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博士論文審査要旨

論文題目:環日本海地域社会の変容と近代日本
著者:芳井 研一 (YOSHII, Kenichi)
論文審査委員:吉田裕、糟谷憲一、加藤哲郎

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一、 論文の構成

 本論文は、日本海をはさんだ諸地域が近代の国民国家が編成される時期にたどった歴史的軌跡を、国家間関係という従来の枠組みではなく、「環日本海地域」という新たな枠組みの中で実証的にとらえ直そうとした研究である。本文の部分だけで400字詰原稿用紙に換算して約760枚に及ぶ大作であり、その構成は次のとおりである。

 はじめに
 第1部  国民国家形成期の環日本海地域
  第1章  変容する環日本海地域社会
  第2章  「間島協約」の成立
  第3章  「裏日本」の対外認識
 第2部  第1次大戦前後の環日本海地域
  第4章  天図鉄道敷設問題
  第5章  満鉄培養線敷設問題
  第6章  大正デモクラシー期の環日本海論
 第3部  田中・幣原外交と環日本海地域
  第7章  安東領事館分館設置問題の波紋
  第8章  吉会鉄道敷設の政治過程
  第9章  「間島」と柳条湖事件
 第4部  「裏日本」と環日本海
  第10章  吉会鉄道の全通
  第11章  「日本海湖水化」論
  第12章  「裏日本」脱却の夢と現実
 おわりに

二、本論文の概要

 第1章では、「辺境」であったため、遅れて国家間対立の渦の中に巻き込まれることになった環日本海地域のうち、特にウラジオストク・間島(延辺)・東三省(満州)に焦点をあわせて、変化の具体相が分析されている。この地域に国家間対立を最初に持ちこんだのはロシアであり、その拠点となったのがウラジオストクだが、この章ではウラジオストクを通じた貿易の推移と諸地域との関係を追いながら、1914年以降はその輸出相手国の第1位を日本が占めるようになったことが明らかにされている。他方、間島では当初中国人向けの琿春や吉林を経由する貿易が盛んであったが、清会鉄道(清津―会寧間の鉄道)の開通に伴なって第1次大戦以後には貿易品の中心は清津港ルートのものとなり、朝鮮との経済的結びつきが強められてゆく。

 また、東三省では1910年代から20年代に輸出作物としての大豆などの穀物生産が伸張し、その担い手である中国人有力資産家が各地の商会や省議会を拠点にして張作霖軍閥政権との間にある種の政治的緊張関係を生み出す。同時に、人口の推移に着目してみると、ウラジオストクの人口増加率は1910年代に入ると鈍化するのに対し、東三省では1910年以降も急激な人口増が続き、間島では朝鮮人人口が急増する。また、日本側諸県の人口は、産業革命期以降は停滞期に入り、「表日本」諸都市の急激な人口増と対照的な「裏日本」化が進展する。

 第2章では、日露戦争の前後から日本が間島地域に帝国主義的な進出を行なってゆく政治過程が分析されている。特に日露戦争後、外務省は「満州」から韓国に至る地域のヘゲモニー確保の立場から、また陸軍は対露戦の軍事的必要から、相互に対抗しつつ同地域への介入を強め、この結果、1908年には中国政府との間で「間島協約」が締結され、日本側は同地域における中国政府の主権を認めたものの、領事館の設置、将来における吉会鉄道工事の着工を中国側に認めさせ、新たな介入の足場を確保した。また、この交渉の過程で陸軍が、対露作戦のために「鉄道第一主義」の立場に立ち、吉会鉄道(吉林―会寧間の鉄道)の敷設に固執したことは、その後の歴史の展開に大きな影響を及ぼすことになる。

 第3章では、日露戦争前後の時期からの、日本の日本海側の諸地域における対岸認識が克明に分析される。著者によれば、日露戦争以前には、国家はその領域内の諸地域の不均等を是正する使命を持つという地域的均等発展論とセットの形で、軍事力ではなく貿易によって、日露間の地域間交流を盛んにしようとする議論が一定の影響力を持った。しかし、日露戦争後には講和反対運動に見られるように、専制政府批判、社会問題に対する自覚の深まり、普選要求などと表裏一体の関係で、軍事力によって獲得した利権の上に立って、対岸地域との貿易拡大を求める潮流が強まった。一方では、経済的相互依存関係の構築に主眼をおく人々もいたが、多くの人々は、国家への依存による「裏日本」状況からの脱出、対岸への帝国主義的な経済発展に希望を見出したのである。

