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博士論文審査要旨

論文題目:啓蒙運動とフランス革命 ― 革命家バレールの誕生
著者:山﨑 耕一 (YAMAZAKI, Koichi)
論文審査委員:森村 敏己、古茂田 宏、小関 武史

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本論文の構成
 「啓蒙思想」と「フランス革命」の関係を問うことは古典的なテーマである。啓蒙思想がフランス革命の直接的な原因だとするような短絡的な解釈は成り立たないにせよ、一八世紀半ばから顕著になる思想・文化・社会・政治など多くの領域における変化と、一七八九年に始まるラディカルな変革との関係を問うことの意義は色褪せてはいない。本論文は、「啓蒙思想」ではなく「啓蒙運動」という用語を提唱することで、一八世紀後半の変化を統一的で明確な輪郭をそなえたものとしてではなく、多面的でときには矛盾をはらむ様々な方向性を包含する動きとして再検討し、その作業を通じてこの古典的なテーマに新たな光を当てようとする力作である。
 目次は以下の通りである。ただし、各章は複数の節に分かれているが、それについては省略する。

序章
 第㈵部 バレールの思想形成
第一章 バレールの生涯
第二章 懸賞論文(一)社会思想
第三章 懸賞論文(二)学問と哲学
第四章 弁護人バレールの活動
第五章 「モンテスキュー頌」
第六章 革命へ

 第㈼部 トゥルーズでの啓蒙運動
第一章 アカデミーでの活動
第二章 ピエール・フィルマン・ド・ラクロワ
第三章 アレクサンドル=オーギュスト・ジャム
第四章 ジャン=バチスト・マーユ
終章  結論

 補論
第一章 バレール作「モンテスキュー頌」のテクスト
第二章 モンテスキューをめぐる三つの戯曲
第三章 サン=ジュスト著『革命の精神』をめぐって
第四章 ルソーとフランス革命—バルニとロビスコ

