リレーエッセイ 国際協力の現場から(10)
国際社会にあふれている心的外傷 (外交フォーラム 1997年11月)

人為的なものが多い外傷体験

 私の仕事は教育と研究が中心だが、臨床では「精神科のお医者さん」でもある。大学の所属は衛生学だし、「ご専門は?」と聞かれると、医療人類学とか、国際保健とか、公衆衛生とか、文化精神医学とか、時によってころころ返事が違うのだが、アイデンティティとしては「精神科医のはしくれ」が一番比重が大きい。医学部を卒業する前、何科を選ぶか迷って世界保健機関(WHO)で国際保健に携わっている先輩に相談したことがある。正直に「国際保健もしたいし精神科もしたい」と言ったら「精神科ねえ。国際保健には役に立たないね」とあっさり切り返されてしまった。それでもめげずに、というか、どちらもあきらめきれずに、大学の公衆衛生の教室に所属しながら、研修病院で精神科をするという道を選んでしまったのが、今の私のアイデンティティの混乱の始まりである。

 その精神医学の分野で近年「外傷性精神障害」への関心が高まっている。「外傷性」とは、心的外傷、つまり何か深く心を傷つけるような出来事によって精神的な症状が生じるということである。日本では1995年の阪神大震災と地下鉄サリン事件がきっかけで注目を浴びるようになったのだが、米国などではかなり前から研究がなされ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という診断名が80年から正式に使われている。私は89年に米国留学してその概念を知り、その後たまたま知り合いの日本人留学生が発砲事件に巻き込まれ、PTSDと診断されて、助言を求められたことがあった。その時「日本にはPTSDという診断名はない」と答えたのが、今では嘘のようだ。もちろん、何かショッキングなことがあると人間の精神がバランスを失うことくらいは誰でも知っている。ただ、明確な言葉がそこに与えられることの意味は大きい。PTSDは、精神のバランスを崩した人たちを「弱い人」「病人」とみなすことから、「何がその人の心のバランスを崩したのか」という「外傷体験」に目を向けさせる。つまり、その人の内面から外部に原因追究のまなざしが移されるわけだ(まったく前者の見方がなくなるわけではないが)。

 こうしてみると、国際社会にはどれほど外傷体験があふれていることか。戦争、内戦、飢饉、自然災害、貧困。殺害の恐怖、殺戮の目撃、けがや病気、拷問、強姦、飢餓、コミュニティの崩壊、家族の離散、財産や故郷の喪失。そして、そのうちのどれほどが「人為的」なものであることか。人為的な外傷のほうが自然災害などより精神障害を起こしやすいということは、専門家の間ではよく知られた事実である。人間は、他の人間と交わることでのみ人間として生きていける。だから人為的な外傷によって、他の人間への基本的な信頼感が奪われることは、生き方を奪われることにも等しい。

 心的外傷からの回復には、気が遠くなるほどの時間や、周りの人々の優しさ、本人の力が必要になることも多い。傷ついた人たちがゆっくりゆっくり自己を癒そうとしているその間に、世界のあちこちで容赦なくたくさんの新しい傷が人々の上に降り注ぐ。「人為的」であることは「必然的ではない」ということのはずだが、この世界ではそうではないらしい。

援助を受ける人の無力感も

 ところで、PTSDでは、危うく死ぬとか重傷を負うといった急性の一時的な外傷体験が主に想定されている。しかし、慢性的に外傷を受ける状況もしばしばあり、その場合は急性の外傷とは大きく異なる影響を心に及ぼす。慢性的な外傷とは、たとえば事件にあって長い間監禁されるとか、戦争で捕虜になるといったことだが、もっと身近なものとしては子どもへの虐待、夫婦間や恋人からの暴力などがある。日本でもこれらの問題への認識がようやく高まってきたが、その傷の表れ方は十分理解されているとは言い難い。慢性的な外傷を受けた人たち(サバイバーとも呼ばれる)は一見、自分から進んでその状況に留まったり、同じような事態を自分で何度も招いたり、無気力なように見えることがある。そのため、支援しようとする人たちからも誤解を受けてよけい孤立することがある。専門的に見ると、最近「多重人格」として関心を呼んでいるような解離症状が関連していることもあるし、無力な状態に長い間置かれたため「学習性無力感」を持ってしまったのだと説明されることもある。しかし実際にはサバイバーは、脅しをかけられていたり、情報を遮断されていたり、他の選択肢がなかったり、他の人に害が及ぶのを防ごうとしていたり、一番傷の少なくて済む方法を冷静に選択したりしている。たとえ「無力感」を感じていたとしても、それは「無気力」とは似て非なるものである。まさにそうやってサバイブして(生き延びて)いるのである。

 国際保健の場で時々、援助を受ける人たち(たとえば難民)が無気力に見えること、病気から回復しようとか、自分から状況を改善して健康になろうとする姿勢が感じられず、援助者側が苛立ちを感じることがある。すべてが同じメカニズムとは言えないが、この世界が慢性的に与える傷の大きさ深さにもっと思いを至らせることが必要なのかもしれない。ちなみに、10年以上前に意見を求めたWHOの先輩から最近こう言われた。「これからは精神保健の時代ですよ」。「何よ、今さら」という言葉を呑み込んだのは言うまでもない。


Copyright 宮地尚子 1997