源所有者が分割容易な資源を持つと知覚した場合、その知覚者の妬み感情が高まりやすい」を心理学実験によって検討し、確かな証拠を得たことである。この成果は高く評価され、本論文の第5章の実験研究の部分(実証研究4~6)は、査読を経て国際的な学術誌に論文として公刊されている。
 それに加えて、妬み感情が資源所有者から実際に分配を引き出すこと、特に分配志向性が低い人でも分割容易な資源を持つ場合には、妬まれるとそれを分配しやすくなることを実証的データで示したことももう1つの成果である。これは、第4章の3つの実証研究(1~3)のところで説明されている。
 本論文で支持された2つのオリジナルな仮説は、ネガティブ感情の適応的機能を議論する中から導出されたものであるが、適応的視点から感情を論じる近年の心理学研究の動向を的確に捉えて、その応用範囲を広げたことも第3の成果として指摘できる。怒り、恐れ、嫌悪といった基本感情だけでなく、近年では恥、罪、プライドなど、自己意識的感情にも適応的機能を想定する理論的アプローチが盛んになっているが、妬みに応用した最初の研究の1つだと考えられる。
 理論的な点で第4の成果を指摘すると、妬み感情の適応的機能を対人関係の中で捉えるよう議論している点である。妬むことが機能するのは、妬まれた人がその妬みを知覚して、資源分配という行動によってそれに応じることがあるからである。もちろん、妬む人も相手の分配志向性を知覚する必要があり、対人認知の能力が妬みの生起に関わっている。資源所有者が占有傾向を強めて対人関係を悪化させる可能性もあるが、他方で妬む人自身が対人関係を悪化させる可能性もある。このように、妬み感情の適応的機能を対人関係の中で捉える視点が今後の研究にとって重要だろう。
 以上のような成果が認められるものの、本論文にはいくつかの問題点も指摘できる。まず、妬みを対人関係の中で捉えてはいるが、資源所有者の分配志向性をどのように知覚できるのかまだ未解明のままである。また、妬みをどのように表出したら、資源所有者が知覚できるのか、十分に解明されたわけではない。本論文の研究では、これらの知覚が可能であることを前提とした上で議論が行われているが、必ずしも正確に知覚できない条件も十分にあり得るだろう。今後はこれらの点も研究が必要である。
第2に、対人関係の視点だけでなく、集団における適応の視点から、妬み感情をとらえることが望ましいだろう。妬み感情は資源所有者から分配を引き出すだけでなく、報復や攻撃を引き出すかもしれない。しかも資源所有者は高地位で、大きなパワーを備えていることも多いだろう。その場合でも、周囲の第三者が妬む者を保護したり支援したりしてくれれば、妬む者の方が生き残ることが可能だろう。集団の多数が、資源占有者よりもそれを妬むものの方を支持している事態であれば、その妬みは適応的であると考えられる。
第3に、得られた実証データには調査研究や、質問紙を用いたシナリオ実験が多い。質問紙に描かれた状況を想像しながら、そのときの感情状態を報告させる方法の必要性や有用性も理解できるが、現場で直接経験される感情状態とは必ずしも同じ内容ではない。今後の研究では、より心理的リアリティの高い実験を考案し、社会的望ましさによるバイアスが少ない方法で測定できるよう、手続きを工夫できるとよいだろう。
 もちろん、以上の問題点は本論文の成果と水準の高さを損なうものではなく、著者自身も十分に自覚しており、将来の研究において補われ克服されていくと期待されるものである。

最終試験の結果の要旨

2016年2月10日

2016 年 1月 5日、学位請求論文提出者・井上裕珠氏の論文について最終試験を行った。本試験において、審査委員が、提出論文「資源分配における妬みの適応的機能-資源所有者の分配志向性と資源の分割容易性の影響」に関する疑問点ついて逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも十分な説明を与えた。
よって、審査委員一同は、井上裕珠氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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