博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:島崎藤村論:『家』を中心に
著者:趙 昕 (ZHAO, Xin)
論文審査委員:秋谷 治、松岡 弘、瀧澤正彦、中島由美

→論文要旨へ

一、論文の構成

 本論文は、学位請求者が、日本近代文学史上大きな位置を占める、自然主義文学派の泰斗島崎藤村の中心的作品の一つである『家』を精密に分析することにより、『家』のみならず、藤村文学を、綿密に読み解くことによりその本質を解明した優れた作品分析である。その構成は以下のとおりである。

『新生』の「妻を見つめ過ぎた」から連想して ―序にかえて―
 第一章 『家』研究状況の概観
  一 『家』の発表に関する一言
  二 二側面から小説の意味を捉える方法 ―一般論として―
  三 家族制度批判 ―作品の普遍的価値を重視する方法―
  四 遺伝と宿命 ―頽廃した旧家の体質の危機を重く見る方法―
  五 『家』批評に於ける問題点
 第二章 家の中の人生 ―『家』主題の認識とそれを提出するための方法―
  一 『家』の表現方法について
  二 藤村の小説に於ける素材と主題の関係
    ―『破戒』をもとに藤村の文学的方法と発想法を考える―
   1 『破戒』理解と評価の要――部落民問題
   2 藤村にとっての部落民問題
    3 『破戒』に於ける部落民の位置
  三 家の中の人生――『家』主題の所在
 第三章 小泉家 ―実の人物像解釈を中心に―
  一 実に関する従来の解釈
  二 基盤に欠ける実の<一系の生命観>
  三 家共同体の弱体化と実の家長地位の喪失
  四 実の事業失敗に考えられる環境要因
  五 藤村の試行錯誤と実という人物の持つ本当の意味
 第四章 橋本家及びお種の人間像
  一 上巻第一、二章に対する一般的評価
  二 橋本家に於ける封建的家族制度の虚像
   1 達夫の性格分析
   2 家共同体の虚像
   3 当主不在時のお種の位置
  三 お種の人間像
   1 お種に関する一般の解釈
   2 お種に絞られた封建的な女性像
   3 女としての
      人間本能と生活の欲望
 第五章 <性の頽廃>に見る遺伝と宿命の問題
  一 遺伝と宿命重視説の諸相
  二 『新生』に呼び出される父の肖像 ―藤村文学に於ける藤村の精神、父の精神―
   1 『新生』と『家』を同意味で考える傾向
   2 内面の不安と恐怖に於ける父との接点
   3 『新生』に書かれる<父の過去>について
   4 父との接点の確認に於ける藤村の基盤
  三 小泉家の人々 ―宗蔵を中心に―
  四 <お俊>事件 ―近親相姦の衝迫に象徴されるもの―
  五 三吉から見た正太の<女に弱い>
   1「都会人的」という橋本家のイメージ評価
   2 三吉から見た正太の<女に弱い>
 第六章 三吉とお雪
  一 没理解――不幸な夫婦関係の根源にあるもの
  二 藤村の反省と「新しい家」の萌芽
   1 小説の原構想について
   2 藤村の生活経験と文学的意図
   3 作品に於ける
     「新しい家」の萌芽
  三 「夫は夫、妻は妻」の本当の意味 ―<性の諦念>説への質疑を兼ねて―
   1 <性の諦念>説の持つ根拠
   2 「夫は夫、妻は妻」の本当の意味
 第七章 <家の中>に於ける人生の二律背反 ―『家』論の結びとして―
  一 <屋内>に書かれる娘の死と家を持つ人の宿命
  二 <屋内>に見る作品構成上の二つの首尾相応
  三 <家の中>に於ける人生の二律背反
 第八章 近代の不安、生きるための不安 ―藤村文学の原点―
 主な参考文献 (注は各章末に記されている)

二 本論文の要旨

序にかえて

 「妻を見つめ過ぎた」(『新生』)ことにより長く誤解がもたらされる、夫婦の悲劇の原因を描出した島崎藤村の一文の様に、藤村の文学の作品分析、評価他の研究が、その小説の取り扱う素材や事象、また一部の表面的なものを「見つめ過ぎ」てなされる傾向があることを指摘し、作者の真の意図と作品の主題・価値を究明するために藤村文学の原点と基調及びその発想法、文学的方法のうえに立ち考察していく態度が端的に表明されている。

