「医療人類学と自らの癒し」
(『現代のエスプリ』 335.p174-183、1995年掲載)

「癒し」という言葉

 「癒し」という言葉が、近年よく使われている。

 このことは、現代社会のなかに、「癒し的なもの」が不足していることを、なんとなく人々が気づき、危機感をもっていることのあらわれだろう。そして同時に、「癒し的なもの」がどうして不足してしまったのか、自分たちが取りこぼし、うち捨ててしまったものから、なにか、ほんとうはとても大切だったんじゃないかというものを拾いあげる試みも、あちこちに見られている。

 医療人類学(そして文化精神医学)といった学際的領域に関心が高まっているのも、こういった「癒し」への渇望と無縁ではない。もちろん、これらの領域はここ数年の、日本という社会のなし崩し的な、いびつな国際化の結果でてきた問題(たとえば、外国人労働者の健康問題、外国人「花嫁」の精神的ストレス、海外駐在員の適応問題など)への対応策として、急遽かりだされているという側面も大きい。しかし、一方で、もっと長い歴史スパンでみたひとつの転換期、従来の社会が追い求めてきた「発展」や「豊かさ」にいったん疑問符をつけ、少し立ち止って見てみようという、時代の要請を担っているともいえる。

 本稿では「癒し」、そのなかでも「自らの癒し」というものについて、医療人類学的に斬ると何が見えてくるのかを探ってみたい。それは、医療人類学がはたしてこういった「癒し」への期待に答えられるのか、医療人類学には何ができて何ができないのかを探る試みにもなるだろう。

自らの癒し

 「癒し」の前に「自らの」をつけ加えたのには、いくつか理由がある。

 ひとつは、癒しという言葉がそろそろ新鮮な喚起力を失い、「ああ、また、癒し」といった感じで、説明がなくてもわかった気になってしまうことにある。

 ふたつめには、「癒し」という言葉が含む(含んでしまった?)予定調和性、何かまるくおさまって「癒えていく」という感じに対し、「自らの」という言葉をつけることで、癒しの主体性、癒しの関係の中でぶつかりあう複数の「意志」を視野にいれておきたかったことにある。

 みっつめには、主体性とも関係するが、「自らの」を加えることで、癒しにおける「治療者」の立場を、少し揺らがせてみたかったことにある。この巻の特集の主題である「文化精神医学」との関連を見たとき、医療人類学は非常に近い位置にあるが、この「治療者」の存在意義の自明性については両者の認識の差は大きい。学問領域というのは、普通なまえの一番最後についている部分が、もともとの出自をあらわす。医療人類学と文化精神医学は、人類学と精神医学にわかれるが、自己の出自を根本から批判するのはどの分野であっても難しい。

 精神医学は近代医学の周辺にあり、文化精神医学はその精神医学のまた周辺にある。けれども、文化精神医学も、学問性・科学性をまとい、知のヘゲモニーを形成する一端であることにかわりはない。周辺であろうとなかろうと、独占企業である「医業」をになう専門職者として、治療者の欲望は手厚く保護されている(同じシャーマンの研究でも、この点で人類学者のそれと、治療者のそれは大きく異なることは指摘しておいてよい)。もちろん精神医学は、反精神医学という伝統をマイナーな形ではありながら内包してきた歴史はあるから、「治療者」という概念に全く問題意識をもたないわけではないが、今、文化精神医学を見つめなおすうえで、あらためて「病者を癒す治療者」というパラダイムから離れ、「病者が自ら癒す」ということに向き合ってみるのは、有効な戦略だと思うのだ。

ふたつの医療人類学

 ここで混乱を防ぐために、医療人類学を簡単に2つに整理しておきたい。ひとつは近代医学のための人類学、もうひとつは近代医学をも研究対象にふくめた人類学である。それぞれ、英語だとAnthropology for medicine とAnthropology of medicine とでも訳せるが、注意しておきたいのは、このふたつでmedicineの意味が大きく異なり、その違いが問題であることだ。