資料1 マーユの蔵書目録
資料2 バレールのアカデミー入会演説

本論文の要旨
 本論文は、補論を除けば、弁護士、地方アカデミー会員を経て革命議会に参加した典型的革命家のひとりであるベルトラン・バレールを扱う第一部と、彼が革命前に弁護士として、また地方アカデミー会員として過ごしたトゥルーズの知識人たちに焦点を当てた第二部とから成る。序章において著者は、ダニエル・モルネに始まる「啓蒙と革命」の関係をめぐる研究史を、ロバート・ダーントン、キース・マイケル・ベイカー、ロジェ・シャルチエという代表的な論者三名に焦点を当てながら整理したうえで、一定の方向性を持ち理論的にも整理された体制批判、いいかえればわれわれが「啓蒙思想」と呼ぶものとは区別して、批判的ではありながらもより混沌とした、そして体系化された思想とは異なる「思想を生み出そうとする態度・関心」を「啓蒙運動」と名付ける。そして、バレールとその同僚たちの活動を子細に分析することで、この「啓蒙運動」の実態を明らかにすることが本論文の目的であるとされる。
 第一部第一章で、地方名望家の一族に生まれ、三〇代前半で革命に身を投じたバレールの生涯を目まぐるしい政治情勢の変化と重ねながら素描したうえで、第二章以下では革命前の若きバレールの思想と活動が分析される。まず二章と三章において著者は、当時の若い知識人らしく文筆活動による名声を求めたバレールが、地方アカデミーが募集した懸賞論文への応募作として執筆した作品を中心にその思想を検討する。その際、底本とされるのは従来の研究が用いてきた革命後に活字になったテキストではなく、地方の文書館に保存されている手稿である。その中には著者が初めて発見した資料も含まれる。それにより著者は革命後にバレールが付け加えた部分をていねいに剥ぎ取り、革命の経験によっていわば特定の方向に向けて整理される前のバレールの思想を解明しようとする。こうした態度は革命というフィルターを通して「啓蒙思想」を理解することを避け、後の革命家が革命前に生きた現実に迫ろうとする姿勢を表しているが、そのうえで著者は、出自に対する功績の優位、暴力や恣意による支配に代わるものとしての法による支配といった要素をバレールの特徴として摘出している。とりわけ重要なのは、バレールが当時の「哲学」をふたつに分けて理解していたという指摘である。われわれが「啓蒙思想」として一括して理解しがちな思想潮流は、自然や内面的な感情に基盤をおく真の哲学と、形而上学的で「無知と野蛮の闇」と表現される無神論、唯物論とに区別されている。ここに著者は後の時代が作り上げた「啓蒙思想」という呼称で一八世紀の思想を理解することの危うさを見いだしている。
 続く第四章ではバレールの弁護士活動が検討される。バレールは革命後に公刊した『メモワール』で、身分対立を前提に、自らの活動を貴族に対して平民の立場を擁護するものだったと回想しているが、著者は実際の訴訟記録を分析することで、それが革命を経たバレールの思想があとから投影された言説に過ぎないことを論証している。現実には、革命前のバレールは共同体同士あるいは共同体と個人の間の紛争を調停することに努力する中で、法的手続きの遵守、有罪が立証されるまでは被告は無罪と推定されるという原則の維持、罪に対して重すぎる刑罰への批判を弁護活動の指針としていたのであり、貴族対平民という対立の構図はそこには見られない。ここでも著者は、革命を経て明確になるイデオロギーによってバレールが直面していた状況とそれに対する彼の行動とを解釈することを戒めている。
 第五章では一七八七年から一七八九年にかけてボルドー・アカデミーの懸賞論文に応募するために三度にわたって執筆された「モンテスキュー頌」が分析される。この期間は名士会の開催に始まり、全国三部会の招集決定、その議員数と議決方法をめぐる論争などを経て革命の勃発にいたるという、まさに激動の時期にあたる。その間、政治情勢は急変し、フランス社会は一挙に政治化していった。著者はこの作品の三つの版の検討を通じて、眼前で進行する変化に触発されてバレールの政治思想が明確な輪郭を取り始め、ひとりの地方知識人が「革命家」となる様子を描き出している。一七八七年には理想の政体についてはっきりとした展望を持たず、自由についてもその行き過ぎを警戒していたバレールだが、一七八八年版では貴族をあるべき政体から排除し、国民の代表である全国三部会を中心とした、民主主義的色彩の強い立憲王政を目指すという意志を鮮明にしている。また、自由、権利といった概念も前年に比べてより具体的に論じられるようになる。もっとも重要な点は啓蒙的な君主のもとで既存の体制内での改革を目指す姿勢から、国制の全般的改革すなわち革命の実現へとバレールの意識が変化していることである。さらに第六章で「人権宣言」の公布後に執筆された文書を検討しながら、著者は革命前に吸収・形成していた思想をバレールがいかに革命の現実と結合していったかを明らかにする。こうして「啓蒙運動」が政治情勢の激変という現実に刺激されながら変容し、革命に結びついていくひとつの可能性が、バレールという具体的な事例を通して示されるのである。
