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博士論文審査要旨

論文題目:うねる、とけあう ―ケニア、初等聾学校の子供の体の動きを事例とした“共在”をめぐる人類学的研究―
著者:古川 優貴 (FURUKAWA, Yutaka)
論文審査委員:岡崎 彰、大杉 高司、安川 一、児玉谷 史朗

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Ⅰ.本論文の構成
 本論文は、ケニアの初等聾学校における通算約2年間のフィールドワークで蓄積された膨大な動画映像資料を駆使し、独自の方法で提示・考察する試みを通して、人間の「コミュニケーション」の問題について、新たな研究の視座を提示しようとする、意欲的な試みである。

本論文の構成は以下の通りである。

序章
問題提起
本論文の方法論:フィールドでの経験を再び/新たに経験する
生活拠点とフィールドワークについて
本論文の構成
第1 部 “しゃべる”、“おどる”、“とけあう”:身体の動きと“共在”のあり方
第1章 手がうごき、手がしゃべる:規範的言語モデルに対する問題提起
第1節 happy or un-happy:“記号化”の過程に関する試論
1.「記号」は予め存在すると言えるのか
2. おしゃべりにおいて「語順」は必要なのか
第2節 “しゃべる”と”うごく”:“記号化”における受け手の必要性
第3節 市場にて、“でたとこ勝負”:“記号化”の条件と不確定性
1. 手の動きが“記号化”するための条件
2. “記号化”し得なかった手の動き
3. 条件づけられた“やりとり”でも“でたとこ勝負”
第2章 “うねる”、“つながる”:交感する身体、捕捉の過程
第1節 “うねる”:騒々しい“おしゃべり”
第2節 “しらける”:整然とした“やりとり”
1. 気まずい“やりとり”のはじまり
2. 一つの話として完結する“独り語り”
第3節 “農業ショー”+“サタン”+“生首”=“見世物小屋”:捕捉の過程
第3章 “とけあう”からだ:“おしゃべり”、“歌”、“ダンス”、“人”の融合
第1節 “おしゃべり”の楽しみ:意味の伝達以外に起きていること
第2節 “つられる”からだ:意思を超えた身体の動き
第3節 “とけあう”からだ、“統制される”からだ:“おしゃべり”と“ダンス”の共通性
第4節 “とけあう”声:“歌”―“ダンス”―“おしゃべり”の融合
第2 部 かたる:“自身”/世界のあり方
第4章 「かたり」の二重性とその罠:“自身”/世界の脆さをめぐって
第1節 「かたり」をかたちづくる:“自身”と世界の分節化
第2節 わたし/“わたし”を決めるもの:“自身”のコントロール不可能性
第3節 「かたり」に落ちる:はりめぐらされた罠
第4節 “かたり”から“うねり”へーー“自身”と世界との再-融合
第5章 “とけこむ”:人類学者自身とフィールドの世界
プロローグ
エピソード1----いつもいない
エピソード2----女王の新しい服
エピソード3----よそ者
エピソード4----なりきる
エピソード5----語りの手口
エピソード6----ガールズ・トーク
エピソード7----父
エピソード8----“秘密”のカード
エピソード9----衣替え
エピソード10----歌うコーゴ(婆ちゃん)
エピソード11----酔っぱらいはサタン
エピソード12----“賢い”子供たち
エピソード13----デイヴィッドのこと
エピソード14----病院にて
エピソード15----声に出してはならない
エピローグ
結び
参考文献

