「取り乱す権利」
(『クリニシアン』 43.447p85-86, 1996掲載)

 私は、ここ数年、癌などで治る見込みのない患者、「死にゆく人」への真実告知の問題について研究をしているが、その中で最近よく思うことがある。それは医療現場で、「死にゆく人」に最も奪われているのは「取り乱す権利」ではないかということだ。

 「患者が取り乱すから、告知をすべきではない」

 「本当のことを知らされて患者が混乱してもフォローする余裕がない」

 「ショックを受けた患者を支えるターミナルケアなどの施設がないから告知できない」

 そんな意見は告知論争の中では飽きるほど聞かされる。

 「精神的にしっかりした患者なら告知を考える」

 「理性的にとらえる人には真実を伝える」

 そんな考えをもつ医師も多い。

 これらは、一見医師による思いやりのあふれた言葉に聞こえる。そして実際、多くの場合、医師は患者のことを思って、善意からこの言葉を発しているのだと思う。けれど、これらの発言は、あからさまに言ってしまえば、「取り乱すんだったら何も教えてやらないよ」「取り乱さないんだったら本当のことを教えてやるよ」というのと、なんらかわりはない。

 確かに、患者がショックで混乱し取り乱す姿を周りから見るのはつらいことだし、患者だって取り乱さずにすむならそうしたいと思っているに違いない。

 けれど、死の影を意識させられたとき、取り乱すという行為を許されずに、人はどうやってその衝撃をのりこえられるだろうか。取り乱すことによって、心の中の不安や怒り、悲しみを外に出し、周りの人と共有することによって、ようやく人は「死にゆく過程を生き抜く」ことができるのではないだろうか。つまり、取り乱すという行為は、死の受容に不可欠ではないのか。

 そうなると、死の受容を重要なゴールとして掲げるターミナルケアは、もっと患者の「取り乱す権利」を尊重すべきだということになる。ところが、ターミナルケアによせられる期待の多くは、どちらかというと反対方向に向いている。

 私たちの多くは、人がどう死にゆくべきかという規範を暗黙のうちにもっている。取り乱されては困る、命の明るさを失ってもらっては困る、と常に見送る側の立場から、生きていく側の立場からものをみている。そして、ターミナルケアが、その規範を「死にゆく人」に押しつけてくれることを期待している。

 日本のターミナルケアは今、その勃興期から普及期に移りつつある。今後ターミナルケアがどのような方向に向かっていくかは、現時点において、社会からのこういった期待にどの程度抵抗できるかにかかっているような気が私にはする。

 取り乱すという行為は、患者にとってただの心情の発露ではなく、周りの人たちへのメッセージでもある。

 そして、ターミナルケアの出発点であるはずの、「患者中心の医療を」とか「患者の主体性を尊重する」ということは、とりもなおさず、患者に声を与えるということだ。

 ただ、死にゆく人をおとなしく手なづけるのではなく、患者の「取り乱す権利」を尊重し、時には一緒に怒り、泣き叫び、「取り乱し」てくれるようなスタッフこそ、最高のターミナルケアの提供者になれるのかもしれない。


Copyright 宮地尚子 1996