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博士論文審査要旨

論文題目:「下町らしさ」のパラドックスを生きる―変貌する東京インナーシティのエスノグラフィー―
著者:金 善美 (KIM, Sunmee)
論文審査委員:町村 敬志、小林 多寿子、堂免 隆浩、小浜 ふみ子

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1. 本論文の概要
 本論文は、東京の下町地区を対象に、衰退の危機に直面した住工混在の木造密集住宅地域において30年以上にわたり展開してきた多様なまちづくり活動の実践が、地域社会の再生と変容の過程にどのような影響を及ぼしてきたかを、4年間に及ぶ現地居住を含む長期のフィールドワークをもとに分厚く描き出す作品である。東京インナーシティにおける「まちづくり」実践を代表する対象地は、「下町らしさ」を軸にその活性化を図ってきた。そうした実践の「成功」は何を地域にもたらしたのか。ローカル・アイデンティティ形成に収斂していく「まちづくり」がもたらした種々の帰結を、その課題とさらにそれを乗り越える動きとともに詳細に解明した点に、本論文の大きな特色がある。

2. 本論文の成果と問題点
 本論文の成果は、大きく以下の三点に分けて指摘することができる。
 第一に本論文は、すでに大きな潮流となった「まちづくり」という実践を対象に、それがもたらす「意図しない結果」としてのパラドックスを含め、その展開と帰結を、明快な論理と分厚い実証作業により提示することに成功した。工業化の作り出した近代都市が大きな壁にぶつかって以降、「まちづくり」は地域再生の試みの中心を占めるようになり、多数の研究者を引きつけてきた。しかしその多くは表層的な礼賛かまたは図式的な批判にとどまり、一面的な「まちづくり」像しか提示できてこなかった。本論文の最大の貢献は、下町における「まちづくり」の実践が、ものづくり、防災、アートなど異なる契機とその担い手に立脚点をもちながら、同時にそれらの柔軟で力動的な接合の試みを通じて、新たな「地域」を創造する力を用意してきたことを、十分な説得力をもって明らかにした点にある。
第二に、こうした課題に取り組むのに際し、著者は7年間に及ぶ長期のフィールドワークを実施してきた。とりわけそのうちの4年間は当地に住民として居住をし、さまざまな活動に参加をするなかで進められた。こうした意欲的かつ地道な作業の結果として、本論文は、多くのパラドックスを抱えながらもそれを人びとが「生きる」ことを通じて生み出されていく多層的な意味を描き出すという点で、抜きんでた成果をあげた。ただしメリットは記述の豊かさだけにあるのではない。本論文で同時に特筆すべきなのは、膨大な資料・記録をもとにしながらも、著者が4つの「まちづくり」モデルへとそれらを集約させていく優れた論理構成力にある。とかく印象論が先走る「まちづくり」研究において、本論文の明晰さは著者の力量を示す点として際立っている。
第三に、本研究は、東京下町を対象とするローカルな調査報告ではあるものの、その理論的射程は広範な拡がりをもつ。衰退する大都市インナーシティの「再生」策の「成功」が、巡り巡って地域社会の解体を招くという逆説は、S・ズーキン以来の諸研究をはじめ、国際的なジェントリフィケーション研究の基本的モチーフのひとつであった。この意味で本論文のテーマは、単に日本だけでなく世界の資本主義大都市が直面する共通の課題でもある。もともとグローバルな都市研究からスタートした著者は、執筆過程で国際的な研究プロジェクトにも参画するなかで、その分析に磨きをかけた。本論文はこうした国際的な水準においてさらに展開させていく大きな可能性をもつ。
以上のような成果が認められるものの、本論文にはいくつかの問題点も指摘できる。
 第一に、多層的なまちづくりを通じて形成される担い手像の描写はきわめて豊かである反面、本論文においてそれらは、ローカル・アイデンティティという共通概念に収束させられてしまう。しかし、現実に暮らす人びとは複数のまちづくりモデルに関わることが珍しくない。むしろ特定のアイデンティティに回収されていかない点に、この事例の特色があるようにも見える。こうした複合性を含め、人びとを動かしていく重層的で変化に富んだ主体の動機づけ要因については、その構造的な背景を含め、さらに説明が必要である。
 第二に、エスノグラフィーという手法を採用した本研究が、固有の成果としてそこから何を引き出し、それをどのような文脈において提示していくのか、この点については論文のなかで揺れが見られる。一方で、本論文は方法論的周到さにおいても記述の豊かさに   おいても、一級のエスノグラフィー作品としての特徴をもつ。しかし同時に、学術論文としての本作品が現時点で示した達成点の多くは、むしろ多様性のなかから大胆に単純化を行う明快さや「思い切りのよさ」に基づく。ときとして、その分析はシンプルすぎるようにも見える。エスノグラフィーという手法をどのように生かすのか。この研究をどのような文脈に位置づけられる仕事として発展させていくのか。この点には、まだ検討の余地がある。
 ただし、これらの諸点は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、金善美氏自身が十分に自覚しており、近い将来の研究において克服されていくことが十分に期待できるものである。

最終試験の結果の要旨

2016年2月10日

2016年1月18日、学位請求論文提出者・金善美氏の論文について、最終試験を行った。 本試験において、審査委員が、提出論文「「下町らしさ」のパラドックスを生きる―変貌する東京インナーシティのエスノグラフィー―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、金善美氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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