Ⅱ.本論文の概要
序章の冒頭で著者は、聾に関する従来の研究では聾者を「言語的マイノリティ」と捉える傾向にあり、更に「アフリカの聾者」の場合「二重の意味で周縁化されたマイノリティ」と言われることもあると述べる。しかし、ケニアの寄宿制初等聾学校とその生徒の帰省先に通算して2年近く住み込みのフィールドワークをした経験から、著者は少なくともケニアの聾者をそのように捉えることには限界があることに気付く。そこでは聾者は周囲の人たちと変わらぬやり方で「とけあって」「共在」して生きている。この様態をからだの動きを具体的に分析することで明らかにしたいと言う。(欧米や日本では)これまで聾者が差別されてきたため、近年では聾者の手話を音声言語と同等に位置づけようとする議論が主流になっているが、ケニアでは手話も含め複数の言語が「混在している」ので、そうした議論は起き得ないという。だが、「多言語が混在している」ということだけでは本論で言う「共在」がどのように起きているかについては明らかにはならない。この問いに対して、かつて著者は言語行為とからだの動きとが融合しているとする「ポリモーダル」という概念を使ってケニアの聾学校の子供たちの日常の「やりとり」を分析してみたことがあるが、これにも限界があったと述べる。「ポリモーダル」という概念は人々の「コミュニケーション」を規範的言語モデルに依拠して分節化しているに過ぎないからである。またこのような経緯を経て、「共在」がどのように起きているのか、それを可能にしているのは何か、について追求していくと「言語」そのものを議論の対象にしなければならないことが明らかになったと著者は言う。そしてこうした議論を、「手話」をからだの動きの一部として視覚的に記述・分析することで進めていくことは、単にケニアの初等聾学校の子供の「共在」のあり方について明らかにするのみならず、最終的には、「人」と「世界」のあり方をも明らかにすることになるだろうと筆者は述べる。
序章の後半では、その具体的な方法、すなわちフィールド・データとして残された大量の動画・映像記録をどう扱うか、その方法が明らかにされる。まず、映像資料を言語的記述の補足、あるいはある出来事が起きたことの単なる証拠、として提示するような従来のやりかたが含んでいる問題点を明らかにし、また特に動画を提示することに伴う諸問題に関しても著者自身の過去の度重なる試みと失敗も考慮しつつ再検討し、その結果として、本論では動画から静止画を切り出し、読者に働きかけるような「イメージ」として論文内に配置していくというやり方をとることが表明される。そしてさらに、むしろ技術を通してこそ提示できる新たな視点を重視し、動画と音を解析してグラフ表示するELANや、音声解析のためのWavesurferなどのソフトウェアも利用したいと述べる。そうすることで、著者自身の気づきの過程をスポットライトのように照らすことにもなるし、撮影者かつ分析者である著者の視点自体も研究の対象に含めうるようになるだろうと述べる。こうしていわば映像資料が主役(著者の言い方ではスポットライト)となるような方法をめざすことが表明される。ただしイメージを論文内に配置すると言ってもすべてのイメージがページ内に収まっているわけではない。本論文には、A3サイズを越える写真や画像解析・音声解析グラフの折込が4箇所あり、それに加えてA4サイズの159枚の写真によるいわゆる「パラパラマンガ(flip book)」の別冊付録もついている。
第1 部第1章では、ソシュール以降の言語学者の多くが依拠する規範的言語モデルに対して、聾学校の子供たちの事例を詳細に検討しながら問題提起がなされる。ここでの問いは、「(手話を含めた)多言語の状況でどのように人々は互いにおしゃべりをしているのか」ではなく、「そもそも、手の動きや声が、あるまとまりとして区切り出され、意味あるものとして捉えられる際になにが起きているのか」である。そこで三つの事例でこの問いが検討される。まず、聾学校の新入生のキリスト教式「祈り」における手の動きのイメージが分析・検討されるが、その結果、無数の区切りだしの可能性があることが示されたが、ある手の動きの「はじまり」から「終わり」までが一つのまとまり=記号とされるにはその手の動きをそのように見ている者がいなくてはならなくなり、その場の外側に規範として「記号」が予め存在しているとは言えない、ということが明らかにされる。次に聾学校の新入生と彼の帰省先の近所の子供とが一緒にいる場面で撮ったイメージを検討した結果、聾の子供から繰り出される手の動きが意味のある「記号」となるには、その手の動きの中からあるまとまりを区切り出す「受け手」の存在が必要であることが明らかにされる。そして最後に、目的、内容が限定されている市場での値段交渉の場を取り上げ、聾学校の卒業生と売り手との間で行われた「やりとり」を撮ったイメージが検討されるが、その結果、手の動きを「記号」として区切り出すことが文脈の限定された場でも不確定であるということが明らかにされる。