 第4章は、天図鉄道敷設問題である。日露戦争後、日本政府は対露作戦の戦略的要請から、朝鮮の清津港の開発、同港から間島をへて吉林に至るまでの鉄道路の整備に力を注ごうとした。しかし、中国政府が吉会鉄道の工事着工をなかなか認めなかったため、日本政府は同線の予定ルートとほぼ重なる天図軽便鉄道(天宝山―地坊間)の建設を意図し、あくまで私企業による事業を支援するという形式をとって鉄道建設を推進した。その際、中心となったのは外務省であり、同省は間島における「不逞朝鮮人」問題対策という治安政策上の必要性を強く認識して、その建設に積極的に関与したのである。

 ところが、これに対して東三省の住民からは広範囲な反対運動がおこった。結局、鉄道は完成するものの、この反対運動を通じて地域の住民は、東三省民、さらには中国の国民としての共通意識を強めていった。そして、日本政府が直接の交渉相手とした北京政府や張作霖政権は、こうした反対運動を有効に統制する力をすでに失っていたのである。

 第5章では、ワシントン体制下において日本が熱心に推進した満鉄培養線敷設問題がとりあげられる。この時期、日本側は、列強に対する配慮から満鉄を正面に立て、中国側の自前鉄道建設に応える形をとって培養線の建設を進めようとした。特に幣原外交は、中国側の自弁鉄道建設要求を一部認めつつ、その交換条件として対ソ戦準備の観点から陸軍が要求する?斉線(?南―斉斉哈爾間)の建設を中国側に認めさせたのである。

 第6章では、大正デモクラシー期の環日本海論の諸相が具体的に明らかにされている。一つは新潟県人脈による雑誌『中外』の創刊である。同誌は小国主義の立場から朝鮮や中国に対する帝国主義的な政策の放棄と環日本海諸国の平和的交流を主張しただけでなく、日ソ国交回復運動にも積極的に取り組んだ。もう一つは、松尾小三郎と大庭柯公の環日本海論である。松尾は、近代日本の中心的な矛盾を「資本的表日本と民衆的裏日本」の中に見いだし、その「民衆的裏日本」の対岸地域への平和的な発展によって、中央政府の政策の結果もたらされた地域的不均等を是正しうるとする日本海中心論を主張した。また、大庭は、この地域の持つ多様性を重視した上で、諸民族の相互的な共同生活を保持していくことこそが環日本海諸国の平和的発展のために必要不可欠であり、そのためにも日本は武力を背景とした干渉政策を行なうべきでないとした。

 同時に著者は大衆的なひろがりを持った運動として日本海青年党の活動に着目する。同党は、国内における経済的不平等の是正や普選を要求し、環日本海諸国との経済提携を主張するが、対外政策の面では、国際的不平等、すなわち白人による土地と資源の独占を打破するという方向に傾いていった。この方向を理論化したのが青年党の指導者、永井柳太郎であり、永井は社会的・経済的平等を求める主張と日本の大陸への進出の要求をむすびつけることによって、大衆ナショナリズムの旗手としての役割を担ったのである。

