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博士論文審査要旨

論文題目:ジャンセニスムと反ジャンセニスム −近世フランスにおける宗教と政治−
著者:御園 敬介 (MISONO, Keisuke)
論文審査委員:森村 敏己・古茂田 宏・深澤 英隆・山崎耕一

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 1 本論文の構成
 御園敬介氏の博士論文「ジャンセニスムと反ジャンセニスム −近世フランスにおける宗教と政治−」は、17〜18世紀のフランス社会を揺るがした「ジャンセニスム問題」を、反ジャンセニスト陣営の論客レオナール・ド・マランデの著作に焦点を当てながら分析することで、ジャンセニスム問題の生成と推移を再検討するとともに、ジャンセニスムが神学の領域に留まらず、教皇庁をも巻き込んだ政治問題へと拡大していく過程を豊富な資料を用いて詳細かつ実証的に解明した力作である。
 本論文の構成は以下の通りである。
 
 序論
 第I 部 レオナール・ド・マランデ
第1章 マランデとは誰か
1. バイエとその賛同者たち
2. 家族環境
3. 生涯
第2章 初期の著作
1. 懐疑主義
2. 護教論
3. 通俗化
第3章 ジャンセニスム論争へ
   1.論戦への参与
   2.動機
   3.マランデのオリジナリティー

 第II部 反ジャンセニスムの理論
第1章 恩寵論とその帰結
 1.自由と恩寵
   2.「ジャンセニスムの教理」
   3.批判の理論
   4.欺瞞とその説得
  第2章 政治的側面
   1.『ジャンセニスムに由来する国家的諸問題』
   2.宗教と政治の混交
   3.批判とその背景
   4.国家理性と反ジャンセニスム
  第3章 神学的根拠
   1.アウグスティヌスの権威
   2.原理主義
   3.教義的なものと蓋然的なもの
   4.相対化の動き

 第III部 反ジャンセニスムの運動
  第1章 ソルボンヌ大学 アルノー譴責事件
   1.ジャンセニウス批判からアルノー事件へ
   2.譴責 1655年10月から1656年2月
   3.事件の中のパンフレット
   4.アルノー譴責と反ジャンセニスム
  第2章 聖職者会議とジャンセニウスの「五命題」
   1.聖職者会議とジャンセニスム 1653年から1656年
   2.イノケンティウス10世とフランソワ・ボスケ
   3.翻訳をめぐる問題
   4.勅書の受諾から信仰の宣誓へ
  第3章 信仰宣誓書の署名強制をめぐって
   1.『教会の擁護』と国王への嘆願
   2.王権と反ジャンセニスム
   3.『ジャンセニウスに関する事実問題』—動機と内容—
   4.教会的信をめぐって

 結論
 付録
 文献目録

 2 本論文の概要
 序論ではまず「ジャンセニスム」という用語が明確な輪郭を持たず、定義が困難な言葉であることが確認される。ジャンセニスムとはこれを批判した陣営が生み出した名称に過ぎず、批判された人々はジャンセニスムの存在自体を認めていないし、実際にこの言葉が想起させるような何らかの統一的な思想傾向が存在したわけではないという。しかし、ジャンセニスムという言葉によってある種の異端を指し示そうとした動きがあったことは間違いない。ここから著者は「ジャンセニスム」の生成自体を検討課題とし、そのために二つの視点の転換を提唱する。ひとつは静的理解から動的理解への転換である。それによりジャンセニスムを一部の知識人たちの特定の思想傾向として捉える姿勢を批判し、ジャンセニスムがまさにこの名称の下に社会的・政治的な問題として成立する過程を把握しようとする。もうひとつはジャンセニスムから反ジャンセニスムへの転換である。ジャンセニスムを問題化したのが反ジャンセニスム陣営である以上、またジャンセニスム問題の推移は両陣営による議論の応酬を通じて初めて理解可能となる以上、この視点の転換は不可欠であるとされる。そこで著者は反ジャンセニスムを代表する論客としてレオナール・ド・マランデを取り上げる。ジャンセニスム批判の多様な論理を整理し、論争の転換点には必ずといってよいほど関与していたマランデは著者の目的にとって最適の著述家であるとされる。