第2 章では、まず、聾学校の子供たちが教室で「おしゃべり」(手と体での)を展開していく過程がイメージを用いて具体的に提示される。次に、それとの比較対象として、著者が聾学校の3~4人という限定数の子供たちに対して行ったインタビュー場面を取り上げ、同様のやり方で提示される。この比較を通じて著者は、子供たちの「おしゃべり」では、インタビューのようにAの質問に対してBが答えるという形ではなく、子供たちが入り乱れ、誰が誰に発言しているのかもわからない状態になることを指摘する。言い換えればそこで展開していることに身を委ねいわば融通無碍な状態で「おしゃべり」が連なっていくことが、さらなる「おしゃべり」の展開を生んでいき、全体として盛り上がっていったのである。次に以上のような「おしゃべり」の過程で何が起きているのかを掘り下げるために、著者はアルフレッド・ジェルの『アートとエージェンシー』における「アブダクション」という概念を援用しながら分析・考察を進める。このパースの用語は日本語では「仮定的推論」と訳されているが、著者はこれを「捕捉」という語に訳し直し、日常の「おしゃべり」において、聞き手が話し手の「おしゃべり」の中から何らかのきっかけを見出し、それを別の何かとつなげて解釈する過程になぞらえる。またこの概念を用いて著者は自らの動画解釈の課程で生じている「捕捉」にも光を当て、著者のからだの動きも含めた子供たちの動きに関する、著者自身の解釈過程を記述・分析する。そして子供たちのその場その場の「おしゃべり」に話を戻し、著者はそこでは何かの規範に従うようには展開せず、好き勝手に展開されていること、そして手の動きがその中心にあり、からだの動きとして連なっていることを指摘し、次章の「共在」の章を導入する。
第3 章では、二つの問いが追求される。一つ目は、「おしゃべり」と「歌」や「ダンス」とを分けることは可能なのか、そして二つ目は、「歌」や「ダンス」の最中の人のからだの動きを個々人に還元することは可能なのか、という問いである。前者に関しては、まず「歌」や「ダンス」が「おしゃべり」という「言語的行為」とは異なる「身体的行為」として捉えられてきた点が指摘される。そして「ことば」を「身体」から分離させるだけでなく、身体を「言語の手前」にあるものとし、「コミュニケーション」においては身体が「原初」にあり、「進化の結果」として言語があるという根強い考え方があることを著者は指摘する。多くの手話研究者が、手話を音声言語と同じ特徴をもつものとして認めようとする最も大きな理由は、手話が身振りとして歴史的に捉えられて来たことに起因すると著者は言う。本章では、この一つ目の問いに関し、聾学校の子供たちの事例と、ある村での事例とが記述・分析され、「おしゃべり」を「歌」や「ダンス」から分けることができないようなケースがあることが示される。次に二つ目の問いについて著者は、先行研究では歌やダンスの最中の人々のからだの動きに関して往々にして「同調」、「共調」、「共鳴」、「共振」といった表現が用いられてはいるが、これらの表現はむしろ元々は各人は個人として分かれていることを(暗黙の)前提としており、結局「分かれて存在している個人が一緒に動く」と言っていることにほかならないと指摘する。しかし聾学校の子供たちの「ダンス」の場合は、たった一人で歌ったり踊ったりし続けることはないという。本章では、このような議論に関連するイメージとそれを解析するソフトが駆使され、「おしゃべり」行為における意味の伝達以外の側面、すなわち意志を超えた身体の動きと「おしゃべり」と「ダンス」の融合などの議論が展開される。そして、そこで行われていることが「個人」には還元できない、分節化できない場合、「共在」「とけあう」が可能になると指摘される。そのハイライトとも言うべき婚約式の日の夜に起きた「とけあう」事例を扱う際に、著者は音声解析ソフトWaveSurferを用いて、うたとダンスとからだと人々が暗闇で「とけあい」「うねり」が生じている時の音を解析し、比較対象として、NHKラジオ講座「やさしいビジネス英語」の音源も同じソフトで解析し、両者を可視化したグラフを並置し、それを折り込み資料として添付している。この「実験的」な提示によって、著者は「おしゃべり」と「歌」や「ダンス」を分けることの妥当性に疑問を投げかける。
ここまでの第1 部では、聾学校の子供たちのからだの動きに注目し、「とけあう」(共在)がどのように起きているのかという議論だったのに対し、第2 部では、「とけあう」の状態がいかに脆く、常に危うさを含んでいるのかという点が議論される。まず第4 章では、「かたり」をキーワードに、聾学校ナーサリー学級の「物語り」の授業と、聾学校の子供たちのいわゆる「ごっこ遊び」とも解釈できる「スキット」の事例がイメージとともに提示され、そこにある「かたり」の二重性、自身と世界の分節化、自身のコントロールの不可能性などの問題が、坂部恵の「かたり/はなし」の議論およびグレゴリー・ベイトソンの論理階梯の議論を援用しながら考察され、また市川浩の「身分け」の概念によって、自身と世界の分節化過程としても検討される。
第5 章の最終章は、エピソード形式でフィールドでの著者の「気づき」の過程を書いたものである。エピソードは一話ごとに完結しており、この「かたり」の作業を通じて著者は、ケニアの聾の子供たちとの「コミュニケーション」の過程から自分の身を引き離し、それによって本論文を完結させることができたと言う。

Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の第一のそして最大の成果は、方法論に関するものである。映像資料について理論的にも実践的にもここまで大胆に踏み込んで作成された民族誌はまれである。著者も序章で言及しているように、人類学と映像の歴史はほとんど重なっているが、映像の扱い方をめぐる問題は解決に程遠い。いやむしろそこにある問題に無頓着な人類学者が大多数だと言えるだろう。クリフォード等による『文化を書く』が「書く」ことに関して再考を促したとしたら、それ以前の書くことに対する無頓着さと同じ程度の無頓着さがいまだに続いていると言えるだろう。確かに著者をしてここまで映像資料に関して鋭くクリティカルにさせたのは、研究対象が主として聾者であり、ことばに耳を傾けるより手や体の動きに注視しなければならなかったことと無関係ではあるまい。またフィールド・ノートが既にある程度は分節化した資料であるのに対して映像資料は撮った者のフレームや焦点の刻印はあるものの本人のコントロールが及ばない情報が余りに大量に含まれている。通算2年間にわたって撮った膨大なそのような動画資料を前に著者が大胆な工夫をせざるを得なかったのは想像に難くない。しかし、動画から静止画を切り出し、読者に働きかけるような「イメージ」として論文内に配置していくというやり方や、技術を通してこそ提示できる新たな視点を重視し、動画や音の解析ソフトウェアを利用するといった工夫は、研究対象の性質から来るだけのものではなく、著者の並々ならぬ知的探求心とその研究成果を広くシェアできるようにしたいという願いから来るものであろう。またこのことは、単に映像資料をどう扱うかという問題にとどまらず、社会科学が「技術」とどのように「共在」しうるかを新鮮な切り口で示唆している例とも見なしうるのではないだろうか。
 本論文の第二の成果は、「聾者に関する研究」に対してもたらしうる影響と貢献である。聾者の人権に関する政治・倫理的主張や、多文化・多言語主義的流れの高まりの中で、聾を「文化」として、また手話を「音声言語」と同等なものとして認め、教育制度の改善を求める動きが近年活発になってきた。また人口内耳の技術や聾の脳科学的研究も一定の発展を見せている。またこれらは分野横断的に相互に複雑に絡み合っている。このような複雑な状況に関する研究もなされつつあるが、その大半は日欧米の事情を扱ったものである。アフリカなどの「途上国」における聾者の研究も出てきたが、それは欧米の研究モデル(偏見)を応用したケースが中心である。本論文はこのような研究を直接的に扱ったものではないが、このような研究状況に対して非常に意識的であり、本論文内の各所で議論されていることが、「聾の研究」に今後批判的且つ建設的に影響を与える可能性は高いと思われる。
本論文の第三の成果は、音楽やダンスの人類学的研究にもたらした貢献である。著者は明言していないが、本論文は「音楽人類学」の民族誌としても充分読める。とくに、独立した活動領域と思われているダンス、うた、しゃべりを、身体的実践として「とけあった」状態にあるものとしてとらえる洞察は、実はコリングウッドの「ダンスはすべての言語の母である」という洞察(1938)にも関わらず、それ以降の人類学、民族音楽学、音楽人類学的研究で余り追求されてこなかっただけに、本論文で詳細な観察に基づいて得られた洞察として、重要であると同時に刺激的である。また、聾の子供たちが練習をしなくても、また楽器等は一切無くても、そして「好き勝手に」やっていてもみごとにそろったダンスをしてしまうこと、その一方で、ケニア全国聾学校文化活動競技会では統制された動きができるよう訓練を重ねても、間違ってしまう子供がいて「エラー」とされてしまうことがイメージ付で対比的にわかりやすく紹介されているが、興味深いのは、前者のダンスでは誰も「エラー」しないのではなく「エラー」と言う事態がないという点である。「エラー」は「する」のではなく「つくられる」ということがみごとに示されている。そして、音楽人類学的にとりわけ興味深いのは、本研究は「聞こえない」人々の「音楽」的経験に関する民族誌的研究であると言う点である。「音楽」を「聴くもの」としてきた音楽人類学の土台を揺さぶるような研究と言っても過言ではないだろう。

