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社会学研究科講義科目

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地球社会研究専攻 環境 4820 秋・冬 火曜日3時限  2単位

開発援助の諸問題

担当教員:児玉谷 史朗
【教授言語】

日本語

【学部・学年の指定】

大学院生

【授業科目の目的と概要】

本講義は、アフリカを事例として、開発援助(開発協力)と国家、統治(ガバナンス)の関係を検討する。その際、援助国、国際金融機関、国際NGOなどのドナー(援助供与側)が開発援助を通じてアフリカの被援助国の国家や統治に影響を及ぼすという側面とアフリカ諸国の国家や統治が開発援助の効果を制約するという側面があり、その両面を視野に入れたい。

【授業の内容・計画】

第1回 近藤英俊(2007)の輪読を通じて、Ferguson(1990)のAnti-Politics Machineの説とその後の議論を振り返る。Fergusonは1970年代のレソトの農村開発プロジェクトへの援助を調査研究し、ドナーの作り出す「開発」装置が非政治化(de-politicized)された機械として作用し、プロジェクトの増産効果は達成されなかったが、国家の支配は伸張した。
第2回 ドナー側についての議論を近藤英俊(2007)の前半を引き続き読み、またその他の文献を紹介する。近藤(2007)が主張しているのは「時空間のシステム化としての開発」であり、開発言説が、現実認識のモデルかつ現実を変えていく際の理想としてのモデルとなるという。近藤論文に加えて、1990年代に盛んになった開発言説研究の一端を紹介する。
第3回 近藤(2007)の後半を手がかりに、アフリカ諸国の国家に関わる議論を紹介する。「新家産制」(neo-patrimonialism)の議論と統治(governance)に関する議論を紹介する。川端・落合編(2006)『アフリカ国家を再考する』
第4回 この回からは、国際開発と対アフリカ援助の歴史を振り返りつつ、それぞれの時期の開発援助と政治におけるドナー、アフリカ諸国関係を検討する。第4回は1950年代以降の「開発の時代」の始まりとアジアにおける開発主義国家の成立、その後の工業化、緑の革命による経済発展について取り上げる。末廣昭「開発主義」
第5回 アフリカではアジアのような工業化による経済発展が成功しなかった。しかしアフリカ諸国の発展(低開発)パターン及びドナーとの関係は、国によって異なっている。西アフリカにおけるガーナ、コートジボワールの比較、東アフリカにおけるケニア、タンザニアの比較を事例に検討する。ガーナ、ンクルマ政権の近代化政策、コートジボワール、ウフェ・ボワニ大統領の新家産制的支配と農産物輸出型経済成長、ケニアの再分配を伴った成長路線、タンザニアの党国家主導の社会主義。
第6回 1970年代改良主義の時代。1960年代までの経済成長中心の開発路線に対して分配、平等、貧困層への直接支援を重視する改良主義的開発路線の時代。1970年代ケニアの総合農村開発プロジェクト、スラム改善事業。タンザニアのウジャマー村集村化政策。
第7回 経済改革とコンディショナリティの時代 1980年代 1980年代はアフリカにとって経済危機の時期であり、2005年頃まで続く長期の経済停滞の始まった時期。輸出指向工業化で急速な経済成長を続けるアジアNIESや社会主義市場経済に転換して現代化を進める中国との発展の軌跡が大きく異なることになる。この時期にドナー側とアフリカ諸国の関係が大きく変化した。1980年代にはドナー側がアフリカ諸国の経済運営(財政、金融、貿易)や開発政策全般に影響力を行使するようになり、政策の変更や制度の改革を迫るようになってきた。
第8回 経済改革とアフリカ諸国の国家、政治 世界銀行とIMFは構造調整という名称の経済改革をアフリカ諸国に迫るようになった。それがアフリカ諸国の政治や国家にどのような影響を与えたかについては議論がある。アフリカ諸国が自主的・自立的に政策を策定、実施できなくなり、国際金融機関の推奨する自由主義的経済政策や制度に転換せざるを得なくなったというのが最初に考えられる影響である。しかし影響はもっと複雑であるということが議論されてきた。一つは、ドナーとアフリカ諸国の関係がどのように変化したかであり、もう一つは、政策・制度変更や資金援助がアフリカ諸国の統治能力や支配の正統性に与えた影響である。これはアフリカ諸国の政府が二つの支持層(constituencies)に対応する必要が生じたことを意味する。