 第I部は、ジャンセニスム論争に深く関与しながらも、これまでほとんど研究が進んでいないマランデの生涯と著作の分析に当てられている。それは同時にこの人物を取り上げる意義を確認する作業でもある。
 第1章では問題となるマランデという人物が特定され、その家系が辿られたうえで、ジャンセニスム論争に参加するまでのマランデの生涯が明らかにされる。地方文書館の史料を渉猟することで著者は多くの事実を発掘しているが、同時にマランデ家に関する記述は、地方の法曹界に身を置く一族が社会的階梯を確実に上昇していく際のひとつの典型的事例を叙述するものとなっており、この点でも興味深い。
 第2章で著者は1640年代までのマランデの初期の著作を分析することで、彼の論争家としての特質・独自性の基盤を明らかにする。著者によれば著述家としてのマランデを理解するキーワードは懐疑主義、護教論、通俗化の三つである。まず「空しさ」を暴き出すことに力点を置くマランデの懐疑主義はモンテーニュの影響下にあるが、同時に彼の懐疑は既存の知見に隷属せず、精神の自由を確保するための方法的懐疑でもある。それ以上に注目すべきは、懐疑の対象はあくまで人間の行為に限定され、キリスト教は懐疑の対象とはなり得ないとするマランデの立場である。次にマランデの護教論は16世紀の信仰主義から17世紀の合理主義へという護教論の流れに沿ったものとして解釈され、信仰において理性に一定の役割を認めながら同時にその限界を確定しようとするマランデの態度は、彼の懐疑主義と矛盾するものではないとされる。第三の通俗化はマランデの特徴の中でもっとも重要な要素である。リベルタンよりも宗教への無知や無関心のほうが危険であると考えていたマランデにとって、難解な専門用語を駆使し、ラテン語で著された神学の基礎を、平易なフランス語を用いて一般信徒にわかりやすく伝えるという仕事は重要な意味を持っていた。実際この点で彼は優れた才能を発揮したが、この点はのちにマランデが反ジャンセニスムの論客として果たした役割を説明するものでもある。
 第3章は1653年に始まるマランデのジャンセニスム論争への参加を扱う。ジャンセニスムを批判するイエズス会はマランデの著作を高く評価する一方で、ジャンセニスト側は彼に対して激しい嫌悪を示し、論争相手として承認することさえ拒絶した。こうした極端に異なる反応は通俗化というマランデの著述の特徴に由来する。つまり、ジャンセニストから見れば神学の素人に過ぎないマランデが論争に介入すること自体、栄誉欲と傲慢さの表れに他ならず、恥ずべき行為であったし、逆にイエズス会にとってはジャンセニスムの問題点を平易な言葉で広く一般読者に知らせるマランデの筆は貴重なものだったのである。また、マランデは多様な論点を整理し、明快に論じることで読者層を拡大するだけでなく、批判を単純化・先鋭化させ、ときに独自な議論を展開することもあった。こうした能力は反ジャンセニスム陣営にとっては利用価値が高く、彼自身の野心とも相まって、マランデは抑圧勢力と連携しつつ頻繁に論争に介入することになる。こうした多様な論点を自在に扱い、かつ論争に広く関与するというマランデの特徴ゆえに、彼の著作は論争全体を俯瞰する上で格好の題材を提供しているとされる。
 第II部のテーマはジャンセニスム批判の理論を検討することである。著者はここで恩寵論、政治、神学的典拠という三つの論点を取り上げながら、ジャンセニスムに反対する論者たちがどのような教理を「ジャンセニスム」と見なし、批判したかを解明しようとするが、それは同時に「ジャンセニスム」問題の生成過程を明らかにする作業でもある。また、こうした作業を進める上で、複雑に絡み合う多様な論点を整理したマランデの著作は有効な分析対象となる。
 第1章では恩寵論が取り上げられる。論争の初期からジャンセニスムの「異端性」は、ソルボンヌの反ジャンセニストたちがジャンセニウスの『アウグウティヌス』に含まれるとみなした五命題に集約されていたが、マランデはこの五命題をさらに単純化し、「イエス・キリストが必然的恩寵を与えた一部の人間のためだけに死に、他の全ての人々のために死ぬ意図を持たなかったため、彼らにはその恩寵を拒否すること」と理解した。こうした単純化は批判を受けた側から見ればジャンセニウスの教義の歪曲に他ならないが、その一方で「ジャンセニスムの教理」に明確な輪郭を与え、「不公正な神」という異端色を塗りつけることに貢献したとされる。