 つまり前者においては、医療 medicineイコール近代医学のことであり、近代医学だけを真実と見做すか、少なくともその優位性を疑わない。近代医学の基盤となる自然科学の客観性と中立性を信じる立場といってもよい。後者では、医療とは「病いと癒しをめぐる人間のあらゆる営み」を含む広義のもので、近代医学は医療のごく一部にすぎず、近代医学のパラダイムもひとつの解釈のしかたにすぎないとみなされる。

 人類学の方からいうと、前者においては、人類学は近代医学のために利用されるべき知識のひとつであり、後者においては人類学が分析の枠組みを提供することになる。前者をかりに「近代医学的医療人類学」、後者を「相対主義的医療人類学」と呼ぶこともできるだろう(ふたつとも、わたしの造語である、念のため)。

 ちなみに、近代医学とは、現在世界の多くの地域で主流として用いられている西洋医学、正統なものとして制度化されている医療、自然科学を基盤とするBiomedicineをさしている。ようするに日本では、病院で医師や看護婦が行う、いわゆる一般に「医療」と思われているものである。当然のことながら、ここでは近代医学をひとくくりにしているが、近代医学も一枚岩のやわな代物ではない。近代医学のなかにも、基礎と臨床、身体医学、精神医学、社会医学など種々のものが含まれる。ただ重要なのは、そういった多様なものを含みながらも、それらの間に厳然たるヒエラルキーが存在し、その頂点には機械主義・還元主義的な価値観を体現した分野が常に位置するということである。

 近代医学的枠組みがあまりに我々の思考を支配しているためか、日本における医療人類学へのラブコールも、前者のタイプ、近代医学のパラダイムに安住しつつ、何か物たりなさを埋めたい、もっとスムーズにいく方法をしりたいといったものが多いようだ。しかし、人類学の存在価値は、当たり前の前提を覆す破壊力にある。医療人類学のおもしろさ、こわさは、はじめは「ちょっと拝借」というつもりでも、だんだん、後者のアプローチにはまり、もとの解釈枠組みからずれることで、逆に自分自身が見えてくることにあるように思う。

自然治癒力

 さて、「自ら癒す」ということを考える出発点として、「自然治癒力」という言葉をあげてみよう。

 一般に、「自然治癒力」という言葉がさす現象は、根本的治療法がないとされる病気や慢性疾患が、軽快したり治る場合に働く力のことである。アトピーがよくなったり、癌患者が長生きしたり、極端な場合は、癌が消えるといった現象をおこす源泉で、その力を増強するためには、食事療法、イメージ療法、サイモントン療法、いきがい療法、音楽、絵画、園芸などの芸術療法、気功、漢方、鍼、ヨガといった多様な代替療法が用いられる1)。このほか、プラセーボによる治療効果や、ファイティングスピリットを持つ乳癌患者の余命の長さ、逆に配偶者の死後一年以内に死ぬ人の多さなど疫学的知見も、精神と身体の影響し合う結果として、「自然治癒力」との関係で説明がなされる。(自然治癒力と同じことをさすのに、自己回復力という言葉が使われることがある。「自然に」ということと「自分自身が」という、ともすると正反対の意味をもつ言葉が並列するのは興味深い。木村敏が語る「みずから」と「おのずから」の分析を思いおこさせる。)

 ようするに、「自然治癒力」という言葉が用いられるのは、有効と証明されている医学(近代医学)的介入がないにもかかわらず癒しがおこることであり、そこには「医学的に説明がつかない」というニュアンスがしばしば追加されている(それゆえ癌の自然退縮者は「例学的患者」という呼び方さえされる)。