第9回 「良い統治」と政治的コンディショナリティの1990年代 Ferguson (1990)が開発援助の「非政治化」を論じた時期には、開発援助は技術的・専門的であることを標榜していたが、東西冷戦体制が終結を迎えた1990年代に入るとドナーは援助の条件として「政治的コンディショナリティ」を付すようになり、援助の「政治化」が起きた。援助に条件をつけて経済政策・制度の変更を促進するコンディショナリティ自体は1980年代の構造調整融資で行われており、人権・民主化要求もカーター政権など過去の政権によって行われてきた。新しい点は二つあり、一つは冷戦時代終焉により援助をめぐる東西間の競争がなくなり、援助に政治的条件をつけることが容易になった。第2に、開発プロジェクトや経済政策だけでなく、開発や行財政全般の管理運営を中心とする統治(governance)が焦点とされている点である。これら2点は異なる背景から生じた変化であるが、共通した効果を発揮した。それはガバナンスが開発援助において不可欠の要素となったということである。
第10回 開発批判、新たな開発論と開発援助の見直し
1990年代には開発の時代である20世紀後半の終わり、世紀末に近づき、NGOや市民運動などから開発(援助機関)批判、債務帳消し要求、参加やエンパワーメントの重視などの議論が高まった。これに対して、主流派においても貧困削減や社会開発の重視、人間中心の開発(人間開発、人間の安全保障、人権重視の開発)、参加型開発など新しい開発論が提起された。Jubilee 2000などによる債務帳消し要求の国際的運動、世界銀行、IMFという国際金融機関の廃止要求あるいは改組要求などの運動が起きた。1990年代には開発(援助機関)批判、NGO・市民運動などからの要求に対応して、主流派の開発路線が変化していった。経済改革と経済自由化により経済成長をめざす路線から社会政策と社会開発を重視して教育、保健医療などの人間への投資を行う貧困削減戦略へ移行した。
第11回 2000年代 コンディショナリティからパートナーシップによる貧困削減へ: PRSPとMDGs 貧困削減戦略書(PRSP)は、アフリカ諸国などの重債務貧困国に債務救済を認める条件として策定される貧困削減の計画で、世界銀行・IMFが承認する。つまり重債務貧困国(HIPCs)に対する債務救済と連動した貧困削減計画である。世界銀行・IMFが承認するという形式になっているところに、構造調整時代のコンディショナリティ政治の影響を見いだすが、同時にPRSPは外から条件をつけてアフリカ諸国を変えていこうとするのではなく、オーナーシップとパートナーシップを柱として、被援助国政府の自主性を尊重し、ドナーと被援助国は対等なパートナーの関係にあるとされる。被援助国政府は、オーナーシップを持つが、国内の利害関係者(stakeholder)の参加を得て貧困削減戦略を策定、実施する。これもパートナーシップとされ、
貧困削減戦略書は、パートナーシップという仕組みでガバナンスと参加型開発を取り入れた形になっている。
第12回 2000年代後半以降の条件変化、アフリカの経済成長と道半ばの貧困削減
 2005年頃までにMDGsと対アフリカ援助の枠組みがほぼ出揃った。しかしこの頃にアフリカを取り巻く経済的条件は大きく変化し、アフリカの開発と援助の環境も大きく変化した。

【テキスト・文献】

テキストは用いない。参考文献は講義中に示すが、主な参考文献を挙げておく。佐藤仁(2016)『野蛮から生存の開発論:越境する援助のデザイン』ミネルヴァ書房 元田結花 (2007) 『知的実践としての開発援助ーアジェンダの興亡を越えて』東京大学出版会。佐藤誠「民主化とガバナンスのジレンマールワンダ愛国戦線政府の評価をめぐってー」『立命館国際研究』26-4、2014年3月。

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