こうしてマランデはジャンセニスムの教理をカルヴァン主義と重ね合わせ、それがキリスト教信仰の基盤を掘り崩すものであることを七つの論点を挙げながら論証していく。ジャンセニストたちはもちろんカルヴァン主義とは一線を画しており、自分たちが異端であるとは認めていないため、彼らにとってはこうした批判は誤解に基づく中傷に過ぎない。しかし、それでもマランデによる論点整理により我々はジャンセニスム批判の内実を的確に理解することができると著者は指摘する。さらに、反対派は難解な神学用語を駆使して人々を欺くとしてジャンセニストたちを非難するという戦略を取っていたが、それはマランデにとって格好の活躍の場を提供するものだったとされる。
 第2章では神学問題を越えて、なぜジャンセニスムが政治的抑圧の対象となったのかが問われる。一般には宗教と政治、教会と国家の不可分性ゆえに、宗教上の変革を求めるセクトは必然的に国家の混乱を招き、それゆえ政治的に危険であるとされる。マランデもこうした一般論を援用しているが、彼はそれだけに留まらず、ジャンセニストがとりわけ政治的なセクトだと論証することで、彼らが国家にとって危険な存在であり、弾圧されるべき集団であることを示そうとする。著者は彼の『ジャンセニスムに由来する国家的諸問題』を分析し、ジャンセニスムを政治的セクトと決めつける七つの論拠を摘出する。著者によれば17世紀におけるジャンセニスム論争において主要な論点となったのは神学上の議論であり、その意味でマランデのこの著作は貴重な作品だが、ここでもマランデはただ一人独自な観点を示した作家としてではなく、神学論争の中に不明確なまま見え隠れしていた、あるいは潜在的に存在していた政治問題にはっきりとした形を与えることで、読者に問題の所在を意識させた著述家として位置づけられる。
 第3章ではアウグスティヌスの権威をめぐる問題が取り上げられる。論争の発端となったジャンセニウスの著作が『アウグスティヌス』であったことが示すように、ジャンセニスムの教義はアウグスティヌスの教えに忠実なものであり、ジャンセニスムの正統性はアウグスティヌスの権威によって保証されているというのがジャンセニストたちの立場であった。そのため、反対派はアウグスティヌスの権威という問題を避けて通ることができない。17世紀は「アウグスティヌスの世紀」と呼ばれるほど、この聖人は圧倒的な権威を誇っており、とりわけ恩寵論に関してその教説に疑問を差し挟む余地はないほどであった。このためジャンセニストだけでなく、反ジャンセニストもアウグスティヌスを自説の根拠として引き合いに出し、いわば両陣営はアウグスティヌス解釈の正しさを競い合うという構図が成立していたとされる。こうした中でマランデはアウグスティヌスの教理を解釈するための基準を設定することで、アウグスティヌスの権威に正面から対抗することを避けつつ、ジャンセニストの主張の根拠を堀崩すという作戦をとった。しかし、それでも教父の言説の中に「教義的なもの」とそうでないものを区別し、その権威が及ぶ範囲を確定しようとするマランデの姿勢は、こうした区別を怠り、誤謬を含みうる言説にまで聖書に等しい権威を与えたとしてジャンセニストを非難することを目的としていたとしても、結果的にアウグスティヌスの権威を相対化するものであったことは否定できないとされる。だが、同時に著者はこうした相対化の試みが決して孤立したものではなかったことを論証している。多くの論者がアウグスティヌスの権威の大きさゆえにアウグスティヌス解釈の正しさを競い合ったのは事実だが、より徹底したジャンセニスム批判を目指す少数の論者がアウグスティヌスの権威の相対化を進めようとしていたことも確かであり、そうした立場にもっとも明確に理論化したのがマランデであると著者は言う。
 第III部ではジャンセニスム抑圧の実践的な側面、すなわち反ジャンセニスムの運動と政策が分析対象となり、著者はこれをアルノー譴責事件、「五命題」事件、「信仰宣誓書」署名強制事件という三つの局面に区別し、それらの背景や関連を解明していく。