 医療人類学は「自然治癒力」の事例の宝庫だ。なにしろ、呪いで人が死ぬとか、おまじないで病気が治るとか、「医学的」には不思議なことばかりなのだから。

 だから、そんな事例を「医学的」に解明する試みも多い。たとえばvoodoo deathという、ある人に呪いがかけられると、その人が本当に数日後に死んでしまうという有名な現象がある。この現象の説明を、キャノンは呪いをかけられたことへの恐怖による急性ストレス反応だと分析した2)。その後、イーストウエルは、脱水がvoodoo deathの直接死因であると結論づけ、周りの人間も本人も、死ぬという運命を信じこんで、それなら早く死者の世界に送って再生を願った方がよいと、食べ物も飲み物も控えさせる様子を観察している3)。

 また、治療儀礼についての研究でスリランカの悪魔祓いを調査した上田は、そこに含まれるメカニズムに、癌に対するサイモントン療法やイメージ療法との類似を指摘し、シンボルが免疫力に働く力を浮き彫りにしている4)。

 もちろん、これらの人類学者達は、近代医学的説明だけを真実と思っているわけではなく、信仰や世界観、象徴や隠喩といった癒しの文脈を丹念に辿っている。ただ、読者に「わかった気になる」「納得してもらう」ために、還元的・近代医学的説明にひきずられ、自然科学的種あかしに堕してしまう危険性はけっして低くない。(これは人類学者より読者側の問題かも知れないが。)

 すでにのべたように、近代医学も一枚岩ではないから、最近では心身医学や社会医学、疫学などにおいて、行動科学的な説明、たとえば、生きがい、ライフスタイル、ローカスオブコントロール、社会支援、主観的健康感といった概念を用いて、様々な現象(自助グループへ参加したり、精神療法をうけることで癌患者の生存期間が延びることなど)の説明が試みられている。心理社会的側面と身体的側面とのつながりを明らかにする、こういった社会科学・行動科学的説明を含めると、世界各地の伝統的な治療儀礼もかなりの割合で、その有効性が「科学的」に説明可能となってきている。

 また、近年急速に発展した精神神経免疫学の分野にいたっては、近代医学の側に、身体と心をつなぐための新しい強力な自然科学的言語をうみだし、「病いは気から」に「医学的」お墨付きを与えられるまでになっている5)。(ユング的「集団無意識」さえも脳のA10神経によって説明されるご時世だ!)

癒しの相対化

 自然治癒力は、近代医学でもかなり説明可能になったが、近代医学を相対化する立場にたつと、どう見えてくるだろうか。

 結論から言うと、「自然治癒力」は概念の有効性を失ってしまうはずだ。なぜなら、自然とは何か、治癒とは何か、そういったこと自体が、文化によって違うからだ。お祓いをしたから治ったのなら、それは「自然」ではないし、症状は残っていても周りが気にしなくなれば、それは「治癒」かもしれないのだから。

 近代医学と比較して、様々な文化の治療儀礼に共通する特徴をあげると、以下のように言えるだろう。

 まず、治療の対象は、病者個人だけに限らず、もっと広くとらえる場合が多い。例えば家族、例えば共同体、例えば宇宙体系。それらがあるべき姿から歪んでいるということを、病者は症状によって伝達するメッセンジャーにすぎないかもしれない。

 つぎに、治療的まなざしは、いま現在の症状だけに向けられているのではない。症状がおこったところからはじめるのでなく、前世とか、何代も前のご先祖様にまでさかのぼって、今の現象(つまり病気)を解釈したり、何か未来のことを暗示するものとして、病気はしばしば理解される。「なぜ私だけがこんな病気になったの?」という問いへの答えは、多くの登場人物を含んだ、歴史的なストーリーとなる。

 このように、近代医学よりも、空間的広がりと時間的広がりをもった解釈の上で行われる治療儀礼はとても興味深いものである。そこには、身体を、病者を、その周りの人間を「もてなす」装置がふんだんにもりこまれている。

 例えば強烈なイメージの喚起、ユーモアと笑い、地位の逆転、暗示、他者とのつながりの感覚、その人の社会的な価値の再提示、役割と任務の提供・・・。こういった治療儀礼のなかで治療者と病者、その周りの人達の境界はしばしば揺らぎ、固定性を失う。そして、参加者みんながイキイキしてくる。そこで達成される「癒し」はもはや、症状の消失だけではなく、とらわれるこころの解放であったり、人間関係の修復であったり、社会の再統合であったり、大きく広がってゆく。