 第二部はバレールが革命前の二〇年間を過ごしたトゥルーズに焦点を当て、彼を取り巻いていた知的環境をトゥルーズ文芸アカデミー(アカデミー・デ・ジュ・フロロー)の活動から読み取ろうとする。第一章では一七五〇年から一七九〇年までを対象にアカデミーに寄せられた懸賞論文その他の作品が分析されるが、著者はここで一七五〇年代と一七六〇年代以降とではアカデミーの知的状況に変化が生じたとする。モンテスキューの強い影響のもと、その理論的枠組みに従い、穏和な君主制を理想とし、中間団体の役割を高く評価する点、法と道徳と習俗の問題を重視する点は一貫しているが、「哲学」への態度、ルソーへの評価についてアカデミー内部には変化が確認できる。著者によれば当時「哲学」には二つの意味が存在した。ひとつはキリスト教信仰と結びついた人生における「知恵」。もうひとつは理性を基盤とした、実験と観察による自然と社会の客観的認識である。五〇年代までアカデミーはあきらかに後者の意味の哲学を批判し、神への信頼にもとづく知恵こそが道徳と幸福をもたらすとする態度を取っていた。しかし、六〇年代以降、理性的認識としての哲学に好意的な言及が目立つようになり、知恵への信頼と対立する状況が続くようになる。ルソーについては一七八〇年代になってそれまでの批判的なトーンは一転し、熱狂的な共感が見られるようになるが、この点について著者は、ルソーの思想への理解が深まったのではなく、アカデミーの知的雰囲気が変化したのだと評価している。
 続く第二章から第四章では前章で行ったアカデミーの全般的傾向の分析とは別の角度から、トゥルーズの知識人が体験し、推進した「啓蒙運動」を個別事例に沿って具体的に検証するため、バレールと同じく弁護士でもあり、トゥルーズの文芸アカデミー会員でもあった三名の人物が取り上げられる。一人目はプロテスタントに対する冤罪事件として有名なシルヴァン事件で被告シルヴァンを弁護したピエール・フィルマン・ド・ラクロワである。アカデミーでの文芸活動において彼は当時の「啓蒙思想家」たちを誤った哲学的精神の持ち主として激しく揶揄・批判し、理性による合理的な認識に敵対している。しかし、その一方で高等法院によるイエズス会の追放に関しては「狂信」を批判する立場から高等法院を擁護する。さらにシルヴァン事件では無実のシルヴァンを有罪とした判決を「無知」と「狂信」によるものとして弾劾し、「寛容」と「人間性」をこれに対置するのである。この意味では彼は明らかにヴォルテールの「下劣なものを押しつぶせ」というスローガンに共鳴する人物だった。著者はここで「啓蒙思想」なるものが明確な輪郭をもって存在したという考えに囚われている限り、ラクロワのこうした態度は矛盾でしかないことを指摘し、むしろ彼の中ではこれらの要素が調和していたことに注意を促すことで「啓蒙運動」の実態を探ろうとしている。次に取り上げられるアレクサンドル=オーギュスト・ジャムは、公証人の子として生まれながら弁護士、アカデミー会員として社会的上昇を遂げ、革命が始まるとこれに批判的な態度を取り、逮捕・投獄・逃亡を経験した後、革命後には再びトゥルーズの名士として復活した人物である。筆者は反革命という立場から革命前のジャムを短絡的に反啓蒙と考えることを戒め、ここでも現在の啓蒙観から見れば矛盾と思われる諸要素がジャムの中に並存していたことを指摘する。宗教に対して冷淡で、修道院についてもその経済的非効率性ゆえに規制すべきとしていた彼は、三部会招集の際の陳情書では第三身分の議員数を他の二身分の合計と同数にすること、身分毎ではなく議員毎に議決すること、課税の決定には国民の同意を要すること、免税特権は廃止すること、出版の自由を実現すること、公職をすべての市民に開放することなどを要求し、さらには科学技術の普及にも好意的であった。その一方で、高等法院の存在意義を評価し、身分制を基盤とする伝統的社会秩序維持を求めていた。ジャムにとって自らの社会的上昇を可能にしたアンシャン・レジーム社会は根底から破壊されるべきではなく、メリトクラシーは身分制と矛盾するものではなかったのである。著者は、革命がそれまで共存していた二つの方向性の間での選択をジャムに迫り、その結果、ジャムは反革命に身を投じたとして、矛盾するかに見える二つの方向性をともに包含するものとして「啓蒙運動」を理解することの必要性を示唆するのである。最後はジャン=バチスト・マーユである。彼は革命の理念に共鳴し、立法議会、次いで国民公会の議員となり、ルイ一六世の死刑にも賛成している。またトゥルーズにおいてもっとも早く反高等法院の立場に転じた弁護士でもある。マーユの革命前の文筆活動において目を引くのは懸賞論文「アメリカ独立の意味」で主張されるように、理性への信仰、科学・技術がもたらす進歩への信頼、そして過去との断絶を肯定する姿勢であるという。著者はマーユの中に早くから「革命家」への道を歩み始めた知識人の典型を読み取っている。