 第7章は、安東領事館帽児山分館設置問題を検討し、中国側の設置反対運動に対する日本外交当局の対応を明らかにしている。奉天省東辺道(鴨緑江沿岸地域)は「西間島」とも称され、1920年代には朝鮮人独立運動団体の活動拠点となっていた。朝鮮総督府は、独立運動を抑えるために同地域への領事館分館設置を外務省に求めた。外務省は1926年度予算で帽児山分館を設置することとし、中国側に計画を知らせることなく、土地を購入した。27年4月に分館主任が帽児山に乗り込もうとしたが、中国側は非開放地であるとして分館開設を拒否した。吉田茂奉天総領事は強硬方針で臨み、5月に対岸の中江鎮における朝鮮軍(朝鮮配備の日本軍)守備隊の示威演習を背景に、乗り込みを強行させたが、主任らは強い排日示威運動に遭って引き揚げざるをえなかった。その後も吉田総領事は他の満蒙懸案交渉と一括して交渉し、中国自弁鉄道の京奉線を遮断することをちらつかせる強行策によって、開館を認めさせようとした。しかし強硬策は奉天省の排日運動を強め、張作霖らも反発したので、交渉は膠着した。日本の田中首相兼外相は、満蒙鉄道交渉の場を北京に移し、12月には中江鎮にいた分館主任を引き上げさせた。著者は、幣原外相が西間島の治安維持体制強化をねらって分館の一方的新設を認めたことが、問題をこじらせたのであるとして、第1次幣原外交における強硬外交の側面の重要性を指摘している。

 第8章は、1920年代半ばから満州事変までの時期における吉会鉄道敷設問題をめぐる政治過程を検討している。まず鉄道の路線選定をめぐる対抗が明らかにされる。朝鮮人が多く居住する龍井村を通過する南廻りルートを天図鉄道会社、朝鮮総督府が支持し、これを日本外務省が支持したのに対し、満鉄は経済性と自らの影響力の確保という観点から、局子街(延吉)・琿春を通過する北廻りルート案を採ったのである。次に、第1次幣原外交・田中外交期における吉会鉄道敷設に関する日本側の方針が検討される。その結果、①1927年2月に吉田総領事は満鉄線による中国側自弁鉄道材料の運搬を拒む方針を上申するが、幣原外相はこれを支持し、自弁鉄道敷設に反対を表明して、日本側の鉄道敷設計画を承認させるための取引材料とする方針を取ったこと、②田中外交期には、満蒙鉄道問題一括交渉の方式が採られたが、中国側自弁鉄道問題をめぐって吉田総領事が京奉線遮断という強硬策をとって問題がこじれたこと、などが明らかにされる。28年5月に山本満鉄社長と北京政府交通部との間に吉会鉄道関係の請負契約が調印されて、この問題は新たな局面に入る。28年後半には東三省(満州)各地で、吉会鉄道敷設反対運動が起こり、そのなかで自弁鉄道の目標が掲げられた。張作霖爆殺事件後、東三省の政治情勢は流動化し、張作霖の後継者である張学良は吉会鉄道工事の着手に合意しなかった。1929年、張学良との交渉に当たった林久治郎奉天総領事は、測量着手などの強硬策を上申するが、芳沢駐中国公使の反対もあって、田中首相はこれを承認しなかった。29年7月に再び外相となった幣原は、吉会鉄道敷設より中国自弁鉄道敷設の阻止に関心を向け、「満鉄との競争線阻止」を掲げて問題を政治化し、中国側との満蒙鉄道交渉に臨んだ。このような幣原外交の硬直した対応は、行き詰まらざるをえなかったというのが、著者の主張である。

 第9章は、1930年の五・三〇事件から満州事変までの間島問題を検討している。まず間島では朝鮮人が農業生産の担い手として定着し、経済活動の中心的役割を果たしていたことが説明される。次に五・三〇事件への対応として、幣原外相は警察官増員を指示したが、岡田間島総領事や朝鮮総督府などは大規模増員を求めたこと、五・三〇事件の際に襲撃対象となった朝鮮人民会からも警察官増員の運動がなされたことが、明らかにされる。また30年11月以降、外務省・拓務省・朝鮮総督府の三者協議会は、間島の警備を朝鮮総督府に委任する方針をめぐって対立するが、中国の治外法権撤廃交渉が進むなかで、31年には間島については例外規定を設けさせることを検討するようになったことが、明らかにされる。最後に、朝鮮軍の対応が分析される。朝鮮軍司令部では、独立運動を抑えて間島問題を根本的に「解決」するために、出兵が必要であるという認識があり、31年9月、神田正種参謀が龍井村の特務機関と結んで、謀略工作を行い、それを利用して出兵する計画があったこと、準備が整わず、出兵計画は失敗に終わったことが、明らかにされている。