第一章

 本章では研究状況の概観及びその問題点が指摘される。作品発表時に島崎藤村が言明した「屋外で起った事を一切ぬきにして、すべてを屋内の光景にのみ限らうとした」という方法の確認及びその方法が作品において忠実に実行されていることに注意を促す。その方法は小説自体の表現上の問題のみならず、研究においても作品解釈や主題の把握及び作者の文学的姿勢を論ずる際に重大な意味を持っていると指摘する。第二節より第四節において、研究史上二分化されている傾向とその限界を論じる。『家』の主題を、封建的な家制度批判に力点を置いて捉える研究傾向と、特定の旧家に伝わる頽廃した体質の危機から主に見る研究傾向とである。どちらも他方の面を蔑ろにするのではないが、研究者・批評家の目がこの二つの面に注がれ過ぎている動向を詳細に辿り、文学の社会的、歴史的な役割を重視するため封建的な家族制度とその崩壊過程を物語化したものであると主張すること、作者の実生活と作品に描かれたこととを混同して論じがちなため頽廃した家の体質の問題を過大評価してしまうことに疑問を投じている。これに対し、「屋内の光景にのみ限らうとした」作者の意図を踏まえて、その方法により描く世界と虚構に留意すべきこと、その深層に託されている作者の意図に注目すべきことを喚起し、従来の研究方法とは異なって、作品に忠実に描出されているものから読み取ることを提起している。

第二章

 『家』の主題を認識するための、島崎藤村の文学的方法や発想法並びに然るべき研究方法について論じている。

 屋内に限定した作品の叙述方法のために、歴史社会的背景の十分な描写の欠如や登場人物の社会的行動、諸事情の原因や経緯が不明確であるという評価がなされがちであるが、それらは、事実の指摘としても妥当ではないこと、屋内に限定した以上、屋内の、家の中の人生を描いたものであると、藤村の方法及び発想を辿ることにより指摘する。傍証として藤村のもう一つの代表作『破戒』の分析を行い、被差別部落民の主人公を描きながらも、被差別部落民問題そのものを主題にしたのではなく、主人公の不安や近代的個性に目覚めたものの悲しみ、いわばその内的世界を描くところにあったと論証する。

第三章

 本章及び次章において主な登場人物の分析を逐一丁寧に行なって、その描かれ方の特徴を検証整理することによって、上述の研究傾向の、家制度及びその批判を藤村が文学化したものではないことを論証する。

 本章では、『家』に描かれる二家の内、小泉家の戸主実の人物像解釈を中心に進める。明治時代の家父長制度が確立された時代にもかかわらず、小泉実は、家父長としての行動をしていないこと、個人的にしか行動していないことを具体的に論証する。

第四章

 本章では『家』で描かれる主要な二家の内、もう一つの橋本家の戸主達夫及び嫡子正太の描かれ方、及び戸主の妻お種の人物像について分析される。

 達夫や正太にも家に対する義務感他の旧い家観念がないことが指摘され、橋本家の描かれ方においても封建的な家族制度や家共同体の観念が薄く、虚像にすぎないと結論づける。

 お種は、封建的な女性の一人として描かれるが、当主の不在時における行動にも戸主代理人の態度が見られないと指摘し、「家」の中で喘ぐ薄幸の悲劇的な女性として描かれているとする。

第五章

 本章では、『家』の研究史上二極化しているもう一つの主要な論点である、性の頽廃に見る遺伝と宿命の問題について、それが『家』また藤村文学の主題であるか検証する。

 家系的な遺伝と宿命を重視する観点の諸相と諸説を詳細に検討した後、第二節では藤村文学の主要な作品の一つ『新生』を取り上げ、一般に論じられるように性の頽廃や淫蕩の血が流れていることを取り扱っておらず、むしろ精神的な資質、学問の系譜上に主人公と父の繋がりがあることが描かれていることが論証されている。この認識の下に、主人公や父が、人間存在を直視し、不安や恐怖、孤独感など精神的な面を見つめようとしていることを剔抉し、両者の共通点・精神的基盤を確認している。そのために執拗に藤村の筆が親子の血の問題をテーマにしたと判断する。第三節では無視されがちな小泉宗蔵にも目を配り、その家の中における孤独な姿と生きるための不安が描かれていることを指摘、微細な人物・事柄にも藤村の主題につらなる把え方がなされていることが指摘される。第四節では「お俊事件」と研究者に呼ばれる近親相姦の問題について、「近親相姦」というに価する程の事件ではなく、手を握られただけのお俊は、子供であるためでばかりなく何の性的意識も感じておらず、当事者の三吉のみが内面的に苦悶する姿が一方的に描写されているにすぎないと指摘する。ここにも、性の頽廃の問題を深読みしすぎる研究動向に対し、島崎藤村が「自己の存在の問題性」を内的世界の凝視を通じて捉えていると指摘し、己を凝視し生を見つめようという、藤村作品に貫流する基調を支える要素また手段として書かれたものであったと結論づける。