 第1章ではジャンセニスム問題の歴史の中でもよく知られたエピソードであるアルノー譴責問題を扱うが、著者はここでも、従来の研究のようにソルボンヌにより譴責されたアルノーと彼を擁護するジャンセニストたちの視点ではなく、加害者側の視点を取り入れることでこの事件に新たな光を当てることに成功している。1655年10月から翌年2月に至る事件の推移に中に宰相マザラン、母后アンヌ・ドートリシュ、大法官セギエ、高等法院長モレといった人々の関与を確認した著者は、事件がジャンセニスム弾圧を決意した王権の後押しを受けて進展したことを示唆し、そのうえで、こうした包囲網にも関わらずアルノーによる反論の結果ソルボンヌ内部で譴責決議を疑問視する動きが生じたとき、譴責推進派の意を受けてアルノーを反駁する役目を引き受けたのがマランデであったとしている。ここでもマランデは通俗化という得意の手法を用いて、アルノーおよび彼を擁護したパスカルの『プロヴァンシャル』に対抗し、アルノー譴責が決定したあとにはそれを広く流布させるために筆を執っている。つまり、アルノーやパスカルがその雄弁によってソルボンヌの外に向かって語りかけ、ジャンセニスムに有利な流れを作ろうとした際、同じ読者層に向けて反論の書を執筆することで流れを取り戻す役割を果たしたのがマランデなのである。そして、こうした役割を担ったこと自体が彼の最大の特徴であり、また、その著作の重要性を説明する要因だとされる。
 第2章では同じ時期に聖職者会議を舞台として進行していた「五命題」事件が分析される。著者はこの聖職者会議とマザランが代表する王権、およびローマ教皇庁という三者の思惑が絡み合う事例としてこの事件を扱うことで、その複雑さと広がりを示すとともに、いわば公式な抑圧勢力の外縁に陣取りながらジャンセニスム弾圧に重要な貢献をしたマランデの役割を浮き彫りにしている。1653年5月31日ローマ教皇はフランス聖職者会議の要請を受けてジャンセニウスの『アウグスティヌス』に含まれる「五命題」を断罪する大勅書「クム・オカジオーネ」を発布した。そこでは、この「五命題」が異端であるとの「権利問題」は明確だったが、それがジャンセニウスの教理なのかという「事実問題」については曖昧なままであった。ジャンセニスム弾圧を進めようとしていたマザランや聖職者会議にとって、この「五命題」はジャンセニウスのものでなければならず、その方向で解釈することを決議する。しかし、この決議は本人がいまだ明確にしていない教皇の意図を先取りするものであり、このため聖職者会議は自らの決議内容の追認を教皇に求めざるをえない。その結果1654年9月29日に発布されたのが小勅書「エクス・リテリス」である。ジャンセニスム弾圧の切り札ともなるこの小勅書は反ジャンセニストにとっては不可欠であり、その点で極めて重要な意味を持つ文書であったとされる。著者はこの小勅書が出されるまでの経緯を辿り、それがフランスとローマの複雑な駆け引きの産物であることを明らかにしたうえで、聖職者会議が最初に関連文書をとりまとめ印刷した際のこの小勅書の仏訳と、翌年に印刷された正式な『審議報告』に収録された仏訳との違いに注目する。後者はマランデの手によるものだが、前者は聖職者会議が重視した事実問題を再び曖昧にしかねない不正確な翻訳であった。ここから著者はジャンセニストへの強硬な弾圧がかえって高位聖職者間の分裂を招くことを恐れ、国内の融和を優先する立場から作成された最初の翻訳に対し、あくまでジャンセニスム弾圧を進めようとする勢力が事実問題をより明確に表現した翻訳を必要としたのであり、その仕事を引き受けたのがまたしてもマランデであったとしている。
 第3章がテーマとする信仰宣誓書問題は「五命題」事件と直接結びついている。小勅書を得ることでジャンセニスム弾圧の大義名分を固めた聖職者会議は、今やジャンセニウスのものだということが明白となった「五命題」を断罪する大勅書を受諾し、それに署名するための統一書式を作成したうえで、署名の実施を強行しようとして激しい論争を引き起こした。著者はこの問題をめぐる経緯を詳細に辿った上で、署名強制の正当化に関してマランデが果たした貢献を分析する。それによれば教皇による小勅書ののちもジャンセニストは「五命題」はジャンセニウスのものではないとして「事実問題」を否定する立場を堅持したが、その根拠は、事実に関しては教皇も公会議も不可謬ではないとする見解であった。著者によれば信仰問題は神的信の対象であり、その点で教皇と公会議は不可謬だが、個別的事実に関しては人間的信の対象に過ぎず、教皇・公会議もこの領域では不可謬ではないという理解は当時一般的であり、その意味ではジャンセニストの見解は何ら特異なものではなかった。逆にこれを批判し、署名強制を正当化しようとしたマランデのほうが新しい論理を構築する必要に迫られていたのである。