 第10章は、満州事変開始後に吉会鉄道が着工され、京図線(新京〔長春〕―図們)として全通するまでの過程を検討している。満州事変開始直後、日本陸軍は吉会鉄道敷設促進を主張し、満鉄に敷設方針を受け入れさせた。1931年11月に満鉄と吉林省政府との間に契約が調印された。満鉄は北廻りルートを採り、朝鮮側の終端港を羅津とする方針を堅持したが、日本海軍も羅津港を支持する意見を明らかにした。これに対して、朝鮮総督府、朝鮮の会寧・清津に住む日本人らは、南廻りルートを採り、終端港を清津とすることを主張して対抗した。この問題は32年2月に両線敷設で決着した。32年に満鉄側は、終端港は貨物量からみて当面、雄基・清津で足り、莫大な費用をかけて新港を築港する必要はないとしたが、陸海軍のこだわりによって同年5月の日本政府の五省会議で羅津築港が決定された。33年9月に京図鉄道は開通し、36年には羅津港築港工事も終了し、さらに33年12月に京図線の拉法からハルビンに至る拉浜線、37年7月に図們から北満州の佳木斯に至る図佳線が開通したが、これらの鉄道・港湾施設は満鉄鉄路総局による一元的委託経営の下に置かれた。以上の検討を通して、著者は、①吉会鉄道は第一義的に軍事鉄道として敷設された、②満鉄は陸軍が主導する敷設計画を受け入れた結果、初発の思惑通り羅津港までの日満直行ルートの経営権を掌握した、③政治的判断に基づいて推進の旗を振って、道をは清めたのは外務省であったと論じている。

 第11章は、1930年代から40年代前半にかけて、日本、とりわけ新潟などの日本海側の地域でもてはやされた「日本海湖水化」論について検討している。まず「日本海湖水化」論の1事例として、松岡正男の議論を検討し、それは「裏日本」の「表日本」化の手段として、植民地や従属化した地域を利用しようとするものあり、日本の国家的利益確保のための尖兵となることとひきかえに、居住地域の経済発展を得ようとした議論であったと、著者は論じている。次に日露戦争後に、新たな対ロシア戦争に備えるため、最短距離で北満州に日本軍隊を動員するルートとして、日本の日本海沿岸地域と朝鮮東北部の港、吉林省方面の内陸部をつなぐ交通網の整備が主張されたことを明らかにし、この「北朝鮮ルート」論は「日本海湖水化」論の先駆であったことを指摘している。ついで石原莞爾の羅津港開発論が検討され、その主張は北満州・羅津・新潟の地域開発論とセットとなっており、住民の支持を得ることにより陸軍の方針への支持確保をねらったものであることを明らかにしている。また新潟の民俗学者・ジャーナリストであった小林存の羅津港開発論も併せて検討され、それは武力行使を前提とする新潟港の発展策であったとしている。最後に松尾小三郎の豆満江自由港論が検討され、それは日本海沿岸諸地域の住民が共に豊かな生活ができるようになるための方策を練ったものであり、日本の植民地支配を根本から批判していないという限界はあるものの、注目に値する議論であるとしている。

 第12章は、東京―新潟―羅津―新京をつなぐ日満最短ルートの交通路が整備される過程を検討している。まず満州事変前の新潟港の外国貿易は、大連港を主な相手先としていたが、1929年に北朝鮮との航路が開かれ、32年には新潟市長らは新潟・北朝鮮航路を命令航路に指定してもらうための請願運動を開始した。吉会鉄道の開通を前にして、日本では日本海航路の整備が問題となったが、逓信・鉄道・内務各省の思惑が異なり、33年9月・11月に開催された交通審議会でも計画実行中の日本海諸港の整備を図る現状維持の方針にとどまり、軍部の連絡港重点的整備の方針は通らなかった。日本海航路をめぐっては、満鉄系の大連汽船と民間汽船会社(及びこれに後押しされる逓信省)との対立もあり、35年に新潟―北朝鮮航路が政府命令航路に指定された際にも、逓信省は民間会社の出資による日本海汽船を発足させて、これに引き受けさせた。37年に満州国の「満州五カ年計画」立案のための運輸分科会報告書は、「北鮮三港」の経営の不振を指摘するとともに、日本海航路の改善策は、北満州への移民の輸出港としての発展しかないと結論された。38年に日本の参謀本部は、対ソ作戦のために北満州の開発、それによる糧秣の現地調達という計画を立て、関東軍も対ソ正面の備えのために兵力予備軍兼食糧現地調達のための労働力としての「百万戸農業移民計画」を立てた。かくして陸軍はこれら移民・兵士を輸送するための日満直行ルートの必要を強く主張し、38年7~8月のソ連との局地戦闘である張鼓峰事件は同ルート強化の必要性を加速させる契機となった。38年11月に日本政府は「東北満州裏日本交通革新及び北鮮三港開発に関する件」を決定し、東京―新潟―羅津―新京線を幹線とした。39年12月に、大連汽船を含む5社の共同出資による日本海汽船が設立され、新潟―北朝鮮航路に隔日で就航することになった。このように、著者は日満最短ルートが陸軍主導で軍事的必要性から整備されていったことを明らかにしている。