第六章

 作品に一貫して登場する人物三吉と妻お雪とについて、モデルになった藤村の妻が作品執筆中に死亡しているにもかかわらず、作品では生存し夫婦関係が描かれているのは、新しい家の建設の希望を残そうとしたためで、三吉の深い反省と、相互の尊重や譲歩による調和したありうべき家庭建設という現実的課題を呈したものとする。

第七章

 本章では、この作品が屋内に描写を限ったとする点に関して、作中の留意すべき諸点について言及することで島崎藤村の視点及び主張をより鮮明に確認し、『家』論の結論としている。

 第一節では、三吉の娘の死亡時の描写を、同じ問題を扱った島崎藤村の『芽生』『病院』と比較し、後者が写実的に病院内の出来事を描出するのに対し、『家』では、病院での娘の病気治療に正面から触れず、その前後の、過酷な運命に堪える三吉夫婦の様態や心理活動が「屋内」という視点から重点的に描かれていることを指摘する。第二節では、三吉夫婦及びお種の描写がいずれも屋内ではじまり屋内でそれぞれの人生の集約や展望がなされているという首尾照応の構成と表現が指摘され、作者の一貫した意図が確認される。第三節では、そうした構成と表現が、自然主義文学の自己を作品に投影する手法によって単に家の中に限定された記述を生んだのではなく、意図的に屋内に限定して描いたと結論づけ、しかも封建的な家制度や旧家の頽廃した体質の問題を解剖するために描写を屋内に限定したのではなく、三吉夫婦間の問題を一として、人間の真実、そのあり方、その苦悩等の内的世界を描くためであり、家の中の人生を描くものであったと論じる。

第八章

 本章は島崎藤村の文学的態度と人間的態度の原点を確認する章になっている。

 島崎藤村は内攻的――筆者が敢えて内攻的とするのは、藤村の気質が単に内向的なのではなく意識的に苦悩や葛藤を背負っていくものであったと考えるからである――な性格で、その資質を自覚的に最大限に生かして人間の内面の不安や苦悩を文学化したと考察している。それにより、一人一人の「生」を描き、その「生」に伴われた内面の不安と苦悩を、心理描写に長じた筆致をもって描いたとする。『若菜集』や『破戒』『春』において個我に目覚めた近代人の不安を描いたが、『家』以後の諸作品では近代の不安をも含めたより現実的、生活的な不安へと増大させて描き、その一人一人の「生」を肯定し、生きるための不安を描くのが藤村文学の表現の中核であり、そうした自己凝視と人生探求が島崎藤村の文学の原点であり本質であると結ぶ。

三 本論文の成果と問題点

 島崎藤村の『家』の本質に関する研究は要旨において触れたように定説がなく、大きく二極に分かれており、またその研究も一九七〇年以後停滞しており、その後有力な新しい考察がなされていない。それらの研究も、戦後盛んになった文学の歴史や社会性を重視する視点による、即ち、作品内部の忠実な検証による評価というよりも、社会性や歴史性がどれ程描き込まれているかといういわば外的条件を重視する評価か、自然主義文学の特徴である作者と作品世界とを同一レベルで考えその共通点に着目して論じるという研究が主流であった。筆者はこうした分裂したもしくは矛盾した研究動向に対し、主題・本質把握に統一的視点を呈示していることが第一に評価できるであろう。

 そのために筆者は何よりも作品そのものに則して綿密に読み解くことを手法として、表現に沿った丁寧な読みとりの作業・検証を主要な一人一人の人物はもとより、無視されがちな脇役の人物、些細な事象にまで行う(参考論文の一つ「藤村文学の用語と表現」『語学研究』第八九号、拓殖大学言語文化研究所一九九八年一二月刊)における「眼」や「眼付」に関する表現についての論文は本稿と同じ作品を取り上げたものであるが、表現論であるために本論に取り入れず、独立した論文となっている。この表現に関した論文においての分析は圧巻であり、その丹念な読みとりの姿勢は評価されるべきであり、外国人のものと思われなく、本論に取り入れられなかったのは惜しまれる)。

