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博士論文審査要旨

論文題目:日本における「公害・環境教育」の成立 -教育実践/運動/理論の分析を通して-
著者:曽 貧 (ZENG, Pin)
論文審査委員:木村 元、関 啓子、久冨 善之、御代川 貴久夫

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一.本論文の構成

日本では1950年代半ばから70年代にかけて、世界の他のどこにおいてより、集中的かつ徹底したかたちで公害問題が出現した。曽貧氏の学位請求論文「日本における「公害・環境教育」の成立            ―教育実践/運動/理論の分析を通して―」は、それに対するかたちで展開された「公害・環境教育」運動に対し、環境教育成立史という視角から接近し、そのきわめてユニークな教育経験のプロセスと意義を明らかにしようとするものである。そこでの運動の担い手の思想、教育実践を生活史にまで踏み込んで分析することで、これまでほとんど明らかになっていない日本の環境教育成立史の一端を明らかにしている。
 
                   目 次

序章 本論文の課題と方法
Ⅰ 問題意識
Ⅱ 先行研究
Ⅲ 課題と方法
Ⅳ 論文の構成

第1部 中国と日本における環境教育の現状;「主体」の問題を中心に

第1章 現代中国における環境教育;国家から民衆への主体の転換は可能か?
第1節 環境教育政策の成立
第2節 環境教育政策をめぐる矛盾
第3節 環境権の主体から環境教育の主体へ

第2章 日本における環境教育の主体;その現在から過去へ
第1節 政策化される日本の環境教育
第2節 日本環境教育成立史へのまなざし
第3節 「公害・環境教育」の成立過程の分析に向けて

第2部 「公害・環境教育」の成立・Ⅰ;実践の模索から全国的ネットワークへ

第3章「公害・環境教育」運動の誕生
第1節 「公害・環境教育」の概念について
第2節 「公害・環境教育」実践の3類型
第3節 「公害・環境教育」研究の組織化

第4章「公害・環境教育」運動の展開
第1節 「公害・環境教育」実践の展開
第2節 「公害・環境教育」運動における「自然学習」の位置
第3節 「公害・環境教育」の理論
  第4節 「公害・環境教育」運動の到達点
  第5節 転換期としての1980年代

第3部「『公害・環境教育』の成立・Ⅱ;西岡昭夫を対象として

第5章 西岡昭夫における「公害・環境教育」の誕生
 第1節 教師となるまでの生活史
第2節 西岡昭夫における「公害・環境教育」の生成過程;1953-1967

 第6章 「公害・環境教育」実践における教育目標づくり;静岡県立三島北高校物理クラブ(1966-1981)の活動を中心に
第1節 物理クラブ活動における教育経験
第2節 目標づくりの構造と「参加」の質
第3節 クラブ活動への評価とその基準