三、本論文の成果と問題点

 本論文の第一の成果は、東三省(満州)や間島などを中心にして、近代日本が環日本海地域社会の変容にどのような形で関わったのかという問題を具体的に解明したことである。その際、著者は「周辺」の地域社会から問題を考えるという視角を重視し、国家の側の政策が地域社会のあり方を規定してゆく面だけでなく、その地の人々が日々の生活の安定と向上を求めて国家の思惑とは異なる認識や行動をとる側面をも視野に入れており、そのことで全体の分析をより奥行きの深いものとしている。

 著者の問題関心は、冷戦の終焉後の新たな状況の下で、環日本海地域の住民の共生の道を可能にするためには、環日本海地域で暮らしているという共通の認識が必要不可欠であり、その認識の基礎には、それぞれが固有の歴史をかかえつつも、相互にわかりあえる歴史認識の共有がなければならないというものである。そうした試みの一つとして本論文は重要な意義を持つ。

 第二には、「表日本」に対する地域的格差を自覚するようになった日本海側諸県の人々が、どのように対岸地域にかかわっていったかを明らかにした点である。ここでは、「裏日本」状態からの脱却を求める人々の願望が環日本海地域への軍事力を背景とした進出という方向に吸引され「帝国意識」を強める結果に終わったこと、普選などの民主化を求める意識は対岸地域における国家的利益を追求するナショナルな意識と一体のものとして成立したこと、を具体的に解明している点が重要である。同時に著者は、そうした中にあっても、平等互恵の交易や交流をこの地域で盛んにしようとした人々がいた歴史的事実を丹念に発掘しており、この面での成果も少なくない。

 第三には、近代国家が通商と軍事力をセットして「周辺」に進出したことを、その軍事力の象徴としての鉄道敷設に焦点を合わせて具体的に解明したことである。特にこの面では、「新外交」を目指した幣原外交もまた例外ではなかったことを明らかにした点は、外交史研究の領域における本論文の大きな貢献といえよう。

 第四には、設定した課題の究明に必要な史料を博捜し、それを手堅く分析・検討した実証上の緻密さである。日本の外務省、陸海軍、満鉄、朝鮮総督府の文書・刊行物はもちろん、新潟県など地域レベルの文書・刊行物、対外地域に関する論説の掲載された著書・雑誌・新聞など、史料の収集の範囲は多岐にわたっており、新たに紹介されたものも多い。この点だけをとっても、日本近代政治史・外交史研究の発展に裨益するところが大である。

 なお、問題点としては、革命後のソ連の対極東政策の特質や間島における朝鮮人と中国人の関係が必ずしも明確にされていないことなどが指摘できる。また、ロシアや韓国などでの最新の研究成果をいかに吸収するかという問題も残されているが、これはむしろ日本史研究全体の今後の課題だろう。

 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2000年2月9日

2000(平成12)年1月21日、学位論文提出者芳井研一氏の試験および学力認定を行った。試験においては、提出論文「環日本海地域社会の変容と近代日本」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、芳井研一氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語及び専攻学術に関する学力認定においても、芳井研一氏は十分な学力を持つことを立証した。
 以上により、審査員一同は芳井研一氏が学位を授与されるものに必要な研究業績及び学力を有することを認定した。

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