近代医学の特殊性

 こうしてみると、近代医学の特殊性がネガとしてはっきり浮き出てくる。病いを個人の、それも特定の臓器に限定すること、今、ここにある症状に注意を集中し、遠い過去や未来とのつながりは守備範囲外とすること、そして、治療から「もてなし」の感覚を排除することである。

 近代医学の「癒し」の場である(はずの)病院は、制度であり組織であり、管理と秩序が重視される。病院にない(あっても歓迎されない)ものをあげてみよう。笑い、ユーモア、ばか騒ぎ、悪ふざけ、パフォーマンス、うた、音楽、おどり、化粧、ごちそう、セックス、子供(「患児」は別にして)、泣き声、動物・・・。これらは全て「もてなし」に重要な素材であり、無秩序性を内包し、だからこそ儀礼のなかで治療的カタルシスをおこしうるものである。それと比べると、白い、清潔なだけの病院の診察室は、何と貧弱な舞台装置であることか。

看護と治療

 医学教育の中で、自然治癒力という概念を考えるような機会はほとんどない。「医者として患者に何ができるか」ということが学ぶべきことであって、「患者が何をできるか」は問われない。専門職支配。そこでは患者はなにもわからず常に働きかけられるだけの客体である。

 もちろん、自然治癒力、本人の回復力は近代医学にも不可欠なものであり、それが認識されていないわけではない。手術の後は、患者本人の体力の回復を待つしかない。ただそうなると、医師はひっこんで看護領域にまかせるという姿がよく見られる。

 ナイチンゲールは、人間には自然に病気を治そうとする力が備わっており、その自然治癒力を最大限に引き出すのが看護の基本的役割だと明言しているが、それはけっして医師との分業をめざすためではなかったはずだ。

 波平は、広義の医療、つまり病いと癒しをめぐる様々な営みにおいて、治療から看護が分離したのは、近代医学の特殊性であることを指摘している6)。よくいわれるキュアとケアの分離である。近代医学のまちがいは、看護を治療から切り離したことにもあるだろうが、それにもまして問題なのは、看護を治療より下位に位置づけたということだろう。医師と看護婦の地位の差は大きく、医師は看護学を学ばないのに、指導的立場をとる。あくまでも医師は、自然を操作し攻撃し支配することをめざし、人(身体の機能も含めて)を動かすこと、思い通りにコントロールできることから治療者としての万能感を得ようとする。その対極にあるのが「待つ」という行為だ。

 ほんとうは「待つ」時間はけっして「無駄な時間」ではない。しかし確かに、休養、食事、清潔、などの世話をし、いつおこるかわからない変化をただ待つだけより、さっさと悪いところを切りとり、悪い菌を殺す薬を注射する方が、能力があるように見えるし、感謝もされる。(このことは精神科においても本質的に同じだ。「こころ」という特殊な「臓器」を扱っている分、待つこと、沈黙の中でおこっていること、そして「聞く」という行為の意義は、他の分野よりよく認識されているだろうが。)

 ただこれは必ずしも医師が悪いというのではなく、 結局、現代文明の在り方そのものと抜き差しならない関係にある。効率性優先、コントロール優先、生産性重視の現代文明において、病いや、老い、障害は速やかに管理されるべきものになっている。一般市民も、地道な従来の養生を軽視し、企業戦士で24時間働いて、故障したら身体を病院に持っていって治せばいいという機械的な身体観を内在化してしまったこととも関係しているだろう。

医療人類学の今後

 沖縄のシャーマンは、他の地域でなら「病気」とみなされる兆候を示すことで、神に近い者としてプラスの価値を与えられ、社会的役割が用意される。それは、「病者」が生き生きとすごしやすい世の中をつくるメカニズムとも解釈できる。