 終章 結論と今後の課題

 付録:西岡研究関係資料リスト

二 論文の概要

曽論文は、日本において1960年代以降展開された「公害・環境教育」運動に対し環境教育成立史という視角から接近し、その教育経験のプロセスと意義を明らかにすることを目的としている。
「公害・環境教育」(以下、括弧を外す)とは、戦後日本の公害問題・環境問題にかかわる教育関連諸活動のうち、1960年代から1980年代半ばにかけて、国民教育研究所の「環境と教育」研究会、日本教職員組合教育研究全国集会「公害と教育」分科会、および教師を中心とする自発的研究集団である<公害と教育>研究会のすべて、あるいはいずれかと緊密なかかわりをもって展開された教育実践ないし運動、さらにはそれらを総合する教育のあり方全体に対して、その担い手たち自身によって1970年代半ば頃から用いられ始めた呼称である。曽氏はこの呼称を手がかりに日本の環境教育の特性を明らかにしようとする。
第1部では、後続の部の公害・環境教育の検討の前提となる中国と日本における環境教育の現状を、とりわけその「主体」の問題を中心に考察した。
 第1章では、まず中国における環境教育政策の成立・展開とその政策をめぐる矛盾とを分析し、その今日的な課題を検討した。
中国の環境教育政策は、産業化社会の枠組みからの移行を課題とするにいたっているが、学校における環境教育はこれまでの支配的なパラダイムから脱却しきれていない状況にあるとする。そのことは、環境保護に関する内容を関連教科の中に浸透させる「浸透式環境教育」に象徴的にみることができるとする。その実態について、都市と農村では環境教育において歴然とした格差があり、環境教育への取り組みを進める都市部においてもその実態は知識伝達型のモデルをとってきた点を確認しながら、他方、今日の中国において新しい展開がうかがわれる点に著者は注目した。その一つが、知識伝達型モデルの克服という課題から「研究型学習」としての問題解決的な学習を促す環境教育の導入であり、その背景には、経済成長の恩恵を受けた中産階層の拡大、労働組合、非政府組織などの社会中間集団の変容にともなって現れてきた環境教育を求める新たな主体の出現があった。
こうした中国の環境教育を取り巻く教育と社会の新しい展開を認めながら、環境保護主体形成の実践の担い手である教師の問題があるとする。すなわち、地域生活者の現実的問題に取り組む主体であり、かつ次世代を育てる専門職として力量形成を主体的に図ろうとする教師主体の形成という側面が見落とされている点を指摘する。
第2章においては日本における環境教育の主体の展開を、21世紀を迎えて政策化される日本の環境教育の動向も踏まえながら整理している。それを通して公害・環境教育の成立過程を分析することの意義について考察した。
日本の政策動向の中で位置づけられる環境教育は、1970年代以後に、ストックホルム人間環境会議(1972)、ベオグラード環境教育専門家会議(1975)、トビリシ環境教育政府間会議(1977)、国連環境開発会議(1992)など一連の国際的な動きの影響のもとで、それに不十分ながら対応する形で内容が作り上げられていると曽氏はとらえる。一方でそれがリアルな日本の環境教育の歴史を踏まえたものになっていない現状を氏は指摘する。そこでは、日本の公害教育実践への評価はほとんどなく、もっぱら欧米の実践に言説の基礎をおいているとするのである。確かに、日本の文部省を始め、教育行政の側が環境教育を公教育に取り入れることによって、環境教育は一定の広がりを見せた。しかし、同時に、環境教育指導者の資格認定などの政策介入によって環境教育を進める主体を限定される危惧を示す。