 以上の第一部、第二部を受けて終章では、アンシャン・レジーム社会を批判し、改革に向けてはっきりとした方向性をもった思想運動が存在したのかがあらためて問われる。著者はこれまでの分析から明確な輪郭をもつ「啓蒙思想」を想定することは難しいとしたうえで、人物と思想傾向とを直線的に結びつけることを批判する。つまり、ひとりの人物はいくつもの側面を持つのであるし、また、同時代人もひとりの思想家を多様な面から捉えていたのである。さらに著者は思想には複数のレベルが存在することに注意を向け、それぞれの層にはそれぞれの思想傾向が存在し、こうした複層性を無視して、ある人物の思想が進歩的か否か、啓蒙的か反啓蒙的かを問うても意味はないとする。著者によれば「啓蒙思想」の金字塔であるはずの『百科全書』にしても様々な思想傾向の論者によって引用されているのであり、思想的立場いかんにかかわらず一種の模範文例集として機能していた可能性が示唆される。では、同じく多様な思想傾向を併せ持つトゥルーズの知識人でありながら、革命が始まったあと、バレールとマーユは革命家となり、ジャムは反革命派となったのはなぜか。著者はここで世代の相違がひとつの要因ではないかとする仮説を提出する。革命前に老齢に近づき期待できる社会的上昇の頂点に達した世代と、エリートコースを歩みながらも社会の大変革にさらなる飛躍の機会を見いだし得た若い世代の相違である。この点はダーントンの説を補足するものとして興味深い。
 補論は四つの章から成る。第一章では第一部第五章で分析されたバレールの「モンテスキュー頌」について、一七八七年、八八年、八九年にそれぞれ提出された三つの作品がすべてバレールによるものであることが、著者自らがタルブの県立古文書館および市立図書館で発見した手稿に依拠しながら論証される。第二章ではモンテスキューを主人公とした三つの戯曲が検討される。これらの戯曲においてモンテスキューの思想内容は問題ではない。苦境に立つ誠実な青年を救うという「善行」を行った人物としてモンテスキューを登場させることは、『法の精神』の思想的影響とは異なるかたちのモンテスキュー受容の一形態であり、著者によれば「啓蒙運動」とはこうしたルートで著名な思想家に親しむことをも含むものであったという。第三章は革命期、恐怖政治の中心人物のひとりであったサン=ジュストが一七九一年に執筆した『フランスの革命と憲法の精神』の分析にあてられる。著者はここでボヘミアン文学者が既存の体制への嫌悪から革命に身を投じたとするダーントンの説を意識しながら、放蕩生活を送っていたサン=ジュストが革命家に転じた後、モンテスキューとルソーの思想をどのような「アプロプリアシオン」、すなわち「読者自身による主体的な解釈行為」を経ながら摂取し、作品に利用したかを検討する。そして、革命が実現した新たな体制の理論的擁護と、自然にもとづく無垢な道徳への憧憬というふたつの次元がこの作品には共存するとして、サン=ジュストにとっての「啓蒙運動」とそれが革命を媒介として理論化されていく過程に迫ろうとしている。第四章では「ルソーとフランス革命」をテーマにした二つの研究が分析される。著者はこの作業を通じて、多様なジャンルに渡るルソーの著作がどのように読まれたかという問題を、革命家たちと「啓蒙運動」の関係を考察するひとつの事例として検討する。また、近年の歴史学において重要な概念となったアプロプリアシオンの有効性についても言及している。著者がここで取り上げるバルニとロビスコは対照的な研究方法を取っている。バルニは「ブルジョワ革命論」を基盤とし、ロビスコはこれに否定的であるという点以上に、バルニがルソーの思想なるものをアプリオリに前提した上で、それが革命家たちにどのような影響を及ぼしたのかを問うのに対し、アプロプリアシオンのプロセスを重視するロビスコは、革命家たちがルソーをどのように理解し、利用したかをテーマとする。そこではルソー自身の思想あるいはその正しい解釈は問題にはならない。いいかえれば、予めルソーによって作り出された「ルソー主義」が存在することを出発点とするか、それとも革命期の人びとがどのように「ルソー主義」を生み出したのかに焦点を当てるかの違いといってよい。その結果、バルニがそれぞれの革命家の階級的立場と「正しいルソー解釈」からの距離という座標軸によって彼らの言説を整理できるのに対し、ロビスコはこうした座標軸自体を否定する。明確な輪郭をそなえ、一定の方向性をもつというイメージの強い「啓蒙思想」という言葉を敢えて用いず、思想家の内面においても読者によるその解釈においてもより多面的で柔軟な「啓蒙運動」という概念を本論文のキーワードとしてきた著者は、ロビスコの研究を、ブルジョワ革命論だけでなく、正統派対修正派という枠組み自体を乗り越えるものとして評価している。