そのためにマランデは人間的信を「純粋な人間的信」と「人間的教会的信」(もしくは単に「教会的信」)とに区別し、後者は聖書が教会に与えた権威に基づき、教会により命じられた「事実」を受け入れるための信だという。そして教皇が誤りうるのは「純粋な人間的信」に基づく事実であり、「教会的信」に対応する事実については不可謬だとの議論を展開する。こうしてマランデは「信」に新たなカテゴリーを立てることでジャンセニストによる反論を封じ込めようとしたのだという。さらに著者はこの「教会的信」という概念を当時の思想的文脈の中に位置づけた上で、通常この概念の創始者であるとみなされるパリ大司教ペレフィクスに影響を与えたのがマランデの著作である可能性を強く示唆するとともに、この概念の創出が事実問題は神的信の対象ではないとするジャンセニスム側の抵抗理論に対抗するための現実的な試みであったことを明らかにしている。
 結論では、マランデという反ジャンセニスムの著述家の視点を取り入れながら、両陣営の間の相互作用を重視するという本論の方法論がどのような成果を挙げたのかが示される。それによれば、従来の研究はしばしばジャンセニスム問題を当事者の意図に反した誤解・捏造に基づく不当な迫害としてきたが、実際に論争の主導権を握り、常に新たな論点を創出していたのは迫害される側であり、どのような圧力にも屈せず抵抗を進める彼らを支えていたのは、正当な理由なしにはいかなる権威に対しても服従しないという強固な意志であり、それは、どんな組織の力も及ばない個人の内面の領域を彼らが確保していたことを示しているという。そして、こうした権威への単純な服従を断固として拒む彼らの姿勢こそが迫害者を結束させたのであり、その意味でジャンセニストたちの姿勢はジャンセニスム問題を成立させるひとつの要因であったという。つまり、弾圧への抵抗を通じてジャンセニスムは自らの輪郭を形作っていったという側面をもつのであり、それは決して抑圧者たちが作り上げた幻影ではなかったのだと著者は主張する。
 
 3 本論文の成果と問題点
 本論文の成果として第一に強調すべきは、徹底した資料調査に基づき、実証性という面において極めて高い水準に到達している点である。いわゆる「ジャンセニスム論争」に直接関与した文献だけでも膨大な量に上るが、著者はそれらの作品に留まらず、フランス聖職者会議とローマ教皇庁との複雑な駆け引きを示す資料、さらにマランデの伝記的研究に必要な地方文書館所蔵の手稿など、圧倒的ともいえる量の資料を渉猟・分析しており、それに立脚した議論の展開は手堅く、説得的である。著者のこうした努力は、マランデという人物の独自性と重要性を発見しただけでなく、ジャンセニスムがローマをも巻き込んだ政治問題化していく過程を詳細に明らかにしたという点でも極めて大きな成果を挙げたといえる。
 第二の成果は方法論に関わる問題である。著者が主張するように、従来のジャンセニスム研究はアルノー、パスカルといった極めて重要な著述家がジャンセニスム陣営にいたことに加えて、ジャンセニストを国家権力による不当な弾圧の犠牲者と見る傾向のため、迫害されたジャンセニストの視点から論争と弾圧の経緯を捉える傾向が強かった。しかし、弾圧は不当なものであったことを前提とするこうした姿勢には、ジャンセニスムがどのような意味で問題視され、なぜ弾圧は強化されていったのかという点、つまりある思想傾向が「ジャンセニスム問題」としてクローズアップされる経緯を解明する上で限界がある。その意味で、反ジャンセニスム陣営の視点を積極的に取り入れ、両陣営による議論の応酬とそれによる相互作用を重視する著者のアプローチは極めて有効なものだと評価できる。ローマ教皇から大勅書を獲得したのち、その意図をより明確にするための小勅書を要求したフランス聖職者会議の行動やその後の宣誓書への強制署名をめぐる論争などは、状況に応じて戦術を変え、新たな論点を生み出しながら抵抗を続けるジャンセニストのしたたかさと、それへの対応を余儀なくされる中で問題を政治化させていく反ジャンセニスム陣営の相互作用を見事に描き出した例であろう。