翻って、著者は、そうした制度的な環境教育とは異なったコロラリーに属する環境権の認識の確立を目指す公害・環境教育を主張し、公害反対運動を担った教師たちに注目する。住民の権利として環境教育を捉え、公害・環境問題に対する教育の責任、反省なしに公害・環境問題を解決できないと考える教師たちであった。
第2部では、公害・環境教育の成立を実践の模索から全国的ネットワークへという流れで捉えようとした。それを通して、公害・環境教育の運動の全体構造を扱っている。
第3章では、草創期の公害・環境教育を、三つの実践と公害・環境教育研究の組織化過程に注目して捉えようとした。
まず、公害・環境教育実践が、それぞれの直面した課題に対応しながら、日本社会の生活現実に目をむけた教師たちの自主的な行動から生み出された点を確認する。そのなかで、その影響力や集約性という点から四日市、熊本、三島・沼津の三つに着目した。そのいずれもが、公害に向かい合い、新しい社会運動としての「環境運動」に参画したものである。そのなかで公害の実態と環境破壊の可能性を教師たち自らの手であきらかにすることで、その原因を究明し、環境運動を進んで担いその経験を発信していったのである。被害実態の調査を行い独自のカリキュラムを開発することで、「公害学習の自主編成」を行った四日市の多田雄一。初めて水俣病を中学校の社会科授業に取り入れ公害に対する批判と責任究明を行った「公害の学習」の熊本の田中裕一。そして、本論文で注目した沼津の西岡昭夫の実践である。前者二つが実際の公害に直接向かい合ったものであるのに対して、沼津の実践は予測的対応という枠組みでとらえられる。公害・環境教育実践を、公害形成の社会的原因を提示しながら、経済発展より人権重視の思想を中心にすえ人間と環境の関係を考える未来文明の設計としてとらえると、その中核に三島・沼津の実践があるとされる。
こうした教師たちの実践は公害・環境教育の組織化に必須の条件を準備してきた。上述の国民教育研究所の「環境と教育」研究会、日教組の教育研究集会の「公害と教育」分科会、そして、<公害と教育>研究会が1971年に相次いで誕生する。前二者が教職員組合をバックにしているのに対して、<公害と教育>研究会は、教師、専門家、教育研究者、地域の住民が参加した民間教育の組織であった。これらが、日本各地の公害事実の把握、生存権・環境権という主権者としての自覚を促す新しい教育内容構成の原理を提起し、交流しながら共有を担っていくという役割を果していった点を指摘した。
第4章では、1970年代から80年代にかけての公害・環境教育運動の展開過程を「分科会」と「公害研」の実践報告と1974年に作成された「公害研綱領」、および公害・環境教育における「自然学習」の位置を中心に検討した。そこでの教師は、公害と戦いながら、地域の住民と学校の生徒との関係を生存・健康・発達の問題を媒介にして、自然環境の享受とその権利の保障をもとめる教育目標とカリキュラムの再編にむけて追求していったとする。そのなかで公害・環境教育は、地域実践と教育実践の統一の問題、環境権と教育権との結合の認識問題、そしてカリキュラムの自主編成と総合学習に関する三つの問題群を柱としての理論体系を構築していったと捉えた。各国の環境教育の生成過程に大きな影響を与えた1977年のトビリシ環境教育政府間会議勧告より以前にこうした動きがあったことは、世界の環境教育の歴史においても注目すべきものとする。しかし、その後の展開については、1980年代以後、1985年夏の東京における「世界環境教育会議」を経て、特に環境省「環境教育懇談会報告」(1988年)を通してみられたように、「公害・環境教育」とは切り離された「環境教育」の政策化・制度化の展開が日本の環境教育の形式化、抽象化を招き、環境形成の責任、環境問題解決の主体所在の危うさをもたらしたと押さえている。