本論文の成果と問題点
 本論文の成果の第一は、一定の方向性を備えた特定の思想傾向を連想させる「啓蒙思想」という言葉をあえて用いずに、バレールをはじめとするトゥルーズの知識人たちの思想を分析することによって、いわゆる啓蒙時代の思想の複雑なありようを明らかにした点である。著者がモデルケースとして取り上げた人物たちの議論はいずれも、今日のわれわれが「啓蒙思想」という言葉で理解する内容には収まりきらない要素を含む。この問題を解釈するに際して、「啓蒙」的要素と「反啓蒙」的要素の共存という安易な理解を著者は斥け、「啓蒙思想」と「反啓蒙思想」というふたつの思想潮流の対立を自明のものとする解釈の枠組み自体を再検討するよう促している。一八世紀研究の進展につれて、著名な「啓蒙思想家」だけではなく、今日では忘れられた思想家たち、さらにはいわゆる「反啓蒙的」な著述家についても分析が進み、一八世紀思想を「啓蒙思想」によって代表させるのではない、より詳細で全体的な見取り図を描くことが目指されているが、著者の方法論はそれを一歩進め、一八世紀フランスの思想状況をより具体的に把握しようとするものとして評価できる。
 第二の成果として強調すべきは、新資料の発掘と資料批判の堅実さである。活字資料を検討する場合でも、可能な限り手稿資料を探索し、参照するという著者の方法は分析に緻密さと説得力を与えている。それにより、革命後に初めて活字となったテキストを扱いながら、革命の体験とそれに由来する価値観や信条が過去の見解をどのように整理・改変していったのかが明らかにされる。著者はある意味で「革命が啓蒙を生んだ」とするシャルチエの逆説的主張を具体例に則して検証したとも言えるだろう。また、著者自らの発見によってバレールの「モンテスキュー頌」には実は三つの版が存在したことを論証する叙述は見事である。
 第三は、啓蒙と革命もしくは革命家の形成というテーマを考察する上で有用なモデルケースを提出している点である。上記三つの「モンテスキュー頌」を比較することで、著者は革命直前の政治的緊張が高まる時期にバレールの思想が情勢の展開に対応しつつ、刻々と変化していく様子を克明に描き出した。また、一般には王権との対立姿勢を強める高等法院への世論の支持が一挙に失望へと変わるのは一七八八年九月であるとされているが、少なくともバレールについては高等法院への期待はそれ以前に消滅していたことが明らかにされる。こうした論証を通じて著者は、現実に一八世紀後半のフランス社会を生きたひとりの地方知識人が「革命家」へと変貌するプロセスを具体的に示すことに成功していると言えるだろう。さらに著者のこうした分析は、ダーントンが重視した「どぶ川のルソーたち」つまり社会的底辺で不満を鬱積させていた若い文筆業者たちとは異なるタイプ、すなわちアンシャン・レジーム社会の中でも社会的上昇を見込めたはずのエリートと革命の繋がりを示すものとしても興味深い。
 しかし、以下に指摘するように、課題が残されていないわけではない。。
 第一に著者は「啓蒙思想」という言葉に代えて「啓蒙運動」という用語を提案しており、その意図は評価されるべきであるし、本論文の叙述は著者の意図を実現するものとなっているが、「思想」に代えて「運動」とするにせよ、「啓蒙」という語を使用することが適切であったかについては疑問が残る。「啓蒙運動」とは「思想を生み出そうとする態度・関心」と定義されるが、「啓蒙」という語が入ることによって読者はより限定された内容を連想しがちである。また、著者はカントを念頭に、自らの理性によって既存の秩序を再検討しようとする意志という説明を与えているが、著者が実際に分析した人物たちに見られる諸傾向はこの説明の枠にも収まりきらないほど、多様なものではないだろうか。
 第二に、本論文では、バレールをはじめとするトゥルーズの高等法院弁護士の活動を分析するうえで、『百科全書』との関わり、あるいは利用の仕方が考察されており、一連の考察それ自体は的確なものであるが、『百科全書』を研究するうえで参照すべき先行研究への配慮が十分でなかった点が惜しまれる。もちろん本書は直接『百科全書』を分析対象にしているわけではない。しかし、たとえば、Richard N. Schwabがまとめた『百科全書』の詳細な目録(Inventory of Diderot's Encyclopédie)やFrank A. Kafkerの百科全書派人名事典(The Encyclopedists as individuals: a biological dictionary of the authors of the Encyclopédie)に依拠すれば、トゥルーズの高等法院弁護士の思想的立場をいっそう明確にできたのではなかろうか。
 しかし、こうした点は本論文が到達した高い学問的水準を損なうものではない。
 
 以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したことを認め、山﨑耕一氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2007年10月10日

 2007年7月26日、学位論文提出者山﨑耕一氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「啓蒙運動とフランス革命−革命家バレールの誕生−」に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対して、山﨑耕一氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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