 第三はマランデという人物の「発見」である。マランデという人物の存在はこれまでも一部の専門家の間では知られていたが、研究対象となることはなかった。その理由は彼が法曹界出身でプロの神学者ではなく、思想史的には独創的な議論を展開したわけではなかったこと、またアルノーをはじめとするジャンセニストたちが神学の素人に過ぎないマランデからの批判をまったく黙殺したために、両者の間に「論争」が成立していなかったことによる。つまり、マランデは、アルノーという巨人に勝手に吠えかかりながら、相手にされなかった小者として理解されていた節がある。しかし、著者は、難解な神学論争を平明なフランス語を用いて明快に解説するとともに、論点を的確に整理するいう才能を活かしてマランデはジャンセニスム論争において重要な役割を果たしていたことを明らかにした。マランデの作品を分析することは、ジャンセニスム論争の流れと論点の変化を知るために有効であるばかりでなく、神学者間の対立であったこの問題が社交界を巻き込んだ広範な論争へと変貌していくプロセスを理解する上でも極めて重要である。
 一方、今後の課題として指摘すべき問題点も見受けられる。
 ひとつはジャンセニスムという概念の定義に関わる問題である。ジャンセニスムという名称は反ジャンセニスム陣営が作り出し、押しつけようとしたものに過ぎず、この名称のものに特定の思想傾向を定義することは不可能であり、またジャンセニストと呼ばれる人々自身は決してこの名称を引き受けようとしなかったということから、近年の研究はジャンセニスムという概念自体に懐疑的な傾向にある。著者はこうした状況を前提に、アプリオリにジャンセニスムを定義づけるのではなく、反ジャンセニスム陣営との議論の応酬という動的な過程からジャンセニスムの輪郭を浮かび上がらせようとする。このアプローチ自体は有効であり、魅力的であるが、動的な過程の重視という姿勢は、のちにジャンセニスムと呼ばれることになる、ある特定の思想傾向がなぜ弾圧を招いたのかという、いわば迫害の発端の問題を見えづらいものとしている。確かにジャンセニスムをアプリオリに定義づけることは困難であろうが、しかし、弾圧の契機となる何からの要因はジャンセニスムの中に当初からあったはずであり、著者は論争の過程が徐々に形作る輪郭の解明に重きを置いたために、この点での説明が十分でなかったことは否めない。
 第二の問題点はマランデの位置づけである。これまで忘れられていたマランデの議論を分析することの重要性は十分に論証されているが、著者が描くマランデは論点の整理に長けた「解説者」、ジャンセニスムに傾きかけた流れを引き戻すために反ジャンセニスム陣営が便利に利用した器用な作家という印象が強い。もちろんそうした位置づけが誤りであるわけではないだろうが、論争の局面の転換に大きな貢献をしたマランデについて、より積極的な位置づけを与えてもよかったのではないか。著者は自らがその重要性を発見したはずの著述家の持つ意義に関して遠慮がちであるようにも見える。
 第三に、問題点とするのは著者に対して酷ではあるが、著者は丹念な資料調査に基づく実証的な論述というスタイルを貫いたために、しばしば禁欲的もいえる姿勢を示す。ジャンセニスム論争における恩寵論と政治論の内在的関連、近代的な良心の成立に対してジャンセニスム論争が与えた影響など、探求するに値する興味深いテーマはあったと思われるが、著者は自らこうしたテーマを今後の検討課題とし、積極的に取り上げようとしなかった点が惜しまれる。
 ただし、こうした問題点は著者もよく自覚するところであり、本論文の学問的成果を損なうものでは全くない。
 
 4 結論
 審査員一同は、上記のような評価と、2010年1月21日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 2010年1月21日、学位請求論文提出者御園敬介氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「ジャンセニスムと反ジャンセニスム −近世フランスにおける宗教と政治−」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、御園敬介氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は御園敬介氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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