第3部では、公害・環境教育を生み出したとして位置づけた高校教師西岡昭夫を対象として、その思想と実践の展開を検討した。
 第5章では、西岡の個人生活史を踏まえ、地域での環境活動と公害・環境に関わる教育実践を追いながら、彼の公害・環境教育認識の形成基盤を考察した。
 西岡のライフヒストリーを見ると、幼年期には自然への畏敬体験があり、さらに、戦中期から戦後への展開のなかで人間社会と権力への強い不信感をいだき、そこから脱出するように自然の感化力に注意をはらうようになったとする。その上で、戦後、自然科学への転身と理科教師としての自らの構築をなした西岡は、1950年代においては積極的に科学を称揚していたが、1960年代になって公害問題が顕在化しそれへの行政の対応を見るなかで科学のあり方を問うようになっていく。コンビナート建設のための国の公害調査団によってしめされた科学の一般抽象性がもつ権力性の発見はそのなかでなされ、「科学」とそれを伝達する教育のシステムに対して、「もう一つの科学、もう一つの教育」という認識を芽生えさせていったとする。地域や生活を科学という方法に基づいて記録し、まちの未来の姿を考え予測しようという教育を地域の生活者という観点をもって作り上げていこうとしたのである。こうした、地域社会の現実と真実の探求者としての科学的態度の養成は、地域データの直接採集、その相互の関係の把握、学習会を通して住民との共有を経ながら、日本初の公害未然防止住民運動の原動力を作り上げたとする。この成果は、政府調査団のもっている科学的根拠の操作性を指摘した当時の沼津工業高校の生徒たちによる鯉のぼりを使った気流調査につながった。この一連の過程の中に、公害を予知し、実践を促す認識力の形成という西岡の公害・環境教育の基盤を見たとするのである。
第6章では西岡の公害・環境教育の中核の実践として曽氏が押さえた、1960年代半ばから1980年代初頭までの三島北高校物理クラブ活動を中心に公害・環境教育実践の実際を検討した。そこでの特徴は、何を教えるかという教育目標を明確に教師がもちつつも、それを子どもが自分で獲得するという行為のなかで実現させる構造を持っていたという点である。そこでの目標づくりの構造と、子どもが自発的に行動して公害を想像し、それに対応するという行動を身につけるというためにどのような教育過程と「技」を想定していたかの検討を行った。
西岡が目指したのは公害を予知し行動を促す認識の力の形成であった。それを確固として持ちながら、生徒の学習参加と社会参加のプロセスを導き出している。その実践は非常に綿密なものであり、課外教育としての物理クラブ研究において、身近な問題、地域の要求から出発し、環境の基礎調査に基づく地域課題の学習と発見、社会参加へ発展していく。この発展過程を曽氏は明確に辿っている。ここで示された教室で考え、また地域で検証、発信するという学校と地域社会の間での往還は、1960年代半ばからの15年間にわたってクラブの先輩から後輩へと継承されていく。大気汚染、騒音、ごみ処理などの問題などに関わる持続的研究は、地域の環境に関する知識として蓄積され、人間と環境の相互関係・相互作用を総合的に捉える態度と行動を生徒のなかに作り上げていった。その際、西岡は「教師は一歩外に出ると、質問に答えられない」という教師の限界を自覚しながら自らの自己変革も組み込んで実践を成り立たせているのであり、「参加」を成り立たせる教師としてのスタンスに西岡の実践の特質を描き出している。こうした1960年代半ば以来の三島北高校物理クラブの実践のなかに公害・環境教育実践の核心部分を押さえたのである。