以上のように、本論文は際立った成果をあげたものの、そこに問題点が指摘できないわけではない。
第一点は、「規範的言語」の概念の問題である。まずこの概念に関する先行研究の批判的考察が充分なされていないと思われる点である。むしろこの概念を批判・否定することが研究を進める原動力となっているようにすら読めてしまうところがあり、裏を返せばこの概念に負ってしまっているとも言える。もしも先行研究を渉猟し、この概念に対する多様な批判的取り組みなどに接していたなら、このような、あらかじめ「敵」を批判しやすいかたちで想定してしまうことが起きにくかったのではないか。また、日常言語学派や生成文法論などに言及するなどして、それらとの異同も含めて、自らの議論の位置づけを、より明確にできたのではないか。
 第二点は、論文の構成上の問題である。まず第一部と第二部とに分けた趣旨がわかりにくい。
第二部は第4章と第5章とで構成されるが、両者はテーマ的にも文体の面でも異質である。第4章の内容はむしろ1,2,3章で扱っている論文の中心的テーマに近い。確かに第一部と第二部の違いを述べる記述はあるが、それだけではこのように2部構成にした理由がわかりにくい。また第5章のエピソード群が論文全体に対してどういう位置づけになっているのかもはっきりしない点である。もちろん著者自身はこの点に関して「本章の2つのねらい」として章の冒頭に書いてはいるが、この章をどう読めばそれ以外の章の議論と有効に結び付けられるようになるのかという点に関しては、充分説明されないまま読み進めることになる。個々のエピソード自体はどれも大変興味深く読める、良く書き込まれた文章なので、この点をもっと説明してくれていたら、論文がさらに意義深いものになっていただろう。

 もっとも、これらの問題点は、本論文の研究成果の学術的価値をいささかも損なうものではない。また、著者も問題点を強く自覚し、今後の研究の課題としているところである。さらなる研究の進展を期待したい。


Ⅳ. 結論
審査委員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する

最終試験の結果の要旨

2012年6月13日

2012年5月2日、学位論文提出者古川優貴氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「うねる、とけあう ―ケニア、初等聾学校の子供の体の動きを事例とした“共在”をめぐる人類学的研究―」に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対して、古川優貴氏はいずれも十分な説明を与えた。よって、審査員一同は、古川優貴氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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