 「病気をして、よかったことはどんなことがありますか」と尋ねる治療者がいる。健康の有り難さを知った、今までの生き方を反省した、このままだと自分がつぶれるという危険信号をくれた、周りの人の優しさを知った、と笑顔で患者が答えるとき、その風景は、病いを受け入れ、付き合っていくという点で、沖縄の風景と重なってみえる。

 医療人類学による「自らの癒し」の相対化から結局出てくるのは、「病むとはどういうことか」「病んでいるのは誰か」「病むことはよくないことなのか」といったラディカルな問い、思考変換である。

 今の、この日本において、癒しという言葉を生き返らせ、そこに含まれる意味を吟味し、回復させることは確かに重要だが、「人にやさしい政治」というスローガンのように、やけに耳障りのいいだけの「癒し」を蔓延させるのは、癒す者と癒される者というかたちで権力関係が固定してゆく過程を隠蔽するだけであろう。

 病う主体から「癒し」を見つめ返すことの意味。それは病いの多義性への注目にもある。

 最近の医療人類学の流れとしては、病いを苦悩、苦痛の表現、自然の叛乱としてだけでなく、異議申し立て、逃げ道、抵抗、ものを動かそうとするかけひき、弱者の作戦といった多様な形で捉えなおし、人々の実践(日常的慣習)を丹念に描写したり、フェミニズム理論の洗練化とともに権力性へのあらたな接近をこころみたり、その中で「身体」概念を再構築したり、といったことがおこなわれている7-9)。医療を社会統制の手段と見做す社会学的な見方は、ずっと以前からポピュラーであったが、そこからもう一歩踏み込んで、単に統制されるだけではない「病人」のしたたかさと、より巧妙になる権力の網の目が、すこしずつ解きほぐされてきているように感じる。

 もちろん、こういった動きの背景には、近年の人類学内部にある人類学そのものに対する危機意識、表象のありかた、文化や言語間の権力関係、民族誌における描く者と描かれる者との関係についての問題意識や、それをこえようとする実験的試みがある。近代医学批判の一端を担ってきた人類学も、専門職、専門的知の体系ということを問いにした場合、無罪とは程遠い。治療なんてだいそれたことはしない、描写するだけだという言い訳はきかない。描くことの無謬性などとっくに失われている7)。

 そして、描く者と描かれる者との関係は、とりもなおさず、癒しをめぐる「専門家」と「素人」との関係と重なり合う。医療人類学には、描く者と描かれる者の関係の上に、癒す者と癒される者の関係をもまた見据えるという二重の作業が必要とされる。

 病気はコミュニケーションでもあり、戦略でもあり、不条理でもある。「治療者」側の人間としてなすべきことは、じつは、「そんな簡単に癒されてはたまらないのだ」という「病者」の叫びを、いつも耳をすまして聞きとろうとすることなのかもしれない。

 

引用文献

1) ブライアント, バリー編著: がんは癒される. 日本教文社. 1994

2) Cannon WB: Voodoo Death. American Anthropologist 44, 1942

3) Eastwell HD: Voodoo Death and Mechanism for Dispatch of the Dying in East Arnhem, Australia. American Anthropologist 84, 1982

4) 上田紀行: スリランカの悪魔祓い. 徳間書店. 1990

5) 川村則行: がんは「気持ち」で治るのか?精神神経免疫学の挑戦. 三一書房. 1994

6) 波平恵美子: 医療人類学入門. 朝日選書. 1994

7 Lock M: Encounter with Aging. Univ. of California Press. 1994

8) Scheper-Hughes N: Death without Weeping. Univ. of California Press 1992

9) Steedly M: Hanging without a Rope. Univ. of Chicago Press. 1993

10) 江口重幸: 語られることと書きとめられること. (p120-151 波平恵美子編:人類学と医療)弘文堂1992

参考文献

波平恵美子(編): 文化人類学 医学書院. 1993 

Kleinman A: Rethinking Psychiatry. Free Press 1988


Copyright 宮地尚子 1995