三、本論文の成果と問題点

曽論文の成果として先ず挙げられるのは、日本の1960-70年代前半において公害による人間の命と健康が著しく脅かされる状況のなかで、公害反対運動と結びついた公害・環境教育の実践運動をその実践分析にまでおりて詳細に検討を加えたことである。しかも、これまでの研究が見落としてきた史資料を掘り起こし、その運動の底流の解明に貢献した。公害への教育の取り組みはさまざまあったが、そのなかで、子どもの公害への本質的な認識の構築を介した主体的な行動の形成という点に特徴を持つ実践に注目し、そこに公害・環境教育の核心をみることでその教育的な意義について考察を加えた点である。
第二として、公害・環境教育を日本の環境教育の展開史のなかに位置づけ、今日の環境教育の性格をめぐる諸議論を歴史的に位置づけた点である。日本における「環境教育」と「公害教育」との関係は、80年代後半以降形成されていく「環境教育」をめぐる「界」(学会及び政策を中心とするもの)が「公害教育」の歴史的経験を必ずしも十分に継承していないという意味では「非連続」であり、その関係が研究者たちによって十分検討されていないという意味では「不透明」であるという状況があった。こうした状況のうえで、日本の環境教育史の性格規定を「連続性」に注目してその独特な特徴を示したことである。日本の環境教育の形成が日本の固有な問題解決への営為を媒介としている点を再評価し、その点に立脚することで日本の環境教育の歴史的な性格を明示した点である。
第三に、公害・環境教育のなかで示された諸知見を実際の中国の環境教育の現実に照らし合わせて、その課題解決のために重要な指針を与えたことである。中国の環境問題への対応は産業化社会の枠組みからの移行過程にあるといえる。そこにおいて、一定の改革が進められつつもさまざまな矛盾を抱え持つことを見据えながら、その克服の道を環境保護の主体形成という人間形成論に立ち戻って捉える必要をしめしている。こうした問題設定に基づいて日本の公害・環境教育を再評価し、今日の中国の環境教育を担う教師の問題に焦点化することで、その実践的な課題とその解決への重要な示唆を提示した。
第四に、公害・環境教育という枠組みを超えて、西岡の実践分析を通した教育内在論研究への貢献である。どのようにしたら子どもが主体的に学ぶことができるかという課題に対しての一つの回答が総合学習への注目にあり、「総合的学習の時間」の導入というかたちで制度化がなされた。しかし、こうした生きた学力養成ということで登場した総合学習において子どもの主体性に力点がおかれるあまり、逆に伝える内容が空洞化するという事態を引き起こしてきた。それに対してこの論文で描かれた西岡の実践は、教える内容を教師がしっかり持つことで子どものなかで知識が統合され、子どもの主体性を育てる総合学習のあり方を示している。このように西岡の実践の検討は日本の教育実践史の貴重な遺産の掘り起こしでもあった。
以上のように本論文は多くの重要な成果を収めているが次のような問題点や課題がある。
第一点目は、西岡の実践をはじめとする公害・環境教育を捉える枠組みについてである。環境倫理や教育をめぐる人間中心主義と人間中心主義の脱却としての非人間中心主義との関係についての配慮の問題がある。曽論文は、中国の教育政策が産業化社会の「支配的社会パラダイム」にあり、自然と人間の関係を相互依存としてみる「新環境パラダイム」(ジョン・フィエン)に代わることが不可欠としている。そこで典拠とされているジョン・フィエンの議論では、開発産業的社会に対する批判は、人間中心的な観点からだけではなく、自然の内在的な価値を認める、いわば非人間中心主義的な観点からもなされ、それぞれの批判が緊張をはらんで存在していることが示唆されている。しかし、曽氏による先行研究の位置づけなどでは、人間中心主義と非人間中心主義との緊張感が必ずしも十分に押さえられているとはいえない。こうした観点をもう少し強く持って公害・環境教育と西岡の実践の質を捉えることで、今日的な状況も踏まえた、公害・環境教育の提起した問題の奥行きを浮かびあがらせることができたのではないかという問題がある。
第二点として、日本の住民運動の動向などに示された日本社会全体の変化と公害・環境教育の展開との関係分析の不十分さがある。公害教育を過去のものとして位置づけて環境教育を押し出す動きを進めたものとして、著者は「環境教育」というコンセプトが政府のイニシアチブによって導入されることで公定された枠組みが持った力と、環境教育が国際的な視点をもって導入され、その包括性からローカルな視点が排除された点に注目している。しかしそれに加えて、70年代半ば以降の日本の労働運動、住民運動の後退を促す日本社会全体にわたる構造変化への視点がもう少し必要であったのではないか。この時期に社会諸運動が急速に衰退するのは、社会問題に対応する人々のスタンスの変化が存在し、それとあわせて公害・環境教育の担い手の母体であった「環境と教育」研究会、「公害と教育」分科会、<公害と教育>研究会もはなばなしさを失っていったという側面があったと考えられる。そうした公害・環境教育の実際的な基盤の検討も含めることで、社会のあり方を強く問う枠組みをもっていた公害・環境教育の社会的性格に即した分析がより深められたのではないか。
第三には、膨大に入手した西岡の日記資料やインタビュー資料で使い切れなかったものがあるということである。1980年代以降の本格的な検討が射程に入らなかった点とあわせてこれらを全面的に駆使した検討が望まれる。
上記のような課題や問題点は著者の今後の研究によって解決が期待されるところであり、文章表現にやや曖昧な表現が見受けられることも本論文が挙げた大きな成果を損なうものではない。
以上の審査結果から、審査委員一同は、本論文を学位請求論文に相応しい学術的水準を持つものと判断し、曽貧氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論した。

最終試験の結果の要旨

2007年2月14日

 2006年12月25日、学位論文提出者曽貧氏の論文についての最終試験を行った。
 試験において、提出論文「日本における「公害・環境教育」の成立―教育実践/運動/理論の分析を通して―」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、曽氏は、いずれも適切な説明を行った。
 よって審査委員一同は曽貧氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判断した。

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