 三十五万余字に及ぶ論を主に『家』によって展開しているので、緻密な読解・解釈が可能になり、あたかも筆者が島崎藤村になり代わったかのような論述を行っており、従来の研究が概括的な検討しかなされていなかったかのような錯覚を感じさせる程の検討と、その本質や新しい観点の主題把握を行ないえたと評価できる。

 新資料として提示しうる大きなものはないが、従来注目されなかった人物や諸事象にも意味があること、藤村の細やかな気配りが行なわれたこと等総合的な理解が示され、書簡などの資料にも目配りし、『家』の本質が明らかにされた。

 しかしながら問題点や限界も指摘できる。まず第一に上述で評価された裏面についてである。即ち、筆者の論究が、他の主要な藤村作品にも及ぶものの、それらはそれぞれ一節に納められるに留まっていること、したがって島崎藤村の作品全体に議論が及ぶものでないことである。最終章において意図していたようであるが、一章それも短い章に留まっている。もっとも、『家』一つを深く掘り下げたことにより論じる対象は拡げられ、主要な作品への考察も行き届いている。本論が『家』を中心にした狭い論述になったことも、懸念される力量不足によるものではなくて、意識的な研究対象の限定であって、一作品において本論のような検証をなしえたのであるから、島崎藤村研究を今後も続けていくのであるならば、本論で示しえた考察力を以て同様に成しえるであろうと容易に推察される。

 第二に、中国人である筆者が日本文学を考察の対象とするにあたっては、他国人ないしは他者から見た島崎藤村論を展開しえたのではないか、その方が、将来的にも通用する有力で豊かな視点を示しえたのではないか、またより客観的な視点によって考察しえたのではないかと批評しえる。こうした批判に対しては、安易な比較考察を行うよりも、まず忠実に日本文学を島崎藤村をそれも概括的にでなく本質的に理解しようと努めたためと弁解できるであろう。しかしながら上述の不足感は否めず、今後の筆者の大きな検討課題であり、多面的、第三者的観点の研究姿勢が望まれる。

 第三に、島崎藤村に密着して論じすぎるあまり、また、従来の些か古い学説の論破に拘泥するあまり、文学の新しい研究手法や概念を取り入れることなく論証を終えたこと、又藤村そのものに着きすぎたため生じる視野の狭さ・大局的な観点の少なさも不満とせざるを得ない。この点も上述の第二点と同様で、『家』につき実証的に綿密に作品に忠実に論じようとしたためでもあるが、筆者の今後の大きな課題である。

 第四に、結論を急ぐあまり第七章第八章において論述不足な面がいくつか見られ、「近代の不安」「二律背反」に関する記述においては、キーワードとしているにもかかわらず、用語の適切性の問題もしくは、論究の不足感が否めず、「運命」等の用語においても日中間の理解の違いがあり、説明不足・定義不足になっている。文学論にありがちな欠点とはいえ、こうした概念に関する充分な留意が大いに望まれる。

 しかしながら、こうした問題点が多々あるにもかかわらず、日本文学に則した理解に努めようとし、作品に則した思考と論理によって島崎藤村並びに『家』の本質を解明しており、審査委員会は、本論文が、博士の学位を授与するのに必要な水準に達成していることを認定し、趙昕氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

1999年6月17日

 一九九九年六月十七日、学位請求論文提出者趙昕氏の論文について最終試験を行なった。
 試験において、提出論文「島崎藤村論―『家』を中心に―」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対し、趙氏は、いずれにも謙虚に適切な説明を行なった。例えば、氏の論は詳細であるものの『家』のみ論じるという狭さや、外国人の視点による新しい観点をなぜ取らなかったかという疑問に対しては、中国の文学状況に鑑み、個人を丁寧に描く優れた文学の紹介の必要性のために島崎藤村の文学にその価値を認め、安易な日中文学の比較や概括的な紹介や啓蒙を今後とも行なうためでなく、正しくその全貌を紹介するために、人間の生が濃縮されている『家』を中心に検証した旨の回答を得た。この他の疑問点にもほぼ納得しえる回答を得、氏がそれらの疑問点にも自覚しており、今後の氏の精進に待つことが期待できると判断された。また本論と合わせて提出された参考論文四篇もしかるべき水準にあると判断された。
 よって本審査委員会は、趙昕氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績及び学力を有するものと認定し、合格と判定した